楽園の確率~Paradiseshift.第4章 明けぬ夜を征く 明けぬ夜を往く 第5話
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公開日:2017年10月16日 / 最終更新日:2017年10月16日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第4章
明けぬ夜を征く 第5話
冥界へ至る天空の結界は、夜半から妖精達がざわめき、沸き立っていた。ここは真夜中の闖入者が過ぎ去った後だ。
妖精達の羽が星より儚く煌めく中で、流星が駆け上がる。
正邪がどこに潜伏していたのかは分からないが、昨日の今日で姿を現すなど、誰も予想だにしていなかった。ただそういった期待を裏切る輩だという事だけは、信じられた。
流星の行く手には巫女服の少女、しかしサラリと伸びた長髪から霊夢でないと断定。
「悪いな早苗、先に行くぜ!」
「魔理沙さん?! 抜け駆けして一人でなんて――」
東風谷早苗の特徴的な緑色の髪を横目に、ドップラー効果を飛び越える。魔理沙は今、跨がるホウキにミニ八卦炉を仕込み、そこに魔導燃料を目一杯に注ぎ込んで大推力を得て飛んでいた。正面に大気を遮る障壁を張り、今や亜音速にまで至っている。
誰よりも早く到着しなくては。逸る気持ちに呼応して、まだ加速する。
流石に白玉楼から要撃に掛かるでろう魂魄妖夢より先に接触するのは困難だろうが、白玉楼は幽々子も事情を知っていると言う。紫からどこまで話が通じているのか――特に先頃の推理が届いているのかが――疑問だが。
目的の優先順位が変わり、現状の最優先事項が正邪を泳がせる事から身柄確保に移行した今、事はずっと分かり易くなっている。それでも魔理沙は急いだ。
実は一つの懸念が、先の博麗神社での話し合いの結果浮上していた。紅魔館関与が否定できなくなったのだ。ほぼ確実に味方なのではあろうが、事情が異変前にまで遡った場合――先の異変こそが黒幕の思惑外、正邪の暴走の結果だった場合、異変に当たった者達の中にこそ黒幕に与する者があろうと言う推理。
そして今度は、銀髪のメイド服を追い越す。
皮肉にも今は味方の中で、疑心に駆られ暗鬼を招いている。
魔理沙自身は当然違う、霊夢はそんな謀略より賽銭が恋しい。
しかし、紅魔館には前科があるし、主人のレミリアは吸血鬼。果たして吸血鬼の魔力で打ち出の小槌が駆動するかは定かで無いが、吸血鬼を『鬼』と見なすのも、幻想郷では叶うであろう。これは一種の“呪(しゅ)”に近しい。
「どっちにしろ、とっ捕まえて全部明らかにしてやる!」
ここからは、黒幕より先手を取って手配書に乗じる。
まず魔理沙と妖夢、それに咲夜が。そしてその後にはマミゾウに霊夢が控える二段構えだが、後者が今回出張らないのは針妙丸の警護のため。
「何を企んでいるのか知らないけれど――」
突如として魔理沙を包む魔力の渦、前方の視界を埋める無数の銀の輝き。高速飛行する魔理沙に、相対位置を変化させず滞空。時空関係の魔法の発動――
「やっぱりお前らが黒幕か!?」
「何か企んでいるのはあなたじゃなくて?」
それを確認する前に、銀の刃は一斉に魔理沙へ向かう。かなり濃密な弾幕、しかし不可能弾幕でもないし、スペルを用いたでもない。彼女は心的にも交渉の余地を残している。
「なら悪い! 昼辺りに例の件を紫達と話してたら、お前らへの疑いが拭えない話が出て来たらしいんだ。だから念のために先行させてもらった!」
「なんだ、褒賞目当てで心変わりしたのかと思ったら、何を懸念したの?」
「輝針城異変自体が、黒幕の思惑の外だって話だ!」
「なるほど」
それなら異変に当たった者にこそ疑いが向く上に、咲夜の場合は主人が主人。冷静な判断の下、それを以て彼女は納得し、矛を収める。
荒事の中での話し合いも茶飯事と言える二人ならではの、迅速な和解。
「ではあの異変には、前段階があったって言うのね」
「なんですそれ、私も聞きたいで――」
いつの間にか追いついていた早苗に、魔理沙と咲夜の矛先が向く。残念ながら今回、彼女は協力者ではない。
奇術『エターナルミーク』
聞き覚えのあるスペルの宣言に、魔理沙は急速離脱。
全方位に大量の弾幕が展開されるが、距離を取れば余裕もある。咲夜はあえて、魔理沙が対処法を知るこれを用いたのだ。
逆にいきなりの宣戦布告に面を喰らった早苗は、顔一杯に疑問符を浮かべながら無数の盲撃ち弾幕を浴びる羽目になった。
「いたたたた! 私が何したって言うんです!?」
「何もしなくていいから、野次馬してないでとっとと帰りなさい」
言いながら咲夜は、距離を取った魔理沙に、白玉楼へ向けて一本のナイフを投げ、その軌跡を見せつける。それは先に行けという合図だった。
自身にも紅魔館にも、やましい考えは無い。ここは退き、ついでに関わりない早苗の足止めを。これは咲夜なりの身の潔白の証明といったところか。
早苗も別に何かを企んでいる様子は無いが、いちいち説明するのも面倒。ここは褒賞目当ての者同士の諍いという形になってくれるのを期待する。
「恨んでくれるなよ。全部終わった後でちゃんと説明してやるから」
恨むなと言う方が無理であろうが、誰の返事を待つでもなく、今は独行に戻って更に上を目指す。
ぼんやりと幽世(かくりょ)から姿を現す石段。その両側から二百由旬の楼閣を囲う桜並木は、秋の神の力を借りぬままに色づいている。
落ち着いて眺めれば美しくも見えよう。しかし燐光と微かな星明かりに照らされたこの闇の中では、それを鑑賞している余裕も無い。目指すは、交戦しているであろう二人の姿。
魔理沙は視線の先に、幾度か不自然な閃光が走るのを見る。霊力を帯びた剣閃、妖夢の物に違いなかった。
先に「半人半霊とはなんと中途半端な奴だ」などと正邪は幾度か罵っていたが、妖夢の心にはなんの波紋も生じていない。努めて冷静に正邪の攻め手をいなし、あるいは真っ向から弾幕を切り裂く。
そして攻め手が僅かに緩んだところに、間髪入れずスペル宣言。
彼岸剣『地獄極楽滅多斬り』
赴きも何も感じられない名称のスペル、それが正邪の自棄気味の心を煽る。
「いいさ! こうなったらあの世に行ってやる!」
言葉とは裏腹に、両手にはマジックアイテムを携えてやる気満々。
『打ち出の小槌(レプリカ)』with『ひらり布』
魔力によるブーストが掛かっているとはいえ、ただの鈍器に過ぎないそれでは、妖夢の剣戟と射撃に勝てるはずも無い。
魔理沙は正邪の撃墜は確実かと、妖夢の射程圏内に入らないよう慎重な飛行に移り、ミニ八卦炉も手元に戻す。
次の瞬間に目にしたのは、尋常で無いレベルの弾幕。
「……っ! これは?!」
妖夢の放ったスペルではない。無数の矢が石段を射上がってゆく。それは魔理沙の後方からも迫り、すんでの所でそれを躱す。
「おいまさか、嘘だろ!」
『天壌夢弓』
不可能弾幕に対しては、スペル宣言もせずに応じよう。
殺意や敵意を超越した無心の妖夢の剣戟に対して、底なしの悪意が射返される。
妖夢は避けようなどと考えず、佩いた大小を自在に振るって妖術に相対する。自身の腕を信じるが故の姿勢だ。一本や二本、否、十本や二十本の矢が襲いかかってこようが、妖夢なら全て切り落として見せられよう。
だが見誤った、これは数が多すぎた。
妖夢のスペルが迫る弾幕の圧力と自身の射撃の停止により行使中断となり、正邪は完全な攻勢に転じる。
加速する攻め手に、妖夢の防御が飽和する一歩手前――
魔砲『ファイナルマスタースパーク』
現在注ぎ込める最大出力を込めた魔砲を、妖夢救出のために放つ。
一瞬にして射線上の矢が消失。魔理沙は魔砲を放ったまま火点を移動させ、妖夢の退路の確保に努める。
「こいつはお前向きじゃない! 交代だ!」
「無念。甘く見て――」
「退け! いいから!」
魔理沙の叫びは彼女の身を慮ったもの。見れば素肌も服も、相当矢に切り裂かれている。
妖夢は意固地にその場に留まろうとせず、自身の油断を認めて白玉楼への階段を上がって行く。またあちらで体勢を立て直そうという考えもあるのだろう。
「ははっ。やっぱりごっこ遊びのお友達同士、仲良しだなあ!」
正邪の煽り文句を無視し、魔理沙は術に対処する。
射上がる矢は尽きず、しかし魔砲の射線にかかっては消えてゆく。大人しく避けるか、魔理沙のような大出力の魔砲を用いれば、そこまで恐れるべきスペルではなかった。
(それよりも、あいつが術を使えたって話の方が一大事だ)
文が手配書に脅し文句のつもりで書いた力が復活してしまった。
いや、これもいっときの事に過ぎない。彼女は強力な鈍器――打ち出の小槌の似姿に、尽きる前の『鬼』の魔力を以て再び真の打ち出の小槌の力を招いたのだ。
「正邪、もうどこにも行く先なんて無いんだ。大人しく投降して、お前に異変を、幻想郷への叛逆なんて馬鹿げた企みを吹き込んだ黒幕について、洗いざらい話せ」
『天壌夢弓』の効力終了を見て、魔理沙も魔砲の行使を中断。そして、手を差し伸べる。
引っ込められた敵意に、正邪は僅かに動揺の様子を見せる。
「黒幕? そんな奴、居るもんか。あれもこれも、全部私が、私の考えでやったんだ!」
魔理沙は「そうか」と一息ついてから、諭す。無駄だと分かっているのに。
「だから叛逆って何への叛逆なんだ? ここには支配者なんていない。為政者もいない。ここはとっくに楽園だ。人間だって人里から離れなければ妖怪と共存できる。お前が言う弱者の代表だって、こうして生きてるだろ」
とてもではないが本心からは言えない、白々しい言葉だ。
(お前の暴走はどこから始まったんだ、今のお前は誰から解き放たれたんだ)
知りたいのはただそれだけ。それだけの為になら、いくらでも方便を説いてやろうと。
「このだまくらかしの楽園全部にだよ! 思い知らせてやる。お前らが食い散らかされるだけの家畜だってことを!」
逆転『リバースヒエラルキー』
魔理沙の天地の感覚が反転。ヴァーディゴどころの騒ぎでは無い、左右すら鏡映しになっている。
ただこれも初見のスペルではない。魔理沙は心を落ち着かせながらもある疑問を浮かべる。
なぜスペル宣言をしたのか。
スペル宣言には、決闘のルールであると共に絶対的な力の差の平滑化という意味合いもある。これだけの魔力に溢れた状態なら、スペル宣言による威力の上乗せなど必要無いどころか、却って枷になる。更に直接命にまで危険が及ばないようフェイルセーフが為されるのに。
天地左右の感覚を混乱させたまま、互いに地の利の無くなる高空へと逃れる魔理沙。
「地面にぶつからずには済んでも、こいつはどうだ!」
放射状に弾幕を展開し、それで以て薙ぎ払いにかかる正邪。
天地左右の間隔を失したままでは、これを避けるのは至難の業。ならば避けない。
恋符『ワイドスパーク』
ミニ八卦炉に貯えられた魔力はまだ十分。
魔理沙自身が更なる魔力を注ぎ込むと、励起されたエーテルが星の形を取って全周に弾幕を形成。それらは正邪の射撃に力負けして散っていく、ただしこれは前座に過ぎない。
「分かってるんだ。お前がやってることはみんな、やりたくなかったことだって!」
弾幕の渦の中心に向かって、否、拡散する弾幕すら飲み込む光の奔流。
それは感覚の混乱などにかかずらわず、正邪を捉えた。
「説明して、もらいますよ……」
白んできた空の下、巫女服のあちこちを切り裂かれた早苗が言う。当然やったのは咲夜。
先の正邪との戦闘の結果であるが、勝ちも負けも無く、結局のところ取り逃がしてしまった。
一度はワイドスパークで仕留めたかと思われたが、その第一波を撃ち終わった時点で正邪は逃亡した。『ひらり布』を使い、あの射撃をシンプルに凌いだのだった。
飛行を乱された魔理沙には追跡は叶わず、リバースヒエラルキーの効果が切れるまで静かに浮かび続けるより他なかった。
今のところ方針に変更は無い。それも含めた説明が、本日最初の魔理沙の仕事。
「悪かったよ、咲夜も。一応、今まで分かっている辺りまで聞いてくれ」
紅魔館に疑いが向いた件について、咲夜は先ほどのとおり「それではしょうがない」と理解を示す。早苗は今まで蚊帳の外だったのに対して憤慨。更に守矢神社は関係ないと、僅かにでも疑いを向けられたのにも猛抗議。
これまでのいきさつを聞いた二人の反応は対照的。ただし関心は同じ一点に寄せる。
「ではその黒幕の思惑は、文さんが掴んだネタとやらの実現を画策しててそれを天邪鬼に仕込んで。でもそれに失敗したあいつがそのまま、黒幕の思惑外の行動に突っ走ったと」
「妖怪の山がらみの不祥事かしら、旧地獄との間に要らない不和を起こしたとか。新聞屋さんも権力には弱いのね」
それは思ってもみなかったと魔理沙は目を見張る。妖怪の山の不祥事であれば、文も軽々に表沙汰には出来まい。だが――とまた、別の方へ思考を向ける。
(そういや、あいつの妖怪の山での立ち位置なんて、考えたこと無かったな……)
よく人里に出張り、人間に近しい妖怪だとは知っている。時には脅しかけても来るが、それも今回の手配書に込めたのと同じ意図があるかも知れない。
「でも最近は、山の方でそんな派手な話は無かったと思いますよ。私も天邪鬼になんて今回初めて会ったし。文さんに直接聞きたいけど、一度事情があってお蔵入りさせた話なんて、絶対教えてくれないだろうしなー」
「それにしても黒幕の件。今まではスキマの杞憂かとも思っていたのだけれど、妖夢やあなたを相手にして逃げおおせた力を見ると、存在を信じたくなるわね」
「あれこそイレギュラーだったけどな、お褒めにあずかり光栄だぜ。ともかく正邪追跡は継続だ。最悪、殺すのも已む無しと紫は判断してるけど、出来れば、生け捕りにしたい」
「生け捕りね。殺すよりも難しいわよ?」
ナイフに陽光を浴びせながら咲夜が言う。
「そんな物騒な……」
妖怪退治を楽しいとは言える胆力はあっても、殺すのまでは気が引けるのか、早苗はナイフのチェックをする咲夜を見て魔理沙の後ろに隠れる。
「分かってる。でも文の言うとおりなら、あいつを殺せば別の非道い事態を招きかねないんだ。また次の天邪鬼が私達の前に現れるまで」
それが幻想郷の中で完結するのか、外の世界までを巻き込むのかは分からない。ただ、誰かが犠牲となるのだけは間違いない。
「殺さず、永久に封じる方法などは無いのかしら」
それが存在するのならばその策を。咲夜の言葉は至極当然の意見、しかし魔理沙はそれに忌避感を覚える。
「本来は、そういった妖怪の受け皿が、旧地獄だったんだろうけどな」
やはりあそこで何があったのか知る必要がある。文が駄目なら鬼か土蜘蛛に、ヤマメに聞くしかないと魔理沙は決心する。
しかし夜は白んできたし、自身も夜通しの行動でへとへと。妖怪と違い、魔力などで疲労も睡眠も補えないのが人間の辛い所だ。
「二人とも、本当にすまなかった」
別れ際、魔理沙がしおらしくして頭を下げるのには、二人とも揃って驚く。
「あなたより、もっと謝って欲しい人は他にいるけど、それもこれが解決してからね」
「あーえーと……とりあえず、ここから先は守矢神社にも活躍を、ってことで!」
感情に従えば糾弾されても不思議は無いのに、あえて魔理沙をそうはしない二人。
魔理沙は二人にへつらったのではなく、心のままに詫びた。二人がそれにどう応えるかなど考えず。思惑はそれぞれにあるが、彼女らはそれに、現在共闘すべき関係にあるという再確認で答えた。お互いにそれだけで十分だったのだ。
(お前にはなんで、これが出来ないんだ……)
思惑など乗り越え、そうするべき思いを一つにする。
それだけの事すら彼女に許されていないという理不尽に、魔理沙は憤った。
∴
夕日の昇る逆さ城。
魔理沙達から、打ち出の小槌のレプリカと、当初の鬼の魔力が籠もった器物との合体が、かなり危険な結果を招くという報告を受けた霊夢は、あえてここで網を張った。案内役の針妙丸と、護衛のマミゾウと共に。
当然、城内は紫達による調査が済んでおり、ここには彼女が目当てとするアイテム(これは紫達が欲していた物と同じだ)が無いのは判明している。
結果として彼女はここに訪れた。これは珍しく合理的と言うより、短絡的な行動だったが、当然この陣容に抗うなど出来ず、目的を果たせず退散していった。
やはり妖力のブーストは一時的な物だったらしい――
――またその翌朝、妖怪の山の西塔。
「針妙丸が彼女の逃走を助けてしまったというのが、やるせないわね」
それら一連の戦闘の子細を聞きながら、文が椛に語り掛ける。
「椛、その後の消息がまた不明だというのは?」
椛は首を振ってから答える。
「今回は全く不明瞭ですが、前に一度、博麗神社の方に向かってから姿を消した事がありました。あそこには比較的大きな風穴が開いてますから、ひょっとしたら……」
そこから先は、数人がかりか、あるいは以前やった様にはたてと協力しなければ見透すことはままならない。
「まさか旧地獄に……彼女の行動原理、大体分かってきた気がするわね」
「文様が奴の考えを? 私には無理ですね」
「私だって理解したくはないよ」
「では、次はどこに現れると思うんですか?」
「御山。いえ、守矢神社」
「なぜそうお考えに?」
「奴は徹底して奇をてらう方向に動いている。しかしどれも、合理性に欠けている。それも私達から見たら、わざとそうしているかの様に」
先に旧地獄でひと騒動起こしてからの現在、そちらへの潜伏などは無理筋と見えるのに、あえてそうした事。であっても、望みが全く無い場所を目的地とはしない様子からの推察。
手配書まで発される原因となった妖怪の山方面への再度の前進は、彼女からすれば、奇をてらったつもりになり得る。これも傍から見れば、あくまで“つもり”でしかないが。
思えば、むしろ魔理沙の元に長らく潜伏し続けられたのが、彼女の行動原理からしたら異例だったと言える。
(あれは、安住の場所を得ようと考えないのか?)
いやそれこそ、彼女に課せられたサガ――呪い、軛なのであろう。
これが深い見識の元の合理的な行動ならば、真なる革命家と受け取ることも出来るのに。
「子曰く「兵者詭道也」。されども奇策とは、奇をてらえばいいという物でもない。勇ある者は勇無きように見せ、能ある者は能を隠せ、と。なんだ、白狼相手に兵法の講義でもやっておるのかぁ?」
不意に、酷く顔色の悪い、やせぎすで短髪の天狗が二人に声を掛けて来た。
どこまで聞かれたのか。二人は平静を保ちながら揃って向き直ると、文から彼に答える。
「これは英彦山玄庵(ひこさんげんあん)様。いえ、件の天邪鬼追捕の策を練っていたのです。手配書は回って博麗の巫女までもが動いたというのに、結局今も逃げられたままでして。今し方、先に巫女が対応した際の状況を、犬走より聞いていたのです」
血色は蒼いのに随分とアルコールくさい玄庵にも、文は慇懃に応じる。
「玄庵様。またこんな時間から酒精の匂いを漂わせて……」
椛の鼻は、離れていても不快なほどの臭気に耐えかねたらしく、ついつい苦言。
「ふん、こんな使い走りなど、酒でも入れなきゃやっとられんわ」
文もこの様な破戒的な振る舞いをする者、それも多くの信仰を集めた権現にもそれが居るのをよく知っているが、少なくともかの人物は、この様にだらしなく管を巻くような有様ではなかったのも思い出す。
この男、元々は福岡県と大分県に跨がる英彦山に在し、八代天狗にも数えられ鎮西(ちんぜい)一の天狗とされる英彦山豊前坊(ぶぜんぼう)の、直轄の部下。英彦山衆としては主席となる天狗。
彼を使役できるのは豊前坊ただ一人とはいえ、なるほどそれも役不足では気にくわないらしい。
「それと射命丸、拙僧は「玄庵さーま」と甘く呼べばいいと言っただろう。我らがご本尊様とも混同するし。そうそう用件だが、その豊前坊様がお前の話を聞きたいと仰せだ」
「はあ、御山に戻っていて幸いでした、下界からでは骨が折れますので。して、豊前坊様は何処におわすのでしょう?」
案内するから来いと、不精髭も見苦しい顎をしゃくり上げる玄庵に、文は粛々と応じる。
一度だけ椛の方を向き、目配せする。あちらは頼むと。
殆どの伽藍が廊下続きで繋がった西塔。豊前坊の所までも、地面に降りる事無く向かう事が出来る。
文も今は大人しく玄庵の後に続くが、どうもこの人物は虫が好かない。
縦割りの組織の中でその垣根を越え、英彦山ナンバー2という肩書きに物を言わせたかと思えば、自身は断固としてその職責の内でしか動こうとはしないという傲岸ぶり。
文ですら、書陵課での仕事に追われている最中に、主計部長の彼から書類を山ほど押し付けられたれた覚えは、両手では数え切れない。(類似の件で、幾度飯綱を通じて抗議しても改善されなかった)
外の世界に居た時の彼は、相当に際どい行いに手を染め、その手柄で以て今の座に就いたとも聞いている。今も反社会的組織がかの地で跋扈しているのも、彼が作った負のインフラが残っているからなどという、さすがに眉唾に近い話までも。
ただ少なくとも、彦山八百坊三千と謳われた勢力を有していた折には、その戦力の補強の為に積極的に天狗を動員させたり、衰亡の間際に立たされた時には座主(ざす)の意向など無視して強硬な連合を画策したりと、豊前坊を表に出さない形の汚れ役を買って出たらしい。
戦功はともあれ、数多の人妖の死を以て利を得てこの地位に在るというのが、日頃の面倒よりも、根源的な部分で文が相容れないと考える理由だ。
「ときに射命丸よ」
「なんでありましょう?」
彼は歩きながら酒臭い口を文の耳に寄せ、囁く。
「たまには御山の宴に顔を出さんか。鴉天狗とは言え、同席を許されるほど古い天狗の中で、お前ほどの上玉は居ないからな」
これも不快と思う理由のまた別の一角。
「セクシュアルハラスメントで検非違寮に直訴しますよ」
「はっはっ、性的嫌がらせ、だったか? よく言われたものだ。お前を可愛がってくれる鞍馬殿に、よぉく甘えるがいい」
文から進んで鞍馬を頼りにした試しなど無いが、周りからはそう見えているであろうとは自覚している。今の発言もそれを意識したものだったが、彼には通じないらしい。
いちいち癪に障る。
苛立ちを募らせる文の耳が、ふと遠雷の音を捉える。いや、遠雷にしては軽い音だし、火頭窓から覗く空は清々しいまでの快晴のまま。
「ふむ、火仗(かじょう)か」
「火仗? こんな時間に慶事も弔事も――」
火仗とは、要は鉄砲。
さっきの音は空砲で、これは博麗大結界が確立する前後に取り入れられた礼式の一環。
そもそも、しきたりにも大きな差異がある多数の宗派が入り乱れる妖怪の山。各種の差作法や礼式にもローカルルールが蔓延した際、これを斉一なものにしようと取り入れられたのが、武家の様式や、それを更に近代的にした軍隊的礼式だったりする。(ただし挨拶などに挙手礼などはせず、礼拝が基本ではある)
故に火仗の管理や使用は『典礼官』以下の組織の所掌。
「ついさっきお前が口にした検非違使の、出陣の号砲だ。ふん、天邪鬼追討などに検非違寮を動かすかよ。権現自ら出張って叩き潰せばそれで終いだろうに」
「玄庵様、今なんと?」
「天邪鬼退治だ。先般公告された手配書は、幻想郷に檄を飛ばすと共に、御山が兵を出す正当性を示すための物だったんだろう」
「そんな……」
まさかそこまでの行動に出るとは考えていなかった。いや、当然及ぶべき考えに至らなかった自分を責めるべきだ。文は体内の熱が失われる錯覚を覚える。
「あの御仁らの事だ、またぞろ何か企んでいるに違いない」
御仁らとは御八葉の事であろうが、一体彼らが何を企むというのか。やはり、幻想郷においては妖怪の山が第一と、覇を唱えるつもりなのだろう。この箱庭の楽園で。
文にはそんな事は知った話ではない。真なる危機の陰が見え隠れする現状にあって、今そこへの手がかりが失われる瀬戸際かも知れなくなったのだ。
(このタイミングで? やはり御山に――いや、今の御山に鬼の魔力を持つモノなど……)
ただ、これからの英彦の話が如何なる物であっても、速やかに終わるとは思えない。
(椛、頼んだよ)
翼が及ばないのならばその脚が。昔からそうして来た通りになるよう、文は祈った。
検非違寮の兵に続き、椛が守矢神社方面に駆ける。
どこに潜伏していたのかは依然として不明ながら、正邪が妖怪の山を、守矢神社方面にめがけて飛んでいるのを確認。文の推理は正解だった。
だが、駆けつけたところで何ができるのか。
先に正邪を捕縛したとしても、妖怪の山の一員である椛が、これを検非違使達に引き渡さない道理は無い。それでは椛が罪に問われる。
早苗に今回の件が明かされたのは知っているし、そうであれば彼の社の二柱にもそれは伝えられたであろう。
ただ彼女らも、組織の一員でこそ無いが、妖怪の山と領域を摩する者同士。それに新参者という弱みが前面に出れば、真偽が確かでない正邪の案件よりも、隣人との友好関係を優先するだろう。
誰が、どう動くのか。どう動くべきか。
その答えと選択肢は、既に局限されていた。
正邪はまだ山にも到達していない。このままなら検非違寮の兵が先に接触していただろう。しかし彼らは、神社よりもかなり手前で足踏みしていたのだ。
「おっと、これは妖怪の山の天狗殿らか。折角だから我も天邪鬼追捕に参じようとしたのじゃが、これはどういうことだ?」
これに兵達の長に任じられていた少尉(しょうじょう)が前に出て叫ぶ。
「貴様は尸解仙の道士! 妖怪の山に勝手に立ち入るならば逮捕するぞ!」
烏帽子を被った少女は、武装した天狗の群れを前にしても、恫喝にすら少しも動じず、堂々と答える。
「うーむ、仙人なのか道士なのか、ちゃんと認識してもらいたいものじゃが、まあよい。我は山の神社への参拝のついでに手配書を思い出しただけだ。ここはまだ守矢神社への参道であろうに。我はまだ妖怪の山に立ち入ってはおらぬぞ」
彼女は聖徳王豊聡耳神子の同志にして部下、古代日本の尸解仙、物部布都。
仏教と神道と道教を股に掛けた尸解仙が参拝とは、中々の口上である。
それよりも、妖怪の山の中での神社という領域の境界に関しては、あえてグレーゾーンのままになっている。これを以ての処断は難しい。
ならばここは声の大きい方が勝つが、
「屁理屈ばかりをこねおってからに。者ども、引っ捕らえよ!」
先に手を出した方の負けになるのは必定。
一斉に襲いかかる十名からの隊伍を、布都は仙術を用いながら軽く迎え撃つ。視線を椛に投げ、先行を促す余裕すら保ちながら。
それに応じて一人前進した先で、椛は更に驚くべき人物を目にする。
「伊吹様?!」
妖怪の山には元々、鬼が君臨していた。そこでも特段に大きな力の持ち主、四天王と称された鬼の一人が、今そこに居たのだ。山でのヒエラルキーの低層に在る白狼にとって、伊吹萃香がここに戻っていては驚かない方が難しい。
「よお、お前あのブン屋の知り合いの白狼だったよね? 私も天邪鬼の話は聞いてるよ。ここの神様二人は、山の下から上がって来た道士とのいざこざの調停に向かったよ。って体で。こっからは私がどうにかするから、とりあえず天邪鬼の場所を教えてくれるかな」
萃香はごく当たり前の様に、椛に問いかける。
確かに、彼女であれば追捕使からの要求も有耶無耶に出来る。それに、確実に正邪を捕らえられるであろう。
椛は萃香の問いに応じ、正邪の現在地を精密に計る。
「ほぼ真南、距離はおよそ一里と二町。こちらから迎え撃ちますか?」
見れば萃香は瓢箪を傾け、悠々と酒を煽っている。酒精の匂いは玄庵よりも凄まじいが、この場は歯を食いしばってひたすら耐える。
「いや、来るってのならここでゆっくり待つとしようか。手間は少ない方がいいし。それよりさ、あの小鬼を捕まえて、欲しい情報が出て来た後は、どうするつもりなのかな?」
椛ははたとする、考えてもみなかった。自分はその如何を決断する立場にないし、判断する頭も持っていない。あくまでも命令に従うだけ。
「私は、指示に従ってるだけですから」
「じゃ、あそこの天狗達が押し寄せたら、はいそうですかと黙って渡すつもりだった?」
「……はい」
軽蔑するであろうか。鬼相手ならそう思われても仕方ない、特に今の煮え切らない態度では。椛は半ば恥じ入る気持ちで萃香の応答を待つ。
「お前さんも立派な組織人か、難儀だねえ。ちょっとはいつもはお前さんが毛嫌いしてるブン屋を見習ってやりなよ。あいつ、ああ見えても骨はあるんだから。私も嫌いだけど」
「ええ、それは知ってます。嫌になるぐらい……!」
「ホントに難儀だよ。ああところで私は、友人二人からあいつの沙汰を任されてるんで、その通りにさせてもらうからね。あしからず」
友人二人。片方は紫だが、もう片方はもう一人は、
「来ました!」
椛は感情と行動を切り分け、捉え続けていた影が一つ奥の山稜を越えようとするのタイミングで、萃香に知らせる。
もう一人の友人、先般の件の意趣返しか。星熊勇儀に引き渡されたら、正邪はどうなる。寓話の中の天邪鬼をなぞって八つ裂きにされて、また悲劇が広がるだけじゃないか。
そんな困惑と、役目との板挟みになりながら――
(もうあんな物は、見たくない……)
しっかりと頭上を見据える眼光はしかし不安に満ち、それ以上に尾や耳に感情が表れる。萃香は性格にそれを読み取るが、貶しなどはしない。
「安心しなよ。多分これが誰にとっても、一番、幸せな途だ」
そう言って飛び立つ萃香の背を、椛は呆と見送る。
再度考える、彼女らが正邪をどうする気なのか。
落ち着いて思い返せば、萃香も勇儀も一見粗野には見えても、奔放な振る舞いがそう思わせているだけ。実際は賢者にも近い深慮を持っているに違いない。
だからこそ、正邪の処分にも、迷わず最善の策が取れるのだろう。
殺すのが危ういなら、封じるしかなかろう。幻想郷には、長らくそうされてきた者が、妖怪に限らず存在する。正邪も彼女らと同じくされるのだ。
椛にとっても天邪鬼は忌むべき存在。であれば、後は萃香に任せて溜飲が下がるだけの沙汰を期待して待てばいいだけ。
だのに――
「違う。やっぱりそれも、駄目なんだ……!」
斃すでもない、封じるでもない。ではどうするのか。一番近い考えを端的に言えば、それは極めて高慢でエゴにまみれた二文字に収束する。
救済。
椛の考える『救済』は、箱庭の護法達の本山――妖怪の山の意義を辿ったものではない。これはあくまでも、椛自身が抱く想いだ。
天邪鬼を救う。なぜ己がそれを考えるのだ。椛は自らに問いながらも、これには明確な答えを持っている。この自問自答は、始めから定まった意思の再確認。
彼女は、思うとおりに生きられなかった、生きられないようにされた全てのモノ達が負わされた業の体現。
それは鬼であったり河童であったり、深山に潜んだ覚や土蜘蛛、橋姫もそうだ。
それに――
「ちょっと椛。今のまさか伊吹様じゃないよね?!」
はたてが降り立つ。
珍しく外回りか。今回はあちこちで事が起こっている、念写では間に合わないのだろう。
「そのまさかです。あの方自ら、天邪鬼捕縛に打って出ました」
――この娘と、その母も。
「英彦山豊前坊様。斯様な時分のお呼び出し、如何な用向きでありましょうか?」
入室と同時に礼拝。顔を上げてそう言った文の視線に居たのは、座椅子でくつろぐ柔和な老爺。彼が鎮西一の天狗と呼ばれた英彦山権現豊前坊その人である。
彼は案内の玄庵を下がらせると、文を手招きで呼び寄せる。
三人も入れば狭苦しくなるであろう、こぢんまりとした茶室。二歩歩けば彼の用意していた席に着くことが出来た。
「おう、おう。最近、またあちこち飛び回っちいると聞いてな。飯綱殿もばり苛ついとったけん、そこでちょこっと昔話ばしたいち思ってな」
「昔話、ですか」
「今飛び回っちいるんは天邪鬼の件でやったか。射命丸、また何か企んどうとせんか?」
やはり知られていたか。そこまでならまだ、知られていても問題は無い。
それよりも彼の柔和な笑みが少しも崩れていない。それがむしろ恐ろしい。
「彼奴ん動きに乗っとんじゃなかんか? あん戦で、鞍馬殿ご自慢の陰陽兵器ば斃しい、天や我らち、人ば繋ぐもん切り裂いちあん時んごと」
それはもう、九百年近くも前の話だ。今更その話を持ち出して何を語りたいのか、文にはすぐに察しが付いた。
要するところ、今回の天邪鬼の幻想郷転覆の企みに乗じ、文が妖怪の山から何からを切り取りに掛かっているのではなかろうかと、彼は言っているのだ。
文本人からすれば、余りにも馬鹿馬鹿しい話。だが彼にとってはそうではないのか。
妖怪の山の一部の者からの文への恨みは、根の国の底に穴を穿っても足りないほど深い。先ほど彼が言った“あの戦”が全ての元凶であり、それは文がこの地でも一番古い天狗となった原因と同じだった。
「まさか、私の如きに出来る事など、限られるどころか何もございません」
「それもそうじゃったか。いや、今は鞍馬殿にも認められとうお前ば疑うつもりも無かったんじゃが。ワシ等んごたる田舎者にはありがたい革命やったしな。しかし――」
「しかし?」
「きさんはよくても、あの娘はどげんやろか?」
神使の娘として生まれ、やがて外道に落とされた自身の恨みなどは“ここ”に一分も入り込んでいない。
この山犬は誰かと共に生き、誰かの意思を汲みながら歩んできた。権力や権威、単なる力による建制に収まるのは犬狼のサガ。そもそもそこには恨みなど生じない。
そう自身を律する椛とは対照的に、半ば好き放題のはたては、萃香のお出ましに素直に不快な感情を現す。彼女が言うところのドン引きという表情だ。
「うわーマジかー。出てくるんじゃなかったかなぁ」
「伊吹様に任せれば解決ですよ。あの方ならどこに逃げようが、幻想郷の中に居る限りは確実に見つけ出して絡め取れます。今まで手を出さなかったのは、情報が得られるかどうか、確定するのを待っていたんでしょう」
言ってから椛はハッとして口に手をやる。
「情報って、天邪鬼から? 一体何のネタよ、教えて椛!」
ズイッと詰め寄るはたて。言い逃れが出来ない椛は事の大枠までを答える。
「彼女に幻想郷転覆の企みを行わせようとした、その主体の正体についてです」
黒幕の思惑を、輝針城異変の成功の目があった段階かその前、旧地獄を巻き込んでの騒動までに限るかで、話は大きく異なる。だが多くの状況は、それが異変直前までに区切るべきであるのを示していたし、紫達の結論もほぼその通り。
はたての目は急速に智恵をあふれさせ、僅かな情報から状況への理解を広げる。
「……旧地獄を決起させるのがその主体――黒幕の考えなら、その意図は何?」
「え?」
「これどうせ文が言い出したんでしょ。私は天邪鬼が天邪鬼らしい騒動をやらかしたとしか思ってなかったんだけど。文の説を採用するとしても、地底を溢れさせて、そっから先はどうさせたかったのかの動機が抜けてる。文はこれが何か言ってなかった?」
この件を取り仕切っているのが紫であるのを、椛は言わない。今の話を続けるだけなら、文だけで十分だった。
「いえ、何も言ってませんでした。ただ、その黒幕を洗い出そうとしか」
「……今の状況、そのまま当てはまりそうね」
「今の状況。天邪鬼に対しての検非違寮の進発、がですか」
「手配書を出したのに誰も敵わないものだから、今度はあれを盾にして堂々と兵隊を出したんでしょ。逆に考えればさ、今回は、正当な理由を付けるために手配書を出させたって考えられる。ここで地底の一件に戻るよ。もし天邪鬼の地底調略が成功していたとして話をすれば、旧地獄が溢れたら、その時点であっちをやっつける理由が出来上がる」
椛は理解が追いつかないながらも、重要な点にだけは気付いて指摘。
「でもそれをやるには、黒幕、溢れた旧地獄を迎え撃つ側にも相当な戦力が必要ですよ」
それが可能な勢力など、幻想郷のどこにあるのか。
他には無い。ただ一箇所、この足下を除けば。
「御山……」
正当に旧地獄の妖怪を殲滅出来たなら、妖怪の山に敵う勢力などはもはや無くなる。
妖怪の山にも多くの犠牲者が出るのを厭わず、かつ、確たる勝利をもたらせる公算を持ち、幻想郷に真に覇を唱えようとする者がいるなら、この理屈は通る。
「そんな……いや、天邪鬼の企みは、小人族の携えた打ち出の小槌の力が大前提です。旧地獄での件も先の異変も。当初はそれに黒幕が魔力を注ぎ込んでいたんだと。その小槌の稼働に必要なのは鬼の魔力なんです、今の御山に鬼はいませんよ」
勇儀も萃香も鬼は皆、妖怪の山を出て行った。大天狗が幻想郷に移住するのに前後して。
また八大天狗と呼ばれる者やそれ以下の権現格にも、鬼の名を冠し、あるいは鬼神と同一に語られる者はいる。
しかしそれらは外の世界で信仰を保ち、あえて幻想郷には訪れようともしていない。
「あんまり考えたくないんだけどさ」
「何です?」
「私、権現格でもないのに、鬼神って名乗った天狗を一人、知ってるのよね……」
引きつった笑いを浮かべるはたてに、椛は強く頷く。
それは陰陽兵器『護法鬼神』と呼ばれた、鞍馬僧正坊の最高傑作。
古き英雄、源九郎義経をよく導き、かの源平合戦の裏で彼に投機した鞍馬山と奥州藤原氏の両者に、いっときは間接的な益をもたらした鴉天狗だ。
既に彼女は喪われ、大八洲のどこにも居ない。ただその血筋は、今まさにここに在る。
「いやいや待って、無理、待って。私はそんな話まったく知らないし、鞍馬の若作りとかその他諸々のジジイか誰かにどうにかされたなんて、ぜぇったい無いから!」
はたては自分で言っておいて、極めて大仰に動揺。
頭の回転は文といい勝負であろうが、良くも悪くも素直な性格は、決して謀略に向くとは言い難い。椛が少々口は悪くてもはたてを好むのは、そんな心根の純朴さを知るからだ。
「と、とりま、やっぱ旧地獄は被害者で、伊吹様はそっちの協力者か。スキマは?」
「伊吹様は二人の友人の頼みで来たと言ってました。彼女の立ち位置もそちら側で間違いありません。何より彼女が、争いを助長する真似をするとは考えがたいです」
ここでようやく紫の名を出せた。実際、彼女は誰よりも“幻想郷寄り”。だからこそ、半ば杞憂とも思える今回の件に真っ先に至ったのだ。
やはりそうだろうと、今度ははたてが頷く。
「けどこのままで、いいのかな?」
何か感じるところがあるのか。鬼の名を冠しただけの弱小妖怪に。
「天邪鬼を捕らえるのがですか。伊吹様は必要な情報を引き出したら、旧地獄の奥底に封じるお考えのようでしたが。文様も言ってましたけれど、天邪鬼には殺すと呪いをまき散らす懸念があるそうなので、スキマの依頼を受けた伊吹様もそこに至ったようです」
「捕まえてゲロらせるのはいいよ。でも殺すか、地獄にすら至らない奈落に封じて、それでお終いにしていいのかな。散々な目には遭わされたけど、あいつだって半分は被害者じゃん。ここって、幻想郷ってそんなに容赦の無い所だったのかな」
普段なら、旧地獄のモノを指して卑しいモノを卑しいとズケズケと言い放つはたてが、今はしおらしくしているのが椛には気になった。
「仕方ないかと。ルールを破ろうとするモノを守る理屈なんて、どこにもありません」
断じて本心などではない。自分こそ、はたてを置いてでも向かいたいのに。
「あなたがそれを言うの、椛。私には、無理だなっ!」
全力飛行を行うために発した妖力が形を取り、はたては背に真っ黒な翼を負う。間髪入れずに彼女は飛び上がり、一挙に加速。
「私だって、同じなんですよ!」
どのみち劣るが、自分の場合は飛ぶよりは走る方が速い。椛は地を蹴り穿ち、三歩でトップスピードに達すると、舞い落ちた紅葉を巻き上げながら疾駆する。
「やっぱ来てくれた!」
椛が駆け出したのを察知し、速度を落として迎えたはたて。椛が自分を止めに来たのでは無いと信じているのだ。
実を言えば止めたい。止めて自身は先に進みたい。
「御山の方針に逆らえばどうなるか分かってますよね!」
言葉ばかりの殺生戒は敷いているため、極刑としても死罪は無い。しかしよくて山を所払い、悪ければ幻想郷の外へ放逐されて野垂れ死なされるかも知れない。
どのみち向こう十年どころではすまない辛苦が待っていよう。
そのうえ鬼にも逆らったらどうなるのか、二人ともよく分かっている。
「ゴメン、分かってる。でも道案内よろしく!」
「どこに居るかすら知らないのに行く気だったんですか。承知です」
苦笑しながら、椛は視界を延長させ、飛ぶよりも遙かに早く、萃香と正邪が相対しているであろう地点に視点を到着させる。
「そんな……!」
「どうしたの?」
椛は答えず、愕然とした表情を見せながら、はたてを誘うのみだった。
「いやぁ参った。まさかあそこまでとんでもない奴だとは思わなかった。油断したよ」
声音も表情ものほほんとしたまま、萃香は言う。
倒れた木々や地面に開けられた穴など、周囲には極めて強力な妖術を浴びせられたと思しき様子が見受けられる。そんな状況でも笑っていられるほどの傷ですんでいるのは、鬼、それも四天王と呼ばれた萃香であればこそだろう。
「手当、などは」
「ああ、いらないいらない。唾つけとけば治るから。で、よかったね、お二人さん。私にもお山にも逆らわずに済んで。でもアレ、この通り相当厄介だよ」
各勢力だけでなく、一人一人の思惑にまで思考を巡らせていたのか。やはり鬼は恐ろしいと、ただの力の差以上の畏怖を改めて意識する二人。
そして厄介などとは、萃香に言われずとも分かる。それは今し方彼女が身を以て示してくれたのだから。
正邪に勝機など無いと思っていたし、二人にしても萃香と戦うことになったら勝算などは無かった。
「言い訳するけどありゃメチャクチャだ。全く何も無い所にいきなり力が萃まって来た。あんた達、あの力の正体知ってるの?」
「打ち出の小槌の魔力が一時的に、奴が持った写し身に込められたのかと」
「ああ、あれ一時的なのね。それであいつ戦いが終わったらとっとと逃げたんだ」
正邪は退散し、行方を眩ませているが、すぐに見失った事が逆に潜伏先を限定させる。
「はい、つい先日は、黒白魔法使いや白玉楼の庭師が、奴を相手に後れを取ったという話です。それが、天邪鬼が小槌の魔力の恩恵を再び受けたからだと」
その時も、そのまま進行を続けずに退散している。マジックアイテム自体も使用に制限があるし、彼女の手元にある全てが苟且なのだろう。
「そうだったね。あそこら辺で駄目となると、こりゃ相当だ。私も一旦話し合いしてから出直すとするしようかね。ときにあんた達、私を止めた所でどうするつもりだったの?」
はたてと椛は互いに視線を交わし、同時に視線を落とす。
「そういう考え無しのガムシャラなの、嫌いじゃないよ。特にこの山ではね。ま、お知り合いのブン屋みたいに面従腹背、狡っ辛い真似ばかりしてるのは流石にアレだけど」
感情のままに。今のそれがどんな所から来たのか、二人には自覚が無い。それの赴くままに動くのが拙(まず)いのも深く心得ている。組織の中で動く椛はいよいよと。
萃香からの評価はさておき、これ以上は組織を離れて動けない。これが自身が本件に直接関われる最後の機会であろうと、椛は意を決して問う。
「伊吹様。あなたがブン屋と仰る天狗、射命丸様達は、確か奴が携えるマジックアイテムから魔力の残滓を辿って黒幕に迫るか、特定する手はずだったはずです。伊吹様にはそれは分かりますか?」
「あー、それもそうだったっけ。でも辿るのは無理みたいだし、魔力も比べてみないと分からないよ。匂いみたいなもんだと思ってよ」
「比べてみれば分かりますか。ではせめてお教え下さい。奴が携えた道具から漏れ出た魔力と、今この場で感じ取れる魔力。似通った物と感じ取れますでしょうか?」
ただの下っ端天狗如きの願い、無視されても何も言えない。しかし萃香は、目をつぶって腕を組み、うんうんと唸っている。感じた魔力の残滓を思い返しながら、それの同定に感覚を集中しているらしい。
「椛、なんでそんな事……」
椛は唸る萃香をよそに、はたてに笑みを向ける。
「感じる、ね」
「え」
はたては口に手を当てて沈黙し、椛も目を見開いて萃香の言葉の続きを待つ。
「って言っても、辛うじてこの山麓でも感じ取れるって程度だよ。守矢神社からでもなければ、まかり間違ってもあんた達じゃない。それになんだか、鬼にしては妙だなぁ」
二人は揃って安堵するが、萃香の表情は険しい。
「私も最初から絡んでればなー。まあいいか、今回の話は下手に私達『鬼』が絡むと面倒くさそうだったし。じゃあお二人さん、私はここでお暇するから。末永くお幸せに」
萃香は去り際にからかったつもりだったが、二人はインフレした不安が一気に解消された反動で、通り一辺倒の応答だけで精一杯になっていた。
∴
妖怪の山に見いだしていた風穴を降り、旧地獄へ帰り着いた正邪。
思ってもみなかった本物の鬼、萃香の登場で、守矢神社の神々と戦う余力など無くなり、旧地獄へ無事に避難するだけで精一杯になっていた。
旧地獄に至れば、まず通る場所は決まっている。始めからそこが目的地でもある。
「おーい、ただいまー」
他に誰も居ないのを良い事に、正邪は欄干に腰掛ける人物に手を振る。
「ただいまじゃないわ。逃げて来て夕刻には地上に繰り出した挙げ句、今になってまた舞い戻ってくるとか、一体どういう了見?」
「ははっ、良い事を思いついたんで、ちょっと試してみたくなったんだ。凄いぞ、鬼にも勝てたんだからな」
驚くより他ない。
パルスィが知る地上に残った鬼など、萃香ぐらいのもの。天邪鬼の発言ゆえに半信半疑になるが、彼女を退けたのが事実ならば今は勇儀をも相手に出来るかも知れないからだ。
「けど使える時間が短いな、こっちに戻ったらてんでだ。折角あの一本角に一泡吹かせられると思ったのに」
「やれるならやってみればいい、私は止めないから」
「そう言えば私が奴の所に行くと思ったか? 生憎だが私も勝ち目の全く無い戦を仕掛けるほど馬鹿じゃない。お前が何を企んでるのか知らないけど、思い通りにするもんか」
言って正邪は舌を出す。前髪と合わせて二枚舌になった様にも見える。
「なら私からも言っておくけれど、あなたを封じるなんて私には容易いご用なの。貯えた嫉妬の力を、緑眼の怪物と共に使役して、あなたをすぐそこの奈落に落とすだけだもの」
奈落とは地の底、地獄を指す。しかしここは地獄のスリム化と共に捨てられた地。奈落の更に奈落とは、如何なる事か。
旧地獄に開いた奈落への入り口は、橋姫が居るからこそ存在している。
仏を祀る信仰と、更に西方の民の信仰が和合を果たした時、共に訪れた主神を祀る巫女、波斯姫が、此岸と彼岸を分かつ川を渡る途(みち)の一つとして、橋を架けた。ただしそれは、平安時代の終わり頃に信仰の中から姿を消したのだ。
それは、今ここに架かる橋その物。
かつて西方の民と共に在った時には、この橋は善き者を主神の下まで導き、悪しき者を地獄へと落とす『選別者の橋』であった。
しかし今、旧地獄の底に更に開かれた奈落に、もはや行き先は存在しない。足を踏み外せば、救済も終末からも切り離され、宇宙の物理的終焉までの永劫落ち続けるのみなのだ。
「お前みたいなナヨッとしたのが私に勝つだあ? いくら妖力を封じられてるからって、甘く見るなよ!」
言って正邪は室内で弾幕を張る。
自力での弾幕の威力はたかが知れているとはいえ、家財や壁には穴が開いてゆく。パルスィは妖力でこれを防ぎながら、正邪に怒りの籠もった視線を向ける。
「そうだ、その目。いい目だ!」
そこらの妖怪どころか鬼であっても、その緑眼に囚われ、腹の中に僅かな嫉妬でも抱いていれば、心ごと腹の内から食い尽くされる。それこそ、覚妖怪が顕現させる獲物の抱く『トラウマ』よりも、遙かに惨たらしく。
スペルルールに依らない橋姫の実力は、場合によっては旧地獄の誰よりも恐ろしい物かも知れない。
正邪は、その視線を受けても平然と次の手を打つ。
『打ち出の小槌(レプリカ)』
「どっせぇい!」
左手で弾幕を展開したまま右手で振りかぶったそれを、パルスィに叩き付ける。しかしその手には、妙な手応えだけが返る。
パルスィの姿が弾幕となって弾け、小槌と正邪の身体に襲いかかったのだった。
「まったく、部屋がボロボロ。その小槌の魔力が使えるのなら直してよね。いや、やっぱいいわ、それがもたらすのは邯鄲(かんたん)の夢が如き盛衰の幻。あなたが自分の手で直しなさい」
正邪の背後で、窓枠に腰掛けながらパルスィは命じる。始めからそうなるのが分かっていたのか、そこにあるはずのビードロ障子も外されている。
表裏をひっくり返して背後を取るなどは、天邪鬼の十八番。それを自分がされたのに驚きながら正邪は振り向く。
「一体どうやったのかって? 簡単よ、始めから二人居たんだから」
「はっ……? はぁっ!?」
「おいで」
もはや隠すこともせず驚きの声を上げる正邪をよそに、パルスィは誰かに命じる。すると、正邪と戦っていたパルスィがいた方から雀が一羽飛翔し、パルスィの肩にとまる。
「橋には端が二つある、とんちじゃ無いわよ? だから橋姫も二人必要で、そうして初めて橋が架けられる。でも私の場合はちょっと事情があってね。そうそう、この子は妬みのおとぎ話になぞらえてこの姿なの。可愛いでしょ?」
要らぬ自慢話やら自分語りやらを大人しく聞いている正邪ではない。パルスィの問いかけに拳で答えようと殴りかかる。
「だからやめときなさいって」
ゆらりとパルスィの姿がゆらぐと、次の瞬間、正邪の姿は橋の下、奈落の真上にあった。
「おい、なんだ、これ――」
上流を見ても下流を見ても、水無川からは断崖が立ち下がっている。これが水を湛える大河であれば、壮大な瀑布が姿を現すであろう。
そんな巨大な地隙の上で、正邪は重力の喪失を感じる。正しくは落下だ。
「う、うわぁぁぁぁ!!」
飛行は出来ない、これが地獄への行き道。
正邪はこの奈落と同じ底なしの恐怖に、ただ叫び続ける。
「だから言ったのよ」
パルスィの言葉を受けた正邪の身体は、水無川の河川敷に叩き付けられていた。
「なぜ助けた……」
実際に落ちた高さは大したものでは無かったらしく、正邪は呻き声を上げながらも、同じ場所に降り立ったパルスィに確かな声音で問いかける。
「あなたに興味があるのよ。あなたはどうして、こんな事ばかり繰り返しているの? 敵わない相手に牙を剥いて、弱い者を食い物にするのは自然な事よ。でも強者に逆らおうという最たる動機は、およそ恨み、妬み嫉み、嫉妬のはず。横文字ならルサンチマンの方が合っていたかしら?」
今し方、散々にコケにして見せたのも、その“声”を彼女の中から引き出すためだった。だが実質上の今際の際に陥れられても、彼女の中からは未だに恨み辛みなど現れない。言動はこれでもかと言うのでも足りないほどそれを口に上らせ、その通りの態度なのに。
「そんなの聞かれても知るものか。何が言いたいんだ」
「だから、あなたは何を原動力に、勇儀や地上の妖怪達に逆らい続けるのか、それを知りたいの。何があなたにそうさせるのかを」
「恨みならあるさ、天壌の全てに」
「あなたはそう言うけれど、あなたの心は違う。あなたは何を抱えているの?」
そこまで問いかけて、パルスィは言葉を止める。
「雀!」
肩にとまっていた雀がパルスィと同じ姿を取り、旧都側のたもとに向かって行く。
「無駄だよ、パルスィ。そいつは始めからこの奈落に落とす予定だった。今ではないけど、いずれはね」
「勇儀、それにさとり」
河川敷に降りて来たのは、手下の代わりに地霊殿の主を連れた勇儀だった。古明地さとりが居て、勇儀がいる。どこからこの件が漏れたのかは、容易に想像出来た。
「ヤマメはどうしたの?」
「心配ご無用、特に沙汰は無いよ。でもパルスィもヤマメも、なんでそんな奴を守ろうとしたのか、出来れば聞かせておくれよ」
匿っている期間がほぼ皆無だったのもあって、勇儀も大きな騒動にしたくはないらしい。
「言っても理解して貰えないかもしれないけど、興味があったの。妬みも嫉みも抱かないまま、あんたにも地上にも反発し続ける天邪鬼って妖怪に」
圧倒的強者である鬼ですら、嫉妬は抱いている。恨み辛みなどと言えば尚更、これを抱かないモノなど本来なら、路傍に転がる石とそう大差無い。
「初めて嫉妬を持たない妖怪に会ったからって言うのかい? それは興味が湧くのも頷けるね。でも、地底の話で全部が完結するならそれを許してたけど、今回は事が事なんだ」
「やっぱり地上での話?」
「ああ、萃香の協力にね。あいつの別の友達の頼みだって話も聞いちゃったしね」
勇儀も立場としては複雑なのだろう。ただ正邪の始末だけはなんとしても進めなければならない物となっているのはすぐに理解できる。
言葉の足りない部分はさとりが補足する
「地上の妖怪の賢者の要請は、至極真っ当な物だったわ。それに地底でも、天邪鬼を匿う理由は何も無い。どうしても旧地獄の自治権を前面に出したいなら、地上と争いになるのも覚悟しなくてはならない」
さとりの両の目はジッとパルスィの緑眼を見つめているが、胸の前に据わった第三の眼は正邪へパルスィへと、交互に視線を走らせている。それぞれの心を読み取っているのだ。
「なるほど、パルスィが言った通りね。言動に関する真偽は読み取って視ていたけれど、それ以上の深層で、不可解な心象が広がっている。これは……」
「この、勝手に私に触るなぁ!」
何かの感覚として感じることは出来なくても、さとりが心を読み取っているのだけは察した正邪は、またも果敢に襲いかかる
パルスィが添えた手を振り払って逃げようとする正邪。その心を全て読み切る前に、彼女の表象を発現させようと試みるさとり。
「無駄よ!」
スペルを宣言せずに正邪の心象にあるトラウマを想起。どんな弾幕が彼女に襲いかかるのか、さとりにも想像がついていない。
現れたのは、片翼を失った真っ白な鵠(くぐい)だった。
「これは?!」
さとりの想定の範囲外だったのか、困惑しながらそれを御そうと試みる。
しかし鵠はさとりの妖力に従わず、一度羽ばたくと無数の羽をそのまま鏃として撃ち出す。ただの弾幕と言うよりもっと違う次元の何かだ。
正邪は鵠に救い出され、そのまま風穴の方へ向かって行く。その姿は脅威から逃れたと言うより、誘蛾灯に惹かれる虫のようにも見える。
射撃の激しさから追跡をためらっていた三人がようやく頭上を見上げた時、正邪の姿はそこには無かった。
勇儀は先ず、さとりの力で想起された不可思議な現象について尋ねる。
「古明地の、あれはどうなったんだい」
「迂闊でした。あの天邪鬼、幾重にも仕掛けが施されてます」
「仕掛けだって?」
「あれには、殺すと穢土の中で別の生(しょう)を得続ける呪いが掛かっているという話でしたね。そんな呪いを施せるのなんて、おそらく――」
「まあ人間にも妖怪にも、そんなのまず無理だあね」
人間にも妖怪にも無理なら。何がそんなものを彼女に課したというのか。
「パルスィ、今の話の通り、あいつにはそんな呪いが掛かってる。それに天邪鬼が天邪鬼たるのも、恐らく同じ奴の嫌がらせさ。そしてそれこそ、パルスィが知りたがっていた、奴の行動の原動力だ」
原動力とは何のことを指しているのか。当初の探求への興味はまだ尽きていないが、それよりも――
「嫌がらせ? 誰の、誰に対する嫌がらせなの?」
「今は確実な話は出来ない。けれど今地上では、ちょっと前に起きた異変の黒幕を探してるんだと。実際には前に奴を地底に寄越したのがそれだ。すぐにあいつを奈落に叩き落とさなかったのもその話があるからさ。まあパルスィが蹴落としてしまってたら、それはそれでしょうがなかったんだけど」
パルスィもあくまで力を見せつけただけ、本当に落とそうなどとは思っていなかった。
「で、その黒幕とやらが呪いを施した張本人でないとしても、同じ側に立ってる奴だとは思いますね。これもまだ推測ですけれど」
「同じ側ね。なんとなく分かった気がする……」
本当に、なんとなくでしかない。
ただ一つ分かったのは、彼女が負わされたものが、旧地獄の多くのモノ達が負うものと近しいという事だけ。
鬼は、土蜘蛛は、覚は、始めからこの姿であったのか。
橋姫は知っている。自身がどこから来て、どうしてここに在るのか。
そして、天邪鬼は――
「おっと、首尾はどうだった。ヤマメ」
スッと降り立つヤマメを、パルスィも思惟止めて迎える。
「すいません姐さん。今度こそは捕らえるつもりで網を張ってたんですけれど、十人がかりの包囲を貫かれました」
他にもいくつかの地上に至る風穴を、分散して塞いでいたのであろう。十人も土蜘蛛が居れば、天邪鬼に勝てる道理は無い。それだけ彼女を生かそうと――否、呪いから逃すまいとする者が居るのだ。
「あたしらを怯ませたぐらいだったからなぁ。あれの原因については黙っといてやってよ、パルスィ。ヤマメのした事も一緒に不問にするから」
「ヤマメまでダシにするなんて、賢しい奴ね」
勇儀はふむと鼻を鳴らして頬を掻く。
「鬼に横道無し。私は別にダシにしたつもりは無いよ。今回の事だけじゃなく二人には恩もたくさんあるし、そこは心配しないでって言いたかったの」
「言葉足らずですね、勇儀は」
さとりはそう言いながらも、感謝の念を顔に浮かべている。
「大女、総身に知恵が回りかね、ってね。私は考えて話をするのが苦手なのさ。言葉通り素直に受け取ってくれよ。ヤマメ、パルスィ」
「有り難うございます、姐さん。では今もう一度だけ、わがままを許して下さい」
「わがまま?」
「私が一人で行って、天邪鬼に始末を付けてきます」
「始末って……あいつは殺すと拙いって、地上からも言われてるんだって言ったろ? あんたに、ここに突き落とす他に何が出来る」
「姐さん、信じて下さい」
「……ならその場で始末はしなさんな、あんたがやるのは捕らえるまでだ」
「はい、有り難うございます」
地上に出るのは許す。そこから先、勇儀はヤマメを信じた。
「あなたは、何を考えているの。それは一体、どんな意味を持つの?」
そう言って飛び上がろうとするヤマメに、さとりは三つの困惑の視線を投げかける。
今のヤマメの思惑は、さとりですら見透せない不可解なものなのだ。
更にパルスィがその腕を引く。
「待って。勇儀の考えも地上の妖怪の考えも違う、それでいいはずがないわ」
「パルスィ?」
「天邪鬼は、あれは私達と同じ、私達その物よ。勝手に連れて来られ、勝手に使われた、そういうあやかし全ての体現。でもあれはもっと非道い。心から望むほど叶えることが許されず、望まないからそうさせられる。あれが嫉妬も抱かず悪事を続けるのはそのためよ。
誰にそうされた? 自分の手を穢したくない、既に穢れている事実すら遠ざけ、私達に罪過、不浄を仮託して勝手に“ありよう”をすげ替えさせた奴らによ。それは――」
その眼が深い緑に淀む、どれだけの負の想念が奥に渦巻いているのか。
ヤマメはその光を山吹色の明るい瞳で迎える。
「パルスィ、落ち着きな」
勇儀に肩を抱かれ、パルスィははたと正気に戻る。正邪のことを思う中でぶり返した自身の嫉妬に、呑まれかけていたのだ。一抹の同情を携えて。
「勇儀、ヤマメ。旧地獄ならあいつでも暮らしていける。どんな悪事をしても、もっと悪辣な奴は山ほどいるし――」
「駄目だね。お天道様から身を隠させるのも考えに入れてるんだろうけど、あのていたらくじゃ何やってても結局殺されて、また元の木阿弥。その度に旧地獄に収容なんて、そんな手間を一匹の妖怪にだけやってられないよ」
人間がその害を被るなどは、正直に言えばますますどうでもいい話。あくまで地底に限った話をしても、彼女を迎え入れようなどと言う考えは、勇儀の中には無い。
「じゃああいつは、永劫闇の中に」
「どこで生きてたってそれは同じだろう? いや、生きて死んで生まれ直しての繰り返しだったか、私だってゾッとしない。それでヤマメ、行くのかい?」
「今のを聞いて、ますます確信しました。行ってきます」
その顔を、この地底にある何ものよりも明るくして、今度こそヤマメは飛び立つ。
パルスィもさとりももはや引き留めはせず、風穴に消える姿を見送った。
「なあ古明地の」
「なんでしょう」
「ヤマメは一体、何を考えていたんだい?」
幾度考えても不可解だと、さとりは肩をすくめる。
「それが「思いっきり、抱きしめてやる」って」
「……やっぱり、始末を付ける気か」
勇儀は、自分の思惑を越えた“天邪鬼”をしようとするヤマメをもはや追おうともせず、ただ盛大に嘆息した。
明けぬ夜を征く 第5話
冥界へ至る天空の結界は、夜半から妖精達がざわめき、沸き立っていた。ここは真夜中の闖入者が過ぎ去った後だ。
妖精達の羽が星より儚く煌めく中で、流星が駆け上がる。
正邪がどこに潜伏していたのかは分からないが、昨日の今日で姿を現すなど、誰も予想だにしていなかった。ただそういった期待を裏切る輩だという事だけは、信じられた。
流星の行く手には巫女服の少女、しかしサラリと伸びた長髪から霊夢でないと断定。
「悪いな早苗、先に行くぜ!」
「魔理沙さん?! 抜け駆けして一人でなんて――」
東風谷早苗の特徴的な緑色の髪を横目に、ドップラー効果を飛び越える。魔理沙は今、跨がるホウキにミニ八卦炉を仕込み、そこに魔導燃料を目一杯に注ぎ込んで大推力を得て飛んでいた。正面に大気を遮る障壁を張り、今や亜音速にまで至っている。
誰よりも早く到着しなくては。逸る気持ちに呼応して、まだ加速する。
流石に白玉楼から要撃に掛かるでろう魂魄妖夢より先に接触するのは困難だろうが、白玉楼は幽々子も事情を知っていると言う。紫からどこまで話が通じているのか――特に先頃の推理が届いているのかが――疑問だが。
目的の優先順位が変わり、現状の最優先事項が正邪を泳がせる事から身柄確保に移行した今、事はずっと分かり易くなっている。それでも魔理沙は急いだ。
実は一つの懸念が、先の博麗神社での話し合いの結果浮上していた。紅魔館関与が否定できなくなったのだ。ほぼ確実に味方なのではあろうが、事情が異変前にまで遡った場合――先の異変こそが黒幕の思惑外、正邪の暴走の結果だった場合、異変に当たった者達の中にこそ黒幕に与する者があろうと言う推理。
そして今度は、銀髪のメイド服を追い越す。
皮肉にも今は味方の中で、疑心に駆られ暗鬼を招いている。
魔理沙自身は当然違う、霊夢はそんな謀略より賽銭が恋しい。
しかし、紅魔館には前科があるし、主人のレミリアは吸血鬼。果たして吸血鬼の魔力で打ち出の小槌が駆動するかは定かで無いが、吸血鬼を『鬼』と見なすのも、幻想郷では叶うであろう。これは一種の“呪(しゅ)”に近しい。
「どっちにしろ、とっ捕まえて全部明らかにしてやる!」
ここからは、黒幕より先手を取って手配書に乗じる。
まず魔理沙と妖夢、それに咲夜が。そしてその後にはマミゾウに霊夢が控える二段構えだが、後者が今回出張らないのは針妙丸の警護のため。
「何を企んでいるのか知らないけれど――」
突如として魔理沙を包む魔力の渦、前方の視界を埋める無数の銀の輝き。高速飛行する魔理沙に、相対位置を変化させず滞空。時空関係の魔法の発動――
「やっぱりお前らが黒幕か!?」
「何か企んでいるのはあなたじゃなくて?」
それを確認する前に、銀の刃は一斉に魔理沙へ向かう。かなり濃密な弾幕、しかし不可能弾幕でもないし、スペルを用いたでもない。彼女は心的にも交渉の余地を残している。
「なら悪い! 昼辺りに例の件を紫達と話してたら、お前らへの疑いが拭えない話が出て来たらしいんだ。だから念のために先行させてもらった!」
「なんだ、褒賞目当てで心変わりしたのかと思ったら、何を懸念したの?」
「輝針城異変自体が、黒幕の思惑の外だって話だ!」
「なるほど」
それなら異変に当たった者にこそ疑いが向く上に、咲夜の場合は主人が主人。冷静な判断の下、それを以て彼女は納得し、矛を収める。
荒事の中での話し合いも茶飯事と言える二人ならではの、迅速な和解。
「ではあの異変には、前段階があったって言うのね」
「なんですそれ、私も聞きたいで――」
いつの間にか追いついていた早苗に、魔理沙と咲夜の矛先が向く。残念ながら今回、彼女は協力者ではない。
奇術『エターナルミーク』
聞き覚えのあるスペルの宣言に、魔理沙は急速離脱。
全方位に大量の弾幕が展開されるが、距離を取れば余裕もある。咲夜はあえて、魔理沙が対処法を知るこれを用いたのだ。
逆にいきなりの宣戦布告に面を喰らった早苗は、顔一杯に疑問符を浮かべながら無数の盲撃ち弾幕を浴びる羽目になった。
「いたたたた! 私が何したって言うんです!?」
「何もしなくていいから、野次馬してないでとっとと帰りなさい」
言いながら咲夜は、距離を取った魔理沙に、白玉楼へ向けて一本のナイフを投げ、その軌跡を見せつける。それは先に行けという合図だった。
自身にも紅魔館にも、やましい考えは無い。ここは退き、ついでに関わりない早苗の足止めを。これは咲夜なりの身の潔白の証明といったところか。
早苗も別に何かを企んでいる様子は無いが、いちいち説明するのも面倒。ここは褒賞目当ての者同士の諍いという形になってくれるのを期待する。
「恨んでくれるなよ。全部終わった後でちゃんと説明してやるから」
恨むなと言う方が無理であろうが、誰の返事を待つでもなく、今は独行に戻って更に上を目指す。
ぼんやりと幽世(かくりょ)から姿を現す石段。その両側から二百由旬の楼閣を囲う桜並木は、秋の神の力を借りぬままに色づいている。
落ち着いて眺めれば美しくも見えよう。しかし燐光と微かな星明かりに照らされたこの闇の中では、それを鑑賞している余裕も無い。目指すは、交戦しているであろう二人の姿。
魔理沙は視線の先に、幾度か不自然な閃光が走るのを見る。霊力を帯びた剣閃、妖夢の物に違いなかった。
先に「半人半霊とはなんと中途半端な奴だ」などと正邪は幾度か罵っていたが、妖夢の心にはなんの波紋も生じていない。努めて冷静に正邪の攻め手をいなし、あるいは真っ向から弾幕を切り裂く。
そして攻め手が僅かに緩んだところに、間髪入れずスペル宣言。
彼岸剣『地獄極楽滅多斬り』
赴きも何も感じられない名称のスペル、それが正邪の自棄気味の心を煽る。
「いいさ! こうなったらあの世に行ってやる!」
言葉とは裏腹に、両手にはマジックアイテムを携えてやる気満々。
『打ち出の小槌(レプリカ)』with『ひらり布』
魔力によるブーストが掛かっているとはいえ、ただの鈍器に過ぎないそれでは、妖夢の剣戟と射撃に勝てるはずも無い。
魔理沙は正邪の撃墜は確実かと、妖夢の射程圏内に入らないよう慎重な飛行に移り、ミニ八卦炉も手元に戻す。
次の瞬間に目にしたのは、尋常で無いレベルの弾幕。
「……っ! これは?!」
妖夢の放ったスペルではない。無数の矢が石段を射上がってゆく。それは魔理沙の後方からも迫り、すんでの所でそれを躱す。
「おいまさか、嘘だろ!」
『天壌夢弓』
不可能弾幕に対しては、スペル宣言もせずに応じよう。
殺意や敵意を超越した無心の妖夢の剣戟に対して、底なしの悪意が射返される。
妖夢は避けようなどと考えず、佩いた大小を自在に振るって妖術に相対する。自身の腕を信じるが故の姿勢だ。一本や二本、否、十本や二十本の矢が襲いかかってこようが、妖夢なら全て切り落として見せられよう。
だが見誤った、これは数が多すぎた。
妖夢のスペルが迫る弾幕の圧力と自身の射撃の停止により行使中断となり、正邪は完全な攻勢に転じる。
加速する攻め手に、妖夢の防御が飽和する一歩手前――
魔砲『ファイナルマスタースパーク』
現在注ぎ込める最大出力を込めた魔砲を、妖夢救出のために放つ。
一瞬にして射線上の矢が消失。魔理沙は魔砲を放ったまま火点を移動させ、妖夢の退路の確保に努める。
「こいつはお前向きじゃない! 交代だ!」
「無念。甘く見て――」
「退け! いいから!」
魔理沙の叫びは彼女の身を慮ったもの。見れば素肌も服も、相当矢に切り裂かれている。
妖夢は意固地にその場に留まろうとせず、自身の油断を認めて白玉楼への階段を上がって行く。またあちらで体勢を立て直そうという考えもあるのだろう。
「ははっ。やっぱりごっこ遊びのお友達同士、仲良しだなあ!」
正邪の煽り文句を無視し、魔理沙は術に対処する。
射上がる矢は尽きず、しかし魔砲の射線にかかっては消えてゆく。大人しく避けるか、魔理沙のような大出力の魔砲を用いれば、そこまで恐れるべきスペルではなかった。
(それよりも、あいつが術を使えたって話の方が一大事だ)
文が手配書に脅し文句のつもりで書いた力が復活してしまった。
いや、これもいっときの事に過ぎない。彼女は強力な鈍器――打ち出の小槌の似姿に、尽きる前の『鬼』の魔力を以て再び真の打ち出の小槌の力を招いたのだ。
「正邪、もうどこにも行く先なんて無いんだ。大人しく投降して、お前に異変を、幻想郷への叛逆なんて馬鹿げた企みを吹き込んだ黒幕について、洗いざらい話せ」
『天壌夢弓』の効力終了を見て、魔理沙も魔砲の行使を中断。そして、手を差し伸べる。
引っ込められた敵意に、正邪は僅かに動揺の様子を見せる。
「黒幕? そんな奴、居るもんか。あれもこれも、全部私が、私の考えでやったんだ!」
魔理沙は「そうか」と一息ついてから、諭す。無駄だと分かっているのに。
「だから叛逆って何への叛逆なんだ? ここには支配者なんていない。為政者もいない。ここはとっくに楽園だ。人間だって人里から離れなければ妖怪と共存できる。お前が言う弱者の代表だって、こうして生きてるだろ」
とてもではないが本心からは言えない、白々しい言葉だ。
(お前の暴走はどこから始まったんだ、今のお前は誰から解き放たれたんだ)
知りたいのはただそれだけ。それだけの為になら、いくらでも方便を説いてやろうと。
「このだまくらかしの楽園全部にだよ! 思い知らせてやる。お前らが食い散らかされるだけの家畜だってことを!」
逆転『リバースヒエラルキー』
魔理沙の天地の感覚が反転。ヴァーディゴどころの騒ぎでは無い、左右すら鏡映しになっている。
ただこれも初見のスペルではない。魔理沙は心を落ち着かせながらもある疑問を浮かべる。
なぜスペル宣言をしたのか。
スペル宣言には、決闘のルールであると共に絶対的な力の差の平滑化という意味合いもある。これだけの魔力に溢れた状態なら、スペル宣言による威力の上乗せなど必要無いどころか、却って枷になる。更に直接命にまで危険が及ばないようフェイルセーフが為されるのに。
天地左右の感覚を混乱させたまま、互いに地の利の無くなる高空へと逃れる魔理沙。
「地面にぶつからずには済んでも、こいつはどうだ!」
放射状に弾幕を展開し、それで以て薙ぎ払いにかかる正邪。
天地左右の間隔を失したままでは、これを避けるのは至難の業。ならば避けない。
恋符『ワイドスパーク』
ミニ八卦炉に貯えられた魔力はまだ十分。
魔理沙自身が更なる魔力を注ぎ込むと、励起されたエーテルが星の形を取って全周に弾幕を形成。それらは正邪の射撃に力負けして散っていく、ただしこれは前座に過ぎない。
「分かってるんだ。お前がやってることはみんな、やりたくなかったことだって!」
弾幕の渦の中心に向かって、否、拡散する弾幕すら飲み込む光の奔流。
それは感覚の混乱などにかかずらわず、正邪を捉えた。
「説明して、もらいますよ……」
白んできた空の下、巫女服のあちこちを切り裂かれた早苗が言う。当然やったのは咲夜。
先の正邪との戦闘の結果であるが、勝ちも負けも無く、結局のところ取り逃がしてしまった。
一度はワイドスパークで仕留めたかと思われたが、その第一波を撃ち終わった時点で正邪は逃亡した。『ひらり布』を使い、あの射撃をシンプルに凌いだのだった。
飛行を乱された魔理沙には追跡は叶わず、リバースヒエラルキーの効果が切れるまで静かに浮かび続けるより他なかった。
今のところ方針に変更は無い。それも含めた説明が、本日最初の魔理沙の仕事。
「悪かったよ、咲夜も。一応、今まで分かっている辺りまで聞いてくれ」
紅魔館に疑いが向いた件について、咲夜は先ほどのとおり「それではしょうがない」と理解を示す。早苗は今まで蚊帳の外だったのに対して憤慨。更に守矢神社は関係ないと、僅かにでも疑いを向けられたのにも猛抗議。
これまでのいきさつを聞いた二人の反応は対照的。ただし関心は同じ一点に寄せる。
「ではその黒幕の思惑は、文さんが掴んだネタとやらの実現を画策しててそれを天邪鬼に仕込んで。でもそれに失敗したあいつがそのまま、黒幕の思惑外の行動に突っ走ったと」
「妖怪の山がらみの不祥事かしら、旧地獄との間に要らない不和を起こしたとか。新聞屋さんも権力には弱いのね」
それは思ってもみなかったと魔理沙は目を見張る。妖怪の山の不祥事であれば、文も軽々に表沙汰には出来まい。だが――とまた、別の方へ思考を向ける。
(そういや、あいつの妖怪の山での立ち位置なんて、考えたこと無かったな……)
よく人里に出張り、人間に近しい妖怪だとは知っている。時には脅しかけても来るが、それも今回の手配書に込めたのと同じ意図があるかも知れない。
「でも最近は、山の方でそんな派手な話は無かったと思いますよ。私も天邪鬼になんて今回初めて会ったし。文さんに直接聞きたいけど、一度事情があってお蔵入りさせた話なんて、絶対教えてくれないだろうしなー」
「それにしても黒幕の件。今まではスキマの杞憂かとも思っていたのだけれど、妖夢やあなたを相手にして逃げおおせた力を見ると、存在を信じたくなるわね」
「あれこそイレギュラーだったけどな、お褒めにあずかり光栄だぜ。ともかく正邪追跡は継続だ。最悪、殺すのも已む無しと紫は判断してるけど、出来れば、生け捕りにしたい」
「生け捕りね。殺すよりも難しいわよ?」
ナイフに陽光を浴びせながら咲夜が言う。
「そんな物騒な……」
妖怪退治を楽しいとは言える胆力はあっても、殺すのまでは気が引けるのか、早苗はナイフのチェックをする咲夜を見て魔理沙の後ろに隠れる。
「分かってる。でも文の言うとおりなら、あいつを殺せば別の非道い事態を招きかねないんだ。また次の天邪鬼が私達の前に現れるまで」
それが幻想郷の中で完結するのか、外の世界までを巻き込むのかは分からない。ただ、誰かが犠牲となるのだけは間違いない。
「殺さず、永久に封じる方法などは無いのかしら」
それが存在するのならばその策を。咲夜の言葉は至極当然の意見、しかし魔理沙はそれに忌避感を覚える。
「本来は、そういった妖怪の受け皿が、旧地獄だったんだろうけどな」
やはりあそこで何があったのか知る必要がある。文が駄目なら鬼か土蜘蛛に、ヤマメに聞くしかないと魔理沙は決心する。
しかし夜は白んできたし、自身も夜通しの行動でへとへと。妖怪と違い、魔力などで疲労も睡眠も補えないのが人間の辛い所だ。
「二人とも、本当にすまなかった」
別れ際、魔理沙がしおらしくして頭を下げるのには、二人とも揃って驚く。
「あなたより、もっと謝って欲しい人は他にいるけど、それもこれが解決してからね」
「あーえーと……とりあえず、ここから先は守矢神社にも活躍を、ってことで!」
感情に従えば糾弾されても不思議は無いのに、あえて魔理沙をそうはしない二人。
魔理沙は二人にへつらったのではなく、心のままに詫びた。二人がそれにどう応えるかなど考えず。思惑はそれぞれにあるが、彼女らはそれに、現在共闘すべき関係にあるという再確認で答えた。お互いにそれだけで十分だったのだ。
(お前にはなんで、これが出来ないんだ……)
思惑など乗り越え、そうするべき思いを一つにする。
それだけの事すら彼女に許されていないという理不尽に、魔理沙は憤った。
∴
夕日の昇る逆さ城。
魔理沙達から、打ち出の小槌のレプリカと、当初の鬼の魔力が籠もった器物との合体が、かなり危険な結果を招くという報告を受けた霊夢は、あえてここで網を張った。案内役の針妙丸と、護衛のマミゾウと共に。
当然、城内は紫達による調査が済んでおり、ここには彼女が目当てとするアイテム(これは紫達が欲していた物と同じだ)が無いのは判明している。
結果として彼女はここに訪れた。これは珍しく合理的と言うより、短絡的な行動だったが、当然この陣容に抗うなど出来ず、目的を果たせず退散していった。
やはり妖力のブーストは一時的な物だったらしい――
――またその翌朝、妖怪の山の西塔。
「針妙丸が彼女の逃走を助けてしまったというのが、やるせないわね」
それら一連の戦闘の子細を聞きながら、文が椛に語り掛ける。
「椛、その後の消息がまた不明だというのは?」
椛は首を振ってから答える。
「今回は全く不明瞭ですが、前に一度、博麗神社の方に向かってから姿を消した事がありました。あそこには比較的大きな風穴が開いてますから、ひょっとしたら……」
そこから先は、数人がかりか、あるいは以前やった様にはたてと協力しなければ見透すことはままならない。
「まさか旧地獄に……彼女の行動原理、大体分かってきた気がするわね」
「文様が奴の考えを? 私には無理ですね」
「私だって理解したくはないよ」
「では、次はどこに現れると思うんですか?」
「御山。いえ、守矢神社」
「なぜそうお考えに?」
「奴は徹底して奇をてらう方向に動いている。しかしどれも、合理性に欠けている。それも私達から見たら、わざとそうしているかの様に」
先に旧地獄でひと騒動起こしてからの現在、そちらへの潜伏などは無理筋と見えるのに、あえてそうした事。であっても、望みが全く無い場所を目的地とはしない様子からの推察。
手配書まで発される原因となった妖怪の山方面への再度の前進は、彼女からすれば、奇をてらったつもりになり得る。これも傍から見れば、あくまで“つもり”でしかないが。
思えば、むしろ魔理沙の元に長らく潜伏し続けられたのが、彼女の行動原理からしたら異例だったと言える。
(あれは、安住の場所を得ようと考えないのか?)
いやそれこそ、彼女に課せられたサガ――呪い、軛なのであろう。
これが深い見識の元の合理的な行動ならば、真なる革命家と受け取ることも出来るのに。
「子曰く「兵者詭道也」。されども奇策とは、奇をてらえばいいという物でもない。勇ある者は勇無きように見せ、能ある者は能を隠せ、と。なんだ、白狼相手に兵法の講義でもやっておるのかぁ?」
不意に、酷く顔色の悪い、やせぎすで短髪の天狗が二人に声を掛けて来た。
どこまで聞かれたのか。二人は平静を保ちながら揃って向き直ると、文から彼に答える。
「これは英彦山玄庵(ひこさんげんあん)様。いえ、件の天邪鬼追捕の策を練っていたのです。手配書は回って博麗の巫女までもが動いたというのに、結局今も逃げられたままでして。今し方、先に巫女が対応した際の状況を、犬走より聞いていたのです」
血色は蒼いのに随分とアルコールくさい玄庵にも、文は慇懃に応じる。
「玄庵様。またこんな時間から酒精の匂いを漂わせて……」
椛の鼻は、離れていても不快なほどの臭気に耐えかねたらしく、ついつい苦言。
「ふん、こんな使い走りなど、酒でも入れなきゃやっとられんわ」
文もこの様な破戒的な振る舞いをする者、それも多くの信仰を集めた権現にもそれが居るのをよく知っているが、少なくともかの人物は、この様にだらしなく管を巻くような有様ではなかったのも思い出す。
この男、元々は福岡県と大分県に跨がる英彦山に在し、八代天狗にも数えられ鎮西(ちんぜい)一の天狗とされる英彦山豊前坊(ぶぜんぼう)の、直轄の部下。英彦山衆としては主席となる天狗。
彼を使役できるのは豊前坊ただ一人とはいえ、なるほどそれも役不足では気にくわないらしい。
「それと射命丸、拙僧は「玄庵さーま」と甘く呼べばいいと言っただろう。我らがご本尊様とも混同するし。そうそう用件だが、その豊前坊様がお前の話を聞きたいと仰せだ」
「はあ、御山に戻っていて幸いでした、下界からでは骨が折れますので。して、豊前坊様は何処におわすのでしょう?」
案内するから来いと、不精髭も見苦しい顎をしゃくり上げる玄庵に、文は粛々と応じる。
一度だけ椛の方を向き、目配せする。あちらは頼むと。
殆どの伽藍が廊下続きで繋がった西塔。豊前坊の所までも、地面に降りる事無く向かう事が出来る。
文も今は大人しく玄庵の後に続くが、どうもこの人物は虫が好かない。
縦割りの組織の中でその垣根を越え、英彦山ナンバー2という肩書きに物を言わせたかと思えば、自身は断固としてその職責の内でしか動こうとはしないという傲岸ぶり。
文ですら、書陵課での仕事に追われている最中に、主計部長の彼から書類を山ほど押し付けられたれた覚えは、両手では数え切れない。(類似の件で、幾度飯綱を通じて抗議しても改善されなかった)
外の世界に居た時の彼は、相当に際どい行いに手を染め、その手柄で以て今の座に就いたとも聞いている。今も反社会的組織がかの地で跋扈しているのも、彼が作った負のインフラが残っているからなどという、さすがに眉唾に近い話までも。
ただ少なくとも、彦山八百坊三千と謳われた勢力を有していた折には、その戦力の補強の為に積極的に天狗を動員させたり、衰亡の間際に立たされた時には座主(ざす)の意向など無視して強硬な連合を画策したりと、豊前坊を表に出さない形の汚れ役を買って出たらしい。
戦功はともあれ、数多の人妖の死を以て利を得てこの地位に在るというのが、日頃の面倒よりも、根源的な部分で文が相容れないと考える理由だ。
「ときに射命丸よ」
「なんでありましょう?」
彼は歩きながら酒臭い口を文の耳に寄せ、囁く。
「たまには御山の宴に顔を出さんか。鴉天狗とは言え、同席を許されるほど古い天狗の中で、お前ほどの上玉は居ないからな」
これも不快と思う理由のまた別の一角。
「セクシュアルハラスメントで検非違寮に直訴しますよ」
「はっはっ、性的嫌がらせ、だったか? よく言われたものだ。お前を可愛がってくれる鞍馬殿に、よぉく甘えるがいい」
文から進んで鞍馬を頼りにした試しなど無いが、周りからはそう見えているであろうとは自覚している。今の発言もそれを意識したものだったが、彼には通じないらしい。
いちいち癪に障る。
苛立ちを募らせる文の耳が、ふと遠雷の音を捉える。いや、遠雷にしては軽い音だし、火頭窓から覗く空は清々しいまでの快晴のまま。
「ふむ、火仗(かじょう)か」
「火仗? こんな時間に慶事も弔事も――」
火仗とは、要は鉄砲。
さっきの音は空砲で、これは博麗大結界が確立する前後に取り入れられた礼式の一環。
そもそも、しきたりにも大きな差異がある多数の宗派が入り乱れる妖怪の山。各種の差作法や礼式にもローカルルールが蔓延した際、これを斉一なものにしようと取り入れられたのが、武家の様式や、それを更に近代的にした軍隊的礼式だったりする。(ただし挨拶などに挙手礼などはせず、礼拝が基本ではある)
故に火仗の管理や使用は『典礼官』以下の組織の所掌。
「ついさっきお前が口にした検非違使の、出陣の号砲だ。ふん、天邪鬼追討などに検非違寮を動かすかよ。権現自ら出張って叩き潰せばそれで終いだろうに」
「玄庵様、今なんと?」
「天邪鬼退治だ。先般公告された手配書は、幻想郷に檄を飛ばすと共に、御山が兵を出す正当性を示すための物だったんだろう」
「そんな……」
まさかそこまでの行動に出るとは考えていなかった。いや、当然及ぶべき考えに至らなかった自分を責めるべきだ。文は体内の熱が失われる錯覚を覚える。
「あの御仁らの事だ、またぞろ何か企んでいるに違いない」
御仁らとは御八葉の事であろうが、一体彼らが何を企むというのか。やはり、幻想郷においては妖怪の山が第一と、覇を唱えるつもりなのだろう。この箱庭の楽園で。
文にはそんな事は知った話ではない。真なる危機の陰が見え隠れする現状にあって、今そこへの手がかりが失われる瀬戸際かも知れなくなったのだ。
(このタイミングで? やはり御山に――いや、今の御山に鬼の魔力を持つモノなど……)
ただ、これからの英彦の話が如何なる物であっても、速やかに終わるとは思えない。
(椛、頼んだよ)
翼が及ばないのならばその脚が。昔からそうして来た通りになるよう、文は祈った。
検非違寮の兵に続き、椛が守矢神社方面に駆ける。
どこに潜伏していたのかは依然として不明ながら、正邪が妖怪の山を、守矢神社方面にめがけて飛んでいるのを確認。文の推理は正解だった。
だが、駆けつけたところで何ができるのか。
先に正邪を捕縛したとしても、妖怪の山の一員である椛が、これを検非違使達に引き渡さない道理は無い。それでは椛が罪に問われる。
早苗に今回の件が明かされたのは知っているし、そうであれば彼の社の二柱にもそれは伝えられたであろう。
ただ彼女らも、組織の一員でこそ無いが、妖怪の山と領域を摩する者同士。それに新参者という弱みが前面に出れば、真偽が確かでない正邪の案件よりも、隣人との友好関係を優先するだろう。
誰が、どう動くのか。どう動くべきか。
その答えと選択肢は、既に局限されていた。
正邪はまだ山にも到達していない。このままなら検非違寮の兵が先に接触していただろう。しかし彼らは、神社よりもかなり手前で足踏みしていたのだ。
「おっと、これは妖怪の山の天狗殿らか。折角だから我も天邪鬼追捕に参じようとしたのじゃが、これはどういうことだ?」
これに兵達の長に任じられていた少尉(しょうじょう)が前に出て叫ぶ。
「貴様は尸解仙の道士! 妖怪の山に勝手に立ち入るならば逮捕するぞ!」
烏帽子を被った少女は、武装した天狗の群れを前にしても、恫喝にすら少しも動じず、堂々と答える。
「うーむ、仙人なのか道士なのか、ちゃんと認識してもらいたいものじゃが、まあよい。我は山の神社への参拝のついでに手配書を思い出しただけだ。ここはまだ守矢神社への参道であろうに。我はまだ妖怪の山に立ち入ってはおらぬぞ」
彼女は聖徳王豊聡耳神子の同志にして部下、古代日本の尸解仙、物部布都。
仏教と神道と道教を股に掛けた尸解仙が参拝とは、中々の口上である。
それよりも、妖怪の山の中での神社という領域の境界に関しては、あえてグレーゾーンのままになっている。これを以ての処断は難しい。
ならばここは声の大きい方が勝つが、
「屁理屈ばかりをこねおってからに。者ども、引っ捕らえよ!」
先に手を出した方の負けになるのは必定。
一斉に襲いかかる十名からの隊伍を、布都は仙術を用いながら軽く迎え撃つ。視線を椛に投げ、先行を促す余裕すら保ちながら。
それに応じて一人前進した先で、椛は更に驚くべき人物を目にする。
「伊吹様?!」
妖怪の山には元々、鬼が君臨していた。そこでも特段に大きな力の持ち主、四天王と称された鬼の一人が、今そこに居たのだ。山でのヒエラルキーの低層に在る白狼にとって、伊吹萃香がここに戻っていては驚かない方が難しい。
「よお、お前あのブン屋の知り合いの白狼だったよね? 私も天邪鬼の話は聞いてるよ。ここの神様二人は、山の下から上がって来た道士とのいざこざの調停に向かったよ。って体で。こっからは私がどうにかするから、とりあえず天邪鬼の場所を教えてくれるかな」
萃香はごく当たり前の様に、椛に問いかける。
確かに、彼女であれば追捕使からの要求も有耶無耶に出来る。それに、確実に正邪を捕らえられるであろう。
椛は萃香の問いに応じ、正邪の現在地を精密に計る。
「ほぼ真南、距離はおよそ一里と二町。こちらから迎え撃ちますか?」
見れば萃香は瓢箪を傾け、悠々と酒を煽っている。酒精の匂いは玄庵よりも凄まじいが、この場は歯を食いしばってひたすら耐える。
「いや、来るってのならここでゆっくり待つとしようか。手間は少ない方がいいし。それよりさ、あの小鬼を捕まえて、欲しい情報が出て来た後は、どうするつもりなのかな?」
椛ははたとする、考えてもみなかった。自分はその如何を決断する立場にないし、判断する頭も持っていない。あくまでも命令に従うだけ。
「私は、指示に従ってるだけですから」
「じゃ、あそこの天狗達が押し寄せたら、はいそうですかと黙って渡すつもりだった?」
「……はい」
軽蔑するであろうか。鬼相手ならそう思われても仕方ない、特に今の煮え切らない態度では。椛は半ば恥じ入る気持ちで萃香の応答を待つ。
「お前さんも立派な組織人か、難儀だねえ。ちょっとはいつもはお前さんが毛嫌いしてるブン屋を見習ってやりなよ。あいつ、ああ見えても骨はあるんだから。私も嫌いだけど」
「ええ、それは知ってます。嫌になるぐらい……!」
「ホントに難儀だよ。ああところで私は、友人二人からあいつの沙汰を任されてるんで、その通りにさせてもらうからね。あしからず」
友人二人。片方は紫だが、もう片方はもう一人は、
「来ました!」
椛は感情と行動を切り分け、捉え続けていた影が一つ奥の山稜を越えようとするのタイミングで、萃香に知らせる。
もう一人の友人、先般の件の意趣返しか。星熊勇儀に引き渡されたら、正邪はどうなる。寓話の中の天邪鬼をなぞって八つ裂きにされて、また悲劇が広がるだけじゃないか。
そんな困惑と、役目との板挟みになりながら――
(もうあんな物は、見たくない……)
しっかりと頭上を見据える眼光はしかし不安に満ち、それ以上に尾や耳に感情が表れる。萃香は性格にそれを読み取るが、貶しなどはしない。
「安心しなよ。多分これが誰にとっても、一番、幸せな途だ」
そう言って飛び立つ萃香の背を、椛は呆と見送る。
再度考える、彼女らが正邪をどうする気なのか。
落ち着いて思い返せば、萃香も勇儀も一見粗野には見えても、奔放な振る舞いがそう思わせているだけ。実際は賢者にも近い深慮を持っているに違いない。
だからこそ、正邪の処分にも、迷わず最善の策が取れるのだろう。
殺すのが危ういなら、封じるしかなかろう。幻想郷には、長らくそうされてきた者が、妖怪に限らず存在する。正邪も彼女らと同じくされるのだ。
椛にとっても天邪鬼は忌むべき存在。であれば、後は萃香に任せて溜飲が下がるだけの沙汰を期待して待てばいいだけ。
だのに――
「違う。やっぱりそれも、駄目なんだ……!」
斃すでもない、封じるでもない。ではどうするのか。一番近い考えを端的に言えば、それは極めて高慢でエゴにまみれた二文字に収束する。
救済。
椛の考える『救済』は、箱庭の護法達の本山――妖怪の山の意義を辿ったものではない。これはあくまでも、椛自身が抱く想いだ。
天邪鬼を救う。なぜ己がそれを考えるのだ。椛は自らに問いながらも、これには明確な答えを持っている。この自問自答は、始めから定まった意思の再確認。
彼女は、思うとおりに生きられなかった、生きられないようにされた全てのモノ達が負わされた業の体現。
それは鬼であったり河童であったり、深山に潜んだ覚や土蜘蛛、橋姫もそうだ。
それに――
「ちょっと椛。今のまさか伊吹様じゃないよね?!」
はたてが降り立つ。
珍しく外回りか。今回はあちこちで事が起こっている、念写では間に合わないのだろう。
「そのまさかです。あの方自ら、天邪鬼捕縛に打って出ました」
――この娘と、その母も。
「英彦山豊前坊様。斯様な時分のお呼び出し、如何な用向きでありましょうか?」
入室と同時に礼拝。顔を上げてそう言った文の視線に居たのは、座椅子でくつろぐ柔和な老爺。彼が鎮西一の天狗と呼ばれた英彦山権現豊前坊その人である。
彼は案内の玄庵を下がらせると、文を手招きで呼び寄せる。
三人も入れば狭苦しくなるであろう、こぢんまりとした茶室。二歩歩けば彼の用意していた席に着くことが出来た。
「おう、おう。最近、またあちこち飛び回っちいると聞いてな。飯綱殿もばり苛ついとったけん、そこでちょこっと昔話ばしたいち思ってな」
「昔話、ですか」
「今飛び回っちいるんは天邪鬼の件でやったか。射命丸、また何か企んどうとせんか?」
やはり知られていたか。そこまでならまだ、知られていても問題は無い。
それよりも彼の柔和な笑みが少しも崩れていない。それがむしろ恐ろしい。
「彼奴ん動きに乗っとんじゃなかんか? あん戦で、鞍馬殿ご自慢の陰陽兵器ば斃しい、天や我らち、人ば繋ぐもん切り裂いちあん時んごと」
それはもう、九百年近くも前の話だ。今更その話を持ち出して何を語りたいのか、文にはすぐに察しが付いた。
要するところ、今回の天邪鬼の幻想郷転覆の企みに乗じ、文が妖怪の山から何からを切り取りに掛かっているのではなかろうかと、彼は言っているのだ。
文本人からすれば、余りにも馬鹿馬鹿しい話。だが彼にとってはそうではないのか。
妖怪の山の一部の者からの文への恨みは、根の国の底に穴を穿っても足りないほど深い。先ほど彼が言った“あの戦”が全ての元凶であり、それは文がこの地でも一番古い天狗となった原因と同じだった。
「まさか、私の如きに出来る事など、限られるどころか何もございません」
「それもそうじゃったか。いや、今は鞍馬殿にも認められとうお前ば疑うつもりも無かったんじゃが。ワシ等んごたる田舎者にはありがたい革命やったしな。しかし――」
「しかし?」
「きさんはよくても、あの娘はどげんやろか?」
神使の娘として生まれ、やがて外道に落とされた自身の恨みなどは“ここ”に一分も入り込んでいない。
この山犬は誰かと共に生き、誰かの意思を汲みながら歩んできた。権力や権威、単なる力による建制に収まるのは犬狼のサガ。そもそもそこには恨みなど生じない。
そう自身を律する椛とは対照的に、半ば好き放題のはたては、萃香のお出ましに素直に不快な感情を現す。彼女が言うところのドン引きという表情だ。
「うわーマジかー。出てくるんじゃなかったかなぁ」
「伊吹様に任せれば解決ですよ。あの方ならどこに逃げようが、幻想郷の中に居る限りは確実に見つけ出して絡め取れます。今まで手を出さなかったのは、情報が得られるかどうか、確定するのを待っていたんでしょう」
言ってから椛はハッとして口に手をやる。
「情報って、天邪鬼から? 一体何のネタよ、教えて椛!」
ズイッと詰め寄るはたて。言い逃れが出来ない椛は事の大枠までを答える。
「彼女に幻想郷転覆の企みを行わせようとした、その主体の正体についてです」
黒幕の思惑を、輝針城異変の成功の目があった段階かその前、旧地獄を巻き込んでの騒動までに限るかで、話は大きく異なる。だが多くの状況は、それが異変直前までに区切るべきであるのを示していたし、紫達の結論もほぼその通り。
はたての目は急速に智恵をあふれさせ、僅かな情報から状況への理解を広げる。
「……旧地獄を決起させるのがその主体――黒幕の考えなら、その意図は何?」
「え?」
「これどうせ文が言い出したんでしょ。私は天邪鬼が天邪鬼らしい騒動をやらかしたとしか思ってなかったんだけど。文の説を採用するとしても、地底を溢れさせて、そっから先はどうさせたかったのかの動機が抜けてる。文はこれが何か言ってなかった?」
この件を取り仕切っているのが紫であるのを、椛は言わない。今の話を続けるだけなら、文だけで十分だった。
「いえ、何も言ってませんでした。ただ、その黒幕を洗い出そうとしか」
「……今の状況、そのまま当てはまりそうね」
「今の状況。天邪鬼に対しての検非違寮の進発、がですか」
「手配書を出したのに誰も敵わないものだから、今度はあれを盾にして堂々と兵隊を出したんでしょ。逆に考えればさ、今回は、正当な理由を付けるために手配書を出させたって考えられる。ここで地底の一件に戻るよ。もし天邪鬼の地底調略が成功していたとして話をすれば、旧地獄が溢れたら、その時点であっちをやっつける理由が出来上がる」
椛は理解が追いつかないながらも、重要な点にだけは気付いて指摘。
「でもそれをやるには、黒幕、溢れた旧地獄を迎え撃つ側にも相当な戦力が必要ですよ」
それが可能な勢力など、幻想郷のどこにあるのか。
他には無い。ただ一箇所、この足下を除けば。
「御山……」
正当に旧地獄の妖怪を殲滅出来たなら、妖怪の山に敵う勢力などはもはや無くなる。
妖怪の山にも多くの犠牲者が出るのを厭わず、かつ、確たる勝利をもたらせる公算を持ち、幻想郷に真に覇を唱えようとする者がいるなら、この理屈は通る。
「そんな……いや、天邪鬼の企みは、小人族の携えた打ち出の小槌の力が大前提です。旧地獄での件も先の異変も。当初はそれに黒幕が魔力を注ぎ込んでいたんだと。その小槌の稼働に必要なのは鬼の魔力なんです、今の御山に鬼はいませんよ」
勇儀も萃香も鬼は皆、妖怪の山を出て行った。大天狗が幻想郷に移住するのに前後して。
また八大天狗と呼ばれる者やそれ以下の権現格にも、鬼の名を冠し、あるいは鬼神と同一に語られる者はいる。
しかしそれらは外の世界で信仰を保ち、あえて幻想郷には訪れようともしていない。
「あんまり考えたくないんだけどさ」
「何です?」
「私、権現格でもないのに、鬼神って名乗った天狗を一人、知ってるのよね……」
引きつった笑いを浮かべるはたてに、椛は強く頷く。
それは陰陽兵器『護法鬼神』と呼ばれた、鞍馬僧正坊の最高傑作。
古き英雄、源九郎義経をよく導き、かの源平合戦の裏で彼に投機した鞍馬山と奥州藤原氏の両者に、いっときは間接的な益をもたらした鴉天狗だ。
既に彼女は喪われ、大八洲のどこにも居ない。ただその血筋は、今まさにここに在る。
「いやいや待って、無理、待って。私はそんな話まったく知らないし、鞍馬の若作りとかその他諸々のジジイか誰かにどうにかされたなんて、ぜぇったい無いから!」
はたては自分で言っておいて、極めて大仰に動揺。
頭の回転は文といい勝負であろうが、良くも悪くも素直な性格は、決して謀略に向くとは言い難い。椛が少々口は悪くてもはたてを好むのは、そんな心根の純朴さを知るからだ。
「と、とりま、やっぱ旧地獄は被害者で、伊吹様はそっちの協力者か。スキマは?」
「伊吹様は二人の友人の頼みで来たと言ってました。彼女の立ち位置もそちら側で間違いありません。何より彼女が、争いを助長する真似をするとは考えがたいです」
ここでようやく紫の名を出せた。実際、彼女は誰よりも“幻想郷寄り”。だからこそ、半ば杞憂とも思える今回の件に真っ先に至ったのだ。
やはりそうだろうと、今度ははたてが頷く。
「けどこのままで、いいのかな?」
何か感じるところがあるのか。鬼の名を冠しただけの弱小妖怪に。
「天邪鬼を捕らえるのがですか。伊吹様は必要な情報を引き出したら、旧地獄の奥底に封じるお考えのようでしたが。文様も言ってましたけれど、天邪鬼には殺すと呪いをまき散らす懸念があるそうなので、スキマの依頼を受けた伊吹様もそこに至ったようです」
「捕まえてゲロらせるのはいいよ。でも殺すか、地獄にすら至らない奈落に封じて、それでお終いにしていいのかな。散々な目には遭わされたけど、あいつだって半分は被害者じゃん。ここって、幻想郷ってそんなに容赦の無い所だったのかな」
普段なら、旧地獄のモノを指して卑しいモノを卑しいとズケズケと言い放つはたてが、今はしおらしくしているのが椛には気になった。
「仕方ないかと。ルールを破ろうとするモノを守る理屈なんて、どこにもありません」
断じて本心などではない。自分こそ、はたてを置いてでも向かいたいのに。
「あなたがそれを言うの、椛。私には、無理だなっ!」
全力飛行を行うために発した妖力が形を取り、はたては背に真っ黒な翼を負う。間髪入れずに彼女は飛び上がり、一挙に加速。
「私だって、同じなんですよ!」
どのみち劣るが、自分の場合は飛ぶよりは走る方が速い。椛は地を蹴り穿ち、三歩でトップスピードに達すると、舞い落ちた紅葉を巻き上げながら疾駆する。
「やっぱ来てくれた!」
椛が駆け出したのを察知し、速度を落として迎えたはたて。椛が自分を止めに来たのでは無いと信じているのだ。
実を言えば止めたい。止めて自身は先に進みたい。
「御山の方針に逆らえばどうなるか分かってますよね!」
言葉ばかりの殺生戒は敷いているため、極刑としても死罪は無い。しかしよくて山を所払い、悪ければ幻想郷の外へ放逐されて野垂れ死なされるかも知れない。
どのみち向こう十年どころではすまない辛苦が待っていよう。
そのうえ鬼にも逆らったらどうなるのか、二人ともよく分かっている。
「ゴメン、分かってる。でも道案内よろしく!」
「どこに居るかすら知らないのに行く気だったんですか。承知です」
苦笑しながら、椛は視界を延長させ、飛ぶよりも遙かに早く、萃香と正邪が相対しているであろう地点に視点を到着させる。
「そんな……!」
「どうしたの?」
椛は答えず、愕然とした表情を見せながら、はたてを誘うのみだった。
「いやぁ参った。まさかあそこまでとんでもない奴だとは思わなかった。油断したよ」
声音も表情ものほほんとしたまま、萃香は言う。
倒れた木々や地面に開けられた穴など、周囲には極めて強力な妖術を浴びせられたと思しき様子が見受けられる。そんな状況でも笑っていられるほどの傷ですんでいるのは、鬼、それも四天王と呼ばれた萃香であればこそだろう。
「手当、などは」
「ああ、いらないいらない。唾つけとけば治るから。で、よかったね、お二人さん。私にもお山にも逆らわずに済んで。でもアレ、この通り相当厄介だよ」
各勢力だけでなく、一人一人の思惑にまで思考を巡らせていたのか。やはり鬼は恐ろしいと、ただの力の差以上の畏怖を改めて意識する二人。
そして厄介などとは、萃香に言われずとも分かる。それは今し方彼女が身を以て示してくれたのだから。
正邪に勝機など無いと思っていたし、二人にしても萃香と戦うことになったら勝算などは無かった。
「言い訳するけどありゃメチャクチャだ。全く何も無い所にいきなり力が萃まって来た。あんた達、あの力の正体知ってるの?」
「打ち出の小槌の魔力が一時的に、奴が持った写し身に込められたのかと」
「ああ、あれ一時的なのね。それであいつ戦いが終わったらとっとと逃げたんだ」
正邪は退散し、行方を眩ませているが、すぐに見失った事が逆に潜伏先を限定させる。
「はい、つい先日は、黒白魔法使いや白玉楼の庭師が、奴を相手に後れを取ったという話です。それが、天邪鬼が小槌の魔力の恩恵を再び受けたからだと」
その時も、そのまま進行を続けずに退散している。マジックアイテム自体も使用に制限があるし、彼女の手元にある全てが苟且なのだろう。
「そうだったね。あそこら辺で駄目となると、こりゃ相当だ。私も一旦話し合いしてから出直すとするしようかね。ときにあんた達、私を止めた所でどうするつもりだったの?」
はたてと椛は互いに視線を交わし、同時に視線を落とす。
「そういう考え無しのガムシャラなの、嫌いじゃないよ。特にこの山ではね。ま、お知り合いのブン屋みたいに面従腹背、狡っ辛い真似ばかりしてるのは流石にアレだけど」
感情のままに。今のそれがどんな所から来たのか、二人には自覚が無い。それの赴くままに動くのが拙(まず)いのも深く心得ている。組織の中で動く椛はいよいよと。
萃香からの評価はさておき、これ以上は組織を離れて動けない。これが自身が本件に直接関われる最後の機会であろうと、椛は意を決して問う。
「伊吹様。あなたがブン屋と仰る天狗、射命丸様達は、確か奴が携えるマジックアイテムから魔力の残滓を辿って黒幕に迫るか、特定する手はずだったはずです。伊吹様にはそれは分かりますか?」
「あー、それもそうだったっけ。でも辿るのは無理みたいだし、魔力も比べてみないと分からないよ。匂いみたいなもんだと思ってよ」
「比べてみれば分かりますか。ではせめてお教え下さい。奴が携えた道具から漏れ出た魔力と、今この場で感じ取れる魔力。似通った物と感じ取れますでしょうか?」
ただの下っ端天狗如きの願い、無視されても何も言えない。しかし萃香は、目をつぶって腕を組み、うんうんと唸っている。感じた魔力の残滓を思い返しながら、それの同定に感覚を集中しているらしい。
「椛、なんでそんな事……」
椛は唸る萃香をよそに、はたてに笑みを向ける。
「感じる、ね」
「え」
はたては口に手を当てて沈黙し、椛も目を見開いて萃香の言葉の続きを待つ。
「って言っても、辛うじてこの山麓でも感じ取れるって程度だよ。守矢神社からでもなければ、まかり間違ってもあんた達じゃない。それになんだか、鬼にしては妙だなぁ」
二人は揃って安堵するが、萃香の表情は険しい。
「私も最初から絡んでればなー。まあいいか、今回の話は下手に私達『鬼』が絡むと面倒くさそうだったし。じゃあお二人さん、私はここでお暇するから。末永くお幸せに」
萃香は去り際にからかったつもりだったが、二人はインフレした不安が一気に解消された反動で、通り一辺倒の応答だけで精一杯になっていた。
∴
妖怪の山に見いだしていた風穴を降り、旧地獄へ帰り着いた正邪。
思ってもみなかった本物の鬼、萃香の登場で、守矢神社の神々と戦う余力など無くなり、旧地獄へ無事に避難するだけで精一杯になっていた。
旧地獄に至れば、まず通る場所は決まっている。始めからそこが目的地でもある。
「おーい、ただいまー」
他に誰も居ないのを良い事に、正邪は欄干に腰掛ける人物に手を振る。
「ただいまじゃないわ。逃げて来て夕刻には地上に繰り出した挙げ句、今になってまた舞い戻ってくるとか、一体どういう了見?」
「ははっ、良い事を思いついたんで、ちょっと試してみたくなったんだ。凄いぞ、鬼にも勝てたんだからな」
驚くより他ない。
パルスィが知る地上に残った鬼など、萃香ぐらいのもの。天邪鬼の発言ゆえに半信半疑になるが、彼女を退けたのが事実ならば今は勇儀をも相手に出来るかも知れないからだ。
「けど使える時間が短いな、こっちに戻ったらてんでだ。折角あの一本角に一泡吹かせられると思ったのに」
「やれるならやってみればいい、私は止めないから」
「そう言えば私が奴の所に行くと思ったか? 生憎だが私も勝ち目の全く無い戦を仕掛けるほど馬鹿じゃない。お前が何を企んでるのか知らないけど、思い通りにするもんか」
言って正邪は舌を出す。前髪と合わせて二枚舌になった様にも見える。
「なら私からも言っておくけれど、あなたを封じるなんて私には容易いご用なの。貯えた嫉妬の力を、緑眼の怪物と共に使役して、あなたをすぐそこの奈落に落とすだけだもの」
奈落とは地の底、地獄を指す。しかしここは地獄のスリム化と共に捨てられた地。奈落の更に奈落とは、如何なる事か。
旧地獄に開いた奈落への入り口は、橋姫が居るからこそ存在している。
仏を祀る信仰と、更に西方の民の信仰が和合を果たした時、共に訪れた主神を祀る巫女、波斯姫が、此岸と彼岸を分かつ川を渡る途(みち)の一つとして、橋を架けた。ただしそれは、平安時代の終わり頃に信仰の中から姿を消したのだ。
それは、今ここに架かる橋その物。
かつて西方の民と共に在った時には、この橋は善き者を主神の下まで導き、悪しき者を地獄へと落とす『選別者の橋』であった。
しかし今、旧地獄の底に更に開かれた奈落に、もはや行き先は存在しない。足を踏み外せば、救済も終末からも切り離され、宇宙の物理的終焉までの永劫落ち続けるのみなのだ。
「お前みたいなナヨッとしたのが私に勝つだあ? いくら妖力を封じられてるからって、甘く見るなよ!」
言って正邪は室内で弾幕を張る。
自力での弾幕の威力はたかが知れているとはいえ、家財や壁には穴が開いてゆく。パルスィは妖力でこれを防ぎながら、正邪に怒りの籠もった視線を向ける。
「そうだ、その目。いい目だ!」
そこらの妖怪どころか鬼であっても、その緑眼に囚われ、腹の中に僅かな嫉妬でも抱いていれば、心ごと腹の内から食い尽くされる。それこそ、覚妖怪が顕現させる獲物の抱く『トラウマ』よりも、遙かに惨たらしく。
スペルルールに依らない橋姫の実力は、場合によっては旧地獄の誰よりも恐ろしい物かも知れない。
正邪は、その視線を受けても平然と次の手を打つ。
『打ち出の小槌(レプリカ)』
「どっせぇい!」
左手で弾幕を展開したまま右手で振りかぶったそれを、パルスィに叩き付ける。しかしその手には、妙な手応えだけが返る。
パルスィの姿が弾幕となって弾け、小槌と正邪の身体に襲いかかったのだった。
「まったく、部屋がボロボロ。その小槌の魔力が使えるのなら直してよね。いや、やっぱいいわ、それがもたらすのは邯鄲(かんたん)の夢が如き盛衰の幻。あなたが自分の手で直しなさい」
正邪の背後で、窓枠に腰掛けながらパルスィは命じる。始めからそうなるのが分かっていたのか、そこにあるはずのビードロ障子も外されている。
表裏をひっくり返して背後を取るなどは、天邪鬼の十八番。それを自分がされたのに驚きながら正邪は振り向く。
「一体どうやったのかって? 簡単よ、始めから二人居たんだから」
「はっ……? はぁっ!?」
「おいで」
もはや隠すこともせず驚きの声を上げる正邪をよそに、パルスィは誰かに命じる。すると、正邪と戦っていたパルスィがいた方から雀が一羽飛翔し、パルスィの肩にとまる。
「橋には端が二つある、とんちじゃ無いわよ? だから橋姫も二人必要で、そうして初めて橋が架けられる。でも私の場合はちょっと事情があってね。そうそう、この子は妬みのおとぎ話になぞらえてこの姿なの。可愛いでしょ?」
要らぬ自慢話やら自分語りやらを大人しく聞いている正邪ではない。パルスィの問いかけに拳で答えようと殴りかかる。
「だからやめときなさいって」
ゆらりとパルスィの姿がゆらぐと、次の瞬間、正邪の姿は橋の下、奈落の真上にあった。
「おい、なんだ、これ――」
上流を見ても下流を見ても、水無川からは断崖が立ち下がっている。これが水を湛える大河であれば、壮大な瀑布が姿を現すであろう。
そんな巨大な地隙の上で、正邪は重力の喪失を感じる。正しくは落下だ。
「う、うわぁぁぁぁ!!」
飛行は出来ない、これが地獄への行き道。
正邪はこの奈落と同じ底なしの恐怖に、ただ叫び続ける。
「だから言ったのよ」
パルスィの言葉を受けた正邪の身体は、水無川の河川敷に叩き付けられていた。
「なぜ助けた……」
実際に落ちた高さは大したものでは無かったらしく、正邪は呻き声を上げながらも、同じ場所に降り立ったパルスィに確かな声音で問いかける。
「あなたに興味があるのよ。あなたはどうして、こんな事ばかり繰り返しているの? 敵わない相手に牙を剥いて、弱い者を食い物にするのは自然な事よ。でも強者に逆らおうという最たる動機は、およそ恨み、妬み嫉み、嫉妬のはず。横文字ならルサンチマンの方が合っていたかしら?」
今し方、散々にコケにして見せたのも、その“声”を彼女の中から引き出すためだった。だが実質上の今際の際に陥れられても、彼女の中からは未だに恨み辛みなど現れない。言動はこれでもかと言うのでも足りないほどそれを口に上らせ、その通りの態度なのに。
「そんなの聞かれても知るものか。何が言いたいんだ」
「だから、あなたは何を原動力に、勇儀や地上の妖怪達に逆らい続けるのか、それを知りたいの。何があなたにそうさせるのかを」
「恨みならあるさ、天壌の全てに」
「あなたはそう言うけれど、あなたの心は違う。あなたは何を抱えているの?」
そこまで問いかけて、パルスィは言葉を止める。
「雀!」
肩にとまっていた雀がパルスィと同じ姿を取り、旧都側のたもとに向かって行く。
「無駄だよ、パルスィ。そいつは始めからこの奈落に落とす予定だった。今ではないけど、いずれはね」
「勇儀、それにさとり」
河川敷に降りて来たのは、手下の代わりに地霊殿の主を連れた勇儀だった。古明地さとりが居て、勇儀がいる。どこからこの件が漏れたのかは、容易に想像出来た。
「ヤマメはどうしたの?」
「心配ご無用、特に沙汰は無いよ。でもパルスィもヤマメも、なんでそんな奴を守ろうとしたのか、出来れば聞かせておくれよ」
匿っている期間がほぼ皆無だったのもあって、勇儀も大きな騒動にしたくはないらしい。
「言っても理解して貰えないかもしれないけど、興味があったの。妬みも嫉みも抱かないまま、あんたにも地上にも反発し続ける天邪鬼って妖怪に」
圧倒的強者である鬼ですら、嫉妬は抱いている。恨み辛みなどと言えば尚更、これを抱かないモノなど本来なら、路傍に転がる石とそう大差無い。
「初めて嫉妬を持たない妖怪に会ったからって言うのかい? それは興味が湧くのも頷けるね。でも、地底の話で全部が完結するならそれを許してたけど、今回は事が事なんだ」
「やっぱり地上での話?」
「ああ、萃香の協力にね。あいつの別の友達の頼みだって話も聞いちゃったしね」
勇儀も立場としては複雑なのだろう。ただ正邪の始末だけはなんとしても進めなければならない物となっているのはすぐに理解できる。
言葉の足りない部分はさとりが補足する
「地上の妖怪の賢者の要請は、至極真っ当な物だったわ。それに地底でも、天邪鬼を匿う理由は何も無い。どうしても旧地獄の自治権を前面に出したいなら、地上と争いになるのも覚悟しなくてはならない」
さとりの両の目はジッとパルスィの緑眼を見つめているが、胸の前に据わった第三の眼は正邪へパルスィへと、交互に視線を走らせている。それぞれの心を読み取っているのだ。
「なるほど、パルスィが言った通りね。言動に関する真偽は読み取って視ていたけれど、それ以上の深層で、不可解な心象が広がっている。これは……」
「この、勝手に私に触るなぁ!」
何かの感覚として感じることは出来なくても、さとりが心を読み取っているのだけは察した正邪は、またも果敢に襲いかかる
パルスィが添えた手を振り払って逃げようとする正邪。その心を全て読み切る前に、彼女の表象を発現させようと試みるさとり。
「無駄よ!」
スペルを宣言せずに正邪の心象にあるトラウマを想起。どんな弾幕が彼女に襲いかかるのか、さとりにも想像がついていない。
現れたのは、片翼を失った真っ白な鵠(くぐい)だった。
「これは?!」
さとりの想定の範囲外だったのか、困惑しながらそれを御そうと試みる。
しかし鵠はさとりの妖力に従わず、一度羽ばたくと無数の羽をそのまま鏃として撃ち出す。ただの弾幕と言うよりもっと違う次元の何かだ。
正邪は鵠に救い出され、そのまま風穴の方へ向かって行く。その姿は脅威から逃れたと言うより、誘蛾灯に惹かれる虫のようにも見える。
射撃の激しさから追跡をためらっていた三人がようやく頭上を見上げた時、正邪の姿はそこには無かった。
勇儀は先ず、さとりの力で想起された不可思議な現象について尋ねる。
「古明地の、あれはどうなったんだい」
「迂闊でした。あの天邪鬼、幾重にも仕掛けが施されてます」
「仕掛けだって?」
「あれには、殺すと穢土の中で別の生(しょう)を得続ける呪いが掛かっているという話でしたね。そんな呪いを施せるのなんて、おそらく――」
「まあ人間にも妖怪にも、そんなのまず無理だあね」
人間にも妖怪にも無理なら。何がそんなものを彼女に課したというのか。
「パルスィ、今の話の通り、あいつにはそんな呪いが掛かってる。それに天邪鬼が天邪鬼たるのも、恐らく同じ奴の嫌がらせさ。そしてそれこそ、パルスィが知りたがっていた、奴の行動の原動力だ」
原動力とは何のことを指しているのか。当初の探求への興味はまだ尽きていないが、それよりも――
「嫌がらせ? 誰の、誰に対する嫌がらせなの?」
「今は確実な話は出来ない。けれど今地上では、ちょっと前に起きた異変の黒幕を探してるんだと。実際には前に奴を地底に寄越したのがそれだ。すぐにあいつを奈落に叩き落とさなかったのもその話があるからさ。まあパルスィが蹴落としてしまってたら、それはそれでしょうがなかったんだけど」
パルスィもあくまで力を見せつけただけ、本当に落とそうなどとは思っていなかった。
「で、その黒幕とやらが呪いを施した張本人でないとしても、同じ側に立ってる奴だとは思いますね。これもまだ推測ですけれど」
「同じ側ね。なんとなく分かった気がする……」
本当に、なんとなくでしかない。
ただ一つ分かったのは、彼女が負わされたものが、旧地獄の多くのモノ達が負うものと近しいという事だけ。
鬼は、土蜘蛛は、覚は、始めからこの姿であったのか。
橋姫は知っている。自身がどこから来て、どうしてここに在るのか。
そして、天邪鬼は――
「おっと、首尾はどうだった。ヤマメ」
スッと降り立つヤマメを、パルスィも思惟止めて迎える。
「すいません姐さん。今度こそは捕らえるつもりで網を張ってたんですけれど、十人がかりの包囲を貫かれました」
他にもいくつかの地上に至る風穴を、分散して塞いでいたのであろう。十人も土蜘蛛が居れば、天邪鬼に勝てる道理は無い。それだけ彼女を生かそうと――否、呪いから逃すまいとする者が居るのだ。
「あたしらを怯ませたぐらいだったからなぁ。あれの原因については黙っといてやってよ、パルスィ。ヤマメのした事も一緒に不問にするから」
「ヤマメまでダシにするなんて、賢しい奴ね」
勇儀はふむと鼻を鳴らして頬を掻く。
「鬼に横道無し。私は別にダシにしたつもりは無いよ。今回の事だけじゃなく二人には恩もたくさんあるし、そこは心配しないでって言いたかったの」
「言葉足らずですね、勇儀は」
さとりはそう言いながらも、感謝の念を顔に浮かべている。
「大女、総身に知恵が回りかね、ってね。私は考えて話をするのが苦手なのさ。言葉通り素直に受け取ってくれよ。ヤマメ、パルスィ」
「有り難うございます、姐さん。では今もう一度だけ、わがままを許して下さい」
「わがまま?」
「私が一人で行って、天邪鬼に始末を付けてきます」
「始末って……あいつは殺すと拙いって、地上からも言われてるんだって言ったろ? あんたに、ここに突き落とす他に何が出来る」
「姐さん、信じて下さい」
「……ならその場で始末はしなさんな、あんたがやるのは捕らえるまでだ」
「はい、有り難うございます」
地上に出るのは許す。そこから先、勇儀はヤマメを信じた。
「あなたは、何を考えているの。それは一体、どんな意味を持つの?」
そう言って飛び上がろうとするヤマメに、さとりは三つの困惑の視線を投げかける。
今のヤマメの思惑は、さとりですら見透せない不可解なものなのだ。
更にパルスィがその腕を引く。
「待って。勇儀の考えも地上の妖怪の考えも違う、それでいいはずがないわ」
「パルスィ?」
「天邪鬼は、あれは私達と同じ、私達その物よ。勝手に連れて来られ、勝手に使われた、そういうあやかし全ての体現。でもあれはもっと非道い。心から望むほど叶えることが許されず、望まないからそうさせられる。あれが嫉妬も抱かず悪事を続けるのはそのためよ。
誰にそうされた? 自分の手を穢したくない、既に穢れている事実すら遠ざけ、私達に罪過、不浄を仮託して勝手に“ありよう”をすげ替えさせた奴らによ。それは――」
その眼が深い緑に淀む、どれだけの負の想念が奥に渦巻いているのか。
ヤマメはその光を山吹色の明るい瞳で迎える。
「パルスィ、落ち着きな」
勇儀に肩を抱かれ、パルスィははたと正気に戻る。正邪のことを思う中でぶり返した自身の嫉妬に、呑まれかけていたのだ。一抹の同情を携えて。
「勇儀、ヤマメ。旧地獄ならあいつでも暮らしていける。どんな悪事をしても、もっと悪辣な奴は山ほどいるし――」
「駄目だね。お天道様から身を隠させるのも考えに入れてるんだろうけど、あのていたらくじゃ何やってても結局殺されて、また元の木阿弥。その度に旧地獄に収容なんて、そんな手間を一匹の妖怪にだけやってられないよ」
人間がその害を被るなどは、正直に言えばますますどうでもいい話。あくまで地底に限った話をしても、彼女を迎え入れようなどと言う考えは、勇儀の中には無い。
「じゃああいつは、永劫闇の中に」
「どこで生きてたってそれは同じだろう? いや、生きて死んで生まれ直しての繰り返しだったか、私だってゾッとしない。それでヤマメ、行くのかい?」
「今のを聞いて、ますます確信しました。行ってきます」
その顔を、この地底にある何ものよりも明るくして、今度こそヤマメは飛び立つ。
パルスィもさとりももはや引き留めはせず、風穴に消える姿を見送った。
「なあ古明地の」
「なんでしょう」
「ヤマメは一体、何を考えていたんだい?」
幾度考えても不可解だと、さとりは肩をすくめる。
「それが「思いっきり、抱きしめてやる」って」
「……やっぱり、始末を付ける気か」
勇儀は、自分の思惑を越えた“天邪鬼”をしようとするヤマメをもはや追おうともせず、ただ盛大に嘆息した。
第4章 明けぬ夜を征く 一覧
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