身のうさを思ひしらでややみなまし
そむくならひのなき世なりせば
―22―
「なっ、なんだなんだぁ!?」
魔理沙さんが、箒からずり落ちそうになりながら叫んだ。咲夜さんも霊夢さんも、愕然と目を見開く。離れた場所からそれを見守る私たちもまた、呆然と見つめるしかなかった。
無数の、光の蝶に覆い尽くされた西行妖。一瞬の静寂の後に――無数の花びらとともに、その蝶が解き放たれ、飛び交った。四方へと。
「――――ッ、魔理沙、咲夜! こっち来なさい! これヤバイわよ!」
霊夢さんがそう叫び、ふたりも本能的に危険を察知したのだろう、霊夢さんの背後に回る。霊夢さんは眼前に、3人分を守るような大きな障壁を展開した。一瞬遅れて、そこに無数の蝶が襲いかかる。雪崩のように、津波のように。
そしてその蝶たちは、私たちの方へも殺到する――。
「貴方たちも下がりなさい。危険だわ」
目の前の、あまりに幻想的な光景に動けずにいた私たちに、不意にそんな声がかかる。いつの間にか、隣にアリスさんが姿を現していた。アリスさんもまた、眼前に私たちを庇うように魔法陣を展開する。魔法陣に無数の蝶が激突し、砕け散っていく。
「――見て、メリー」
蓮子が、呆けたようにそう声を上げた。殺到する光の蝶の向こう側に目を細めた私は、そこにある光景に息を飲む。
「西行妖が――散っていく」
七分咲きだった西行妖の花は、光の蝶とともに、花吹雪となって急速に散っていった。それは、妖怪桜の断末魔のように。光の渦が、西行妖を包み――弾ける。
そして、その下で。
西行寺幽々子さんは、泣いていた。
その口が何を呟いたのか、私たちには聞き取れなかったけれど――。
光の蝶と、桜の嵐は、果たしてどれだけの時間続いたのだろう。
永久にも思えるような、しかし一瞬のことだったような――。
――気付いたときには、冥界は完全な静寂を取り戻していた。
後に残されたのは。
枯れ果てた西行妖と。
その根元にもたれて目を閉じた幽々子さんと。
――その上に降り積もった無数の花びらだけ。
「終わった……のかしら?」
咲夜さんがそう言い、霊夢さんが大きく息を吐き出して障壁を消し去った。魔理沙さんが帽子の位置を直しながら、「勘弁してほしいぜ」とぼやく。
次の瞬間、強い風が吹いて、降り積もった花びらが高く舞いあがり、空の彼方へ消えていく。
「……どうやら、春が幻想郷に戻っていったみたいね」
腰に手を当てて、霊夢さんがそう言った。異変解決に動いた3人は、ただ目を細め、桜の花びらが消えていった冥界の空を見上げる。
「幽々子様!」
そして、桜の下で目を閉じた幽々子さんに、どこにいたのか、妖夢さんが駆け寄った。
私たちも縁側から飛び降り、枯れ果てた西行妖の方へ向かう。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
坂口安吾『桜の森の満開の下』のそんな、最後の情景を思い出す。けれど、幽々子さんの姿は消えることはなかった。駆け寄った妖夢さんの腕の中で、幽々子さんは目を開いて。
「……妖夢」
「幽々子様、申し訳ありません、私――」
「…………おなかすいたわ~」
「――はっ?」
ぐう、と幽々子さんのお腹が鳴り、がくっ、と妖夢さんがうなだれる。
私たちは顔を見合わせて、そして笑った。
――それが、春雪異変の終わりだった。
―23―
「――で、あんたたちは、なんでまたここにいるのよ?」
霊夢さんに半眼で睨まれて、私は思わず身を竦める。
名残惜しげに枯れ果てた西行妖を見上げていた幽々子さんが、妖夢さんとともに白玉楼に引っ込んだあと。私たちは霊夢さんたちの前に引っ立てられていた。
「紅魔館のときはともかく、ここは人間の来るような場所じゃないでしょ」
「いや、人間の霊夢さんにそれを言われましても」
「蓮子! 余計な茶々を入れない!」
私が相棒のコートを引っ張ると、霊夢さんは頭を掻いて、「怪しいわね」と口を尖らせる。
「まあまあ、2回までなら偶然ってもんだぜ」
と、魔理沙さんが取りなすように私たちと霊夢さんの間に割って入った。
「つうか、お前が連れてきたんだろ? 何が目的だか知らないけどな」
魔理沙さんがアリスさんを見やる。アリスさんは肩を竦めた。
「そういうことでいいわ、説明も面倒だから」
「それより、私はお嬢様が心配なので帰らせていただきますわ。では失礼」
それだけ言い残し、咲夜さんはさっさと飛び去っていく。それを見送ってから、霊夢さんはため息をついて、「まあいいわ、疲れたし」とぼやいた。
「私も早く帰って寝たいわ。あんたたちについては、また後で話を聞かせてもらうわよ。アリス、あんたが連れてきたなら、ちゃんと里まで連れて帰りなさいよ」
「……はいはい」
「んじゃ、私も帰るとすっか。なんだか妙に眠いぜ」
ふわあ、と欠伸を漏らしながら箒にまたがり、魔理沙さんは飛び去る。霊夢さんもふわりと浮き上がり、冥界の空に消えていった。それを見送った私は、相棒の横顔を振り返る。蓮子は帽子の庇を弄りながら、何か考え込むように口を閉ざしていた。
「さて。――貴方たちが帰るなら、送って行くけれど」
アリスさんが言う。私は振り返り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。妖怪の賢者とやらがどうしているのかはわからないが、アリスさんに送ってもらった方が安心である。
「ああ、すみませんアリスさん。その前にお嬢様方にご挨拶をさせていただければ」
と、蓮子が口を挟んだ。確かに、散々お世話になっておいて、何も言わずに帰るのは失礼な話だろう。「それもそうね」とアリスさんは頷き、白玉楼の方へと向かう。
幽々子さんと妖夢さんは炊事場にいた。「妖夢~、まだ~?」「まだですから大人しく待ってて下さい」と、先ほどまでの幻想的な戦いの余韻の欠片もない会話が聞こえてくる。
「お嬢様、お世話になりました。私たちはお暇させていただきますわ」
蓮子がそう声をかけると、幽々子さんは振り返り、「あら~」と小首を傾げた。
「もっとゆっくりしていってもいいのよ~」
「いえいえ。生者は早めに現世に戻りますわ。――そこで、ひとつお願いが」
「なにかしら?」
「例の記録を、少しお借りしてもよろしいですか?」
「あの記録? ええ、もう用は無いから構わないけれど。結局、封印は解けなかったからね~」
つまらなさそうに口を尖らせた幽々子さんは、自分が何をしようとしていたのか、結局知らないままだったのだろうか。私には何とも判断しようのないことだったが。
「人形遣いさんもお帰りかしら」
「ええ。お邪魔しました」
「――来るなとは言いませんが、あまり私の邪魔をしないでいただけると有難いです」
と、妖夢さんが口を尖らせてそうアリスさんに言った。「あら、ごめんなさい」とアリスさんは肩を竦める。
「あらあら妖夢、人形遣いさんに何かされたの?」
「いえ、ただ何か妙につきまとわれたもので……」
「ちょっと、貴方のその半霊に興味があってね」
「……持って帰ったりしないでくださいね」
自分の半霊を抱き寄せるようにして、妖夢さんはアリスさんを睨む。アリスさんはただ肩を竦めていた。
――そんなわけで、白玉楼を後にした私たちは、アリスさんに連れられて里へと戻った。
里に辿り着いたときには夜が明けていたので、1泊3日の冥界旅行だったことになる。
辿り着いた里は、明らかに気温が上がり暖かくなっていた。これなら、積もった雪はすぐにでも解けて消えていくだろう。ようやく春が、本当に幻想郷に取り戻されたらしい。
まあ、それはいいとして――。
「全く、人がどれだけ心配したと思ってるんだ」
案の定、慧音さんはカンカンであった。それはそうだろう。藍さんに連れられて行ってから二晩戻らなかったのだから、連絡の手段が無かったとはいえ、弁解の余地は無い。自警団の詰所に正座させられて、私たちはしばしのお説教を受けることになった。
「無事だったからいいようなものだが、君たちは普通の人間なんだ。里の外で夜明かしをするなんていうのは自殺行為だという自覚を持ってくれないと困る」
「……はい」
「こっちは遺体の捜索にかかるべきかとまで考えていたんだからな――全く」
ため息をついて、慧音さんは私たちの頭をぽんと撫でた。
「――まあ、何にしても、無事で良かった」
「はい――すみませんでした」
心から心配してくれいたことがその声音でよくわかって、私たちは深々と頭を下げる。ぽんぽんと私たちの頭を撫でた慧音さんは、しかし「だが、お仕置きはしないとな」と言って――。
頭突きは痛かった。死ぬほど。
―24―
それはさておき、である。
「古い記録?」
「ええ。慧音さんなら解読できるかと思いまして」
自宅に戻って一眠りしたあと、私たちは再び慧音さんの元へ向かった。借りだしてきた例の記録を解読してもらうためである。
寺子屋の資料室。蓮子の差し出した冊子を受け取って、慎重にページを捲った慧音さんは、軽く目を見開いて、「これは――どこで手に入れたんだ?」と私たちを振り返った。
「ちょっと、冥界のお屋敷にお邪魔しまして。そこから借りてきたんですが」
「冥界? 生身でそんなところまで行ったのか。君たちという人間は……あそこは死者の国だ、生者が行くところじゃない」
頭痛を堪えるように呻いた慧音さんは、「しかし、冥界に……?」と首を傾げた。
「慧音さん、これは何なんです?」
蓮子の問いに、慧音さんは頷いて答える。
「『撰集抄』だ。西行の筆といわれる説話集の、これは五巻目だな」
「西行の?」
「ああ。実際に西行の筆かどうかはかなり怪しいところだが。西行が諸国行脚の途中に見聞した話を軸に、当時の遁世者の無常観を伝える隠者文学だが……ん?」
と、ページを捲っていた慧音さんが、あの最後のページの文章に目を留める。
「これは……富士見の娘? こんな文章は、『撰集抄』にはないはずだが」
「やっぱり、そこは後世の加筆でしょうか」
「――ああ。字体も違うし、墨の具合も新しい。かなり最近になって書き加えられたものだろうが……富士見の娘、西行妖満開の時、幽冥境を分かつ……? 富士見の娘というのは西行の娘のことか? だが、西行妖とはなんだ?」
考え込んだ慧音さんに、私たちは白玉楼で見聞きしたことを話した。主に私が語り、蓮子が細かい補足を入れるという形で、白玉楼で幽々子さんたちと交わした会話と、西行妖についてのあれこれを慧音さんに伝える。ただし、蓮子が立てたとある仮説だけは省いて。
「……そんなことがあったのか。紅魔館のときといい、君たちはなぜ霊夢の異変解決に縁があるんだ?」
「さあ、それは何とも……ところで慧音さん、この白玉楼の住人についてどう思います?」
「さて。そのお嬢様が本当に西行の娘かというのは、何とも言えないな。そもそも西行の娘は、はっきりした記録はほとんど無い。『西行物語』の記述をどこまで事実と見なしていいかも怪しいところだ」
「西行に出家後の隠し子がいた可能性は?」
「それは、悪魔の証明になるな。……しかし、西行妖とやらが西行の死によって妖怪化した桜だとすれば、1000年前というのはおかしいな。西行の入寂は800年前のはずだ。まあ、800年も生きていれば200年ぐらいの誤差は気にしなくなるのかもしれないが」
腕を組んで慧音さんは唸り、立ち上がる。
「西行について、君たちはどの程度知っている?」
「元々は北面の武士で、何かのきっかけで出家、諸国を放浪して数々の歌を残し、後世に多大な影響を与えた歌人。桜の下で死にたいと願い、その通りに入寂した僧侶――というところですけれど」
蓮子の答えに、慧音さんは頷き、「西行については」とひとつ咳払いした。
「現在でも謎とされているのが、その出家の理由だ。武士であった西行が出家したのは23歳のときだが、なぜそのように若くして出家したのか。これには様々な説があるが、一般的なのは『西行物語』に採られている親友の急死説だ。親しい友の死に無常を感じて出家したとされるが、この死んだ友人が誰なのかはわからない。それから――失恋説もよく挙げられる」
「失恋ですか」と私は思わず声をあげる。
「ああ。実際、西行は武士だった頃から失恋の歌を多く残している。失恋の相手も諸説ある。ただ高貴な女房という説から、待賢門院、美福門院など、まあ色々だ。いずれにせよ俗説の域を出ないので、どれも決め手に欠けるが」
失恋で出家し、和歌に慰めを求めた結果、その道の大家となった僧侶。そう考えると、西行という人物になんとなく親しみを持てるような気もした。
「いずれにせよ――」
「あの、慧音さん。西行についての詳細な歴史的研究はまた別の機会に聞きますので、この資料の内容について聞きたいんですけども」
と、蓮子が慧音さんの言葉を遮る。慧音さんははしごを外されたような不満げな顔を見せたが、ひとつ咳払いして、「そうだったな」と資料に視線を落とした。
「全文を読み下すとなると時間がかかるが」
「あ、それなら『西行造人す』というところだけでも――」
私がそう手を挙げると、慧音さんは目をしばたたかせる。
「その話か。ああ、確かにこの巻に収められた話だな――」
ページをめくり、慧音さんは頷く。
「ご存じですか?」
「この時代の人造人間説話の中でも印象的な話だからな。どれ、読んでみせよう」
慧音さんの読んでくれた原文をここに記しても煩雑なので、以下は、私による要約である。
高野山の奧に住んでいた頃、友人と花鳥風月を楽しんでいたが、友人は私を置いて都に行ってしまった。寂しいので、鬼が人骨で人を作るように、人間を造ってみようと思った。信頼できる人から聞いた通り、野原で拾った骨を並べて造ったが、人の姿に似ていても、色も悪く、声は吹き損じた笛のようで、何よりも心が宿らなかった。こんな結果だったので、壊そうかと思ったが、それは殺人になるのだろうか。心がなければ、草木と同じだろうと思ったが、しかし人の形である。仕方ないので高野山の奧に捨ててきた。もし誰か見つけたら、化け物だと思うだろう。
どうして失敗したのかと思い、都で中納言師仲卿に会って造った手順を説明すると、「私は四条の大納言の流儀を伝授され人を造ってきた。今では大臣になっているものもいるが名は明かせない」と言い、「香を炊くと魔が遠ざかり聖衆が集まるが、聖衆は生死を忌むので心を生じさせるのは難しい。また反魂の秘術をする時には七日間絶食すること」というアドバイスを受けた。しかし考えてみるとつまらない気がして、その後は人を造ることはなかった。
「……という話だ。結局何を言いたいのか、今ひとつ判らない話だが」
ははあ、と私は息を吐く。なんとも不思議な話だ。これが事実かどうかは別として、当時の人たちはこの話をどう受け取ったのだろう。また、後世に残る西行のイメージからも何ともそぐわない感じがする。
しかし、である。人間を造ろうとしたが、心が宿らなかったので捨ててきた――この話はまるっきり、アリスさんの目指す、心を持った人形の作り方の話ではないか? ということは、アリスさんが白玉楼に留まっていたのは、この西行の行った人造人間を造る秘術を探るためだったのか。アリスさんがこの話を知っていて、西行妖の名前から白玉楼を西行と縁のある場所と考えていたならば、彼女が白玉楼で何かを調べていたのも筋が通るが――。
「しかし、みんなこの話に興味を示すのだな」
「え? みんなと言いますと」
私が首を傾げると、慧音さんは肩を竦める。
「以前にも、森の方に住んでいるという魔法使いに、西行の造人伝説について聞かれたんだ。君たちも見たことがないか? 最近、ときどき里で人形劇をしている――」
「アリス・マーガトロイドさん、ですか」
「ああ、そんな名前だったな」
やっぱりそうだ。アリスさんはこれについて調べるために白玉楼に留まっていた――。
なるほど、アリスさんの行動の謎はこれで解けた。しかし、だからといって蓮子が気にしている、白玉楼の秘密にこれが関わるのかどうかなど、私には判りっこないのだが――。
私が相棒の方を振り向くと、相棒は目を伏せ、何か考え込むような顔をしていた。と、顔を上げ、蓮子は慧音さんを見つめる。
「……慧音さん。ひとつ思いついたんですが」
「なんだ?」
「西行の出家の理由は、友人の死であるというのが定説でしたね。――この説話こそが、西行の出家の本当の理由だったとは考えられませんか」
蓮子の言葉に、慧音さんがきょとんと目を見開く。
「どういう意味だ」
「そのままです。つまり、この説話は高野山の奧にいた頃とされていますが、これが北面の武士だった頃のことだったとすれば。一緒に花鳥風月を楽しんでいた友人が、都に行ってしまった――これを、死んだと言い換えれば。親友が死んだのが寂しくて、人造人間を造ろうと思った。そういう話になりませんか」
「――――」
「反魂の秘術を学び、人造人間を造る――北面の武士の立場では、そのような陰陽道めいたことに手を染めるのは難しかったのではないですか」
「……つまり、西行は親友を蘇らせるために出家した、と?」
「この説話は何が言いたいのか判らないと慧音さんは仰いましたけど、この説話の意味とはつまり、謎とされていた西行の出家の理由を説明するものだったのではないですか」
蓮子の顔を、唖然とした表情で慧音さんは見つめ返し、それからゆるゆると首を振る。
「興味深い仮説だが、仮説の域を出ないな」
「ええ、ただの思いつきですから――」
そう、蓮子が言いかけたところで。
不意に愕然と、蓮子は目を見開いた。何か、大変なことに気付いたように。
「……慧音さん。この最後の書き込みは、かなり新しいもので間違いないですね?」
「ん? そうだな、それは自信をもって断言できる。書かれたのはせいぜい数十年前か。誰が何のために書いたのかは判らないが――」
「了解です。――全く話は変わるのですが、幻想郷の死生観について、簡単に伺いたいのですが。死者は、この世界では死後はどうなるのか、という問題について」
「なんだ、随分話が飛ぶな。まだ死について考えるような歳でもないだろうに――冥界で幽霊の影響でも受けたのか?」
首を傾げた慧音さんは、腕を組んでひとつ鼻を鳴らす。
「幻想郷では、死者の魂は三途の川を渡り、閻魔の裁きを受ける。閻魔によって天界に成仏するか、現世に転生するか、地獄に落ちるかが判定され、成仏する魂と転生する魂は冥界で順番を待つことになる。天界も狭くなってきているらしくてな。冥界でたくさんの幽霊を見ただろう? あの多くは成仏や転生を待っている魂だ」
「地獄にも落ちず、転生も成仏もしない魂、というのはあり得るのですか?」
「それは亡霊だな。きちんと供養されなかったりして、現世に強い執着を残した魂は、閻魔の裁きを受けずに留まる亡霊になる。放っておくと、そのまま妖怪にもなり得る。殊に本人があまりに強く何かを願ったり恨んだりしていた場合がそうだな。祟る亡霊は妖怪そのものだ」
「……つまり、強すぎる願いや恨みを叶えられずに死んだ人間は妖怪になり得る、と?」
「なり得る、というだけで、必ずそうなるわけではないがな」
「妖怪化した人間は、人間の姿のままなのですか?」
「それは、どういう妖怪になるかによりけりじゃないか。多くの畏れを集めれば、もはや人ならざる姿になることもあるだろう。そのあたりは阿求殿の方が詳しいと思うが」
「そうですか。ありがとうございます。――ちょっと、考えたいことがあるので、失礼します」
と、突然立ち上がり、蓮子は部屋を出て行く。呆然とそれを見送った私と慧音さんは、顔をただ見合わせるしかなかった。
「こんなところにいたの?」
「あらメリー。食べる?」
蓮子はなぜか団子屋の軒先にいた。お団子を差し出してくる相棒に、私はため息をつく。
すっかり外の気温は春めいて、積み上げられた雪がみるみる解けていっている。おかげで字面はぬかるんで、足元が気になって仕方ない。そんなことを気にしない子供たちは歓声をあげて泥を跳ね散らかしていく。
お団子を受け取って蓮子の隣に腰を下ろし、空を見上げると、白い妖精らしき女の子が飛んでいくのが見えた。妖精も春がようやくやって来て浮かれているのかもしれない。
「で、何かわかったの?」
「――そうね。たぶん、何が起きていたのかは、おおよそ」
お茶を啜って、ため息のように蓮子は息を吐き出す。つい先日まで白かった息は、もう染まることもなく、春の陽気の中に消えていく。私も店員さんを呼び止めて、自分のお茶とお団子を注文した。店員さんは誰か他のテーブルに運ぶらしいお団子を手にしたまま「はーい」と返事をする。
「ただ、私にわかるのは、あのとき白玉楼で何が起きていたのかと、お嬢様が何のために春雪異変を起こそうとしたのか――その本当の理由だけだわ。たぶんその裏側には、当事者に聞かないとわからない物語が隠されてる。それはもう、名探偵の領分じゃないわね」
どうぞ、と店員さんがお茶とお団子を持ってきた。早い。私がそれを受け取っていると、蓮子がその店員さんに目を細めているのに気付く。
「どうしたの?」
「ううん。――子供の頃、料理人さんって目の前にたくさん料理があるのに自分では食べられなくて可哀想、って思ってたのを、ふっと思い出しただけ」
「食いしん坊の発想ねえ」
「よく食べよく寝る子は育つのよ」
「そのわりに蓮子はあんまり育ってなさそうだけど。夜更かしのせいかしら」
「胸の話はしてない!」
慎ましい胸を抱くようにして蓮子は吠える。私は小さく笑った。
ため息をついた蓮子は、お団子を頬張って、それから帽子の庇を弄る。
「いくつか説明のつかない謎は残るけれど、それも当事者から聞かせて貰えるといいけどね」
「……聞きに行くつもりなの?」
「まあ、ケリはつけないといけないわ。どうも私たちは失敗したようだし」
「失敗? 何に?」
「今度、全部説明するわ。――たぶんそのうち、白玉楼からお花見のお誘いが来るでしょうから。後始末にもならないだろうけど、こっちにも意地があるからね」
まるで意味がわからないが、いつものことである。もったいぶるのが名探偵の仕事である以上、ワトソン役の私はただ首を捻ることしかできないわけで。
ただ、相棒がこう言うということは――おそらくあのとき、白玉楼で聞かされた仮説とは違って、辿り着いた真相は、私たちの胸だけに秘めておくべきものではないのだろう。
私に推測できるのは、ただそれぐらいのことだった。
――私たちが、博麗神社でのお花見のお誘いを受けたのは、その数日後のことだった。
【読者への挑戦状】
紅魔館の話でこれを挿入したのに、今回は入れないというのもおかしな話だ。
よって今回も、これを読まれている貴方に挑戦したい。この物語の謎について。
とはいえ、紅魔館のときと同様、春雪異変の背後にあった物語もまた、論理的な推理というよりも、想像の飛躍によってこそ辿り着けるものであろう。
また、先んじて蓮子が列挙した謎の全てに相棒が説明をつけられたわけでもない。具体的に言えば、200年分の時系列の齟齬については、この挑戦状においては考える必要はない。
なので、貴方に考えていただきたいのは、そのとっかかりとなる以下の2点である。
1、蓮子が途中で立てて、白玉楼で私に聞かせた、覆された仮説とはどんなものか?
2、西行寺幽々子さんと魂魄妖夢さんは、何のために春雪異変を起こしたのか?
紅魔館のときと同様、厳密な論理的正解はない。我が相棒たる名探偵、宇佐見蓮子が、ここまでに記した情報からどんな想像を組み立てたのか。是非、今回も蓮子の想像力に挑戦していただきたい。
本当のところ、この物語を探偵小説のように書き残していいのかどうか、私にはわからない。
けれどそれでも、確定された歴史の裏側に埋もれたもうひとつの物語を――忘れてしまわないように、私は相棒の、名探偵の物語として、ここに記しておこうと思うのだ。
あの桜の下に消え去った物語に、貴方は辿り着けるだろうか?
そむくならひのなき世なりせば
―22―
「なっ、なんだなんだぁ!?」
魔理沙さんが、箒からずり落ちそうになりながら叫んだ。咲夜さんも霊夢さんも、愕然と目を見開く。離れた場所からそれを見守る私たちもまた、呆然と見つめるしかなかった。
無数の、光の蝶に覆い尽くされた西行妖。一瞬の静寂の後に――無数の花びらとともに、その蝶が解き放たれ、飛び交った。四方へと。
「――――ッ、魔理沙、咲夜! こっち来なさい! これヤバイわよ!」
霊夢さんがそう叫び、ふたりも本能的に危険を察知したのだろう、霊夢さんの背後に回る。霊夢さんは眼前に、3人分を守るような大きな障壁を展開した。一瞬遅れて、そこに無数の蝶が襲いかかる。雪崩のように、津波のように。
そしてその蝶たちは、私たちの方へも殺到する――。
「貴方たちも下がりなさい。危険だわ」
目の前の、あまりに幻想的な光景に動けずにいた私たちに、不意にそんな声がかかる。いつの間にか、隣にアリスさんが姿を現していた。アリスさんもまた、眼前に私たちを庇うように魔法陣を展開する。魔法陣に無数の蝶が激突し、砕け散っていく。
「――見て、メリー」
蓮子が、呆けたようにそう声を上げた。殺到する光の蝶の向こう側に目を細めた私は、そこにある光景に息を飲む。
「西行妖が――散っていく」
七分咲きだった西行妖の花は、光の蝶とともに、花吹雪となって急速に散っていった。それは、妖怪桜の断末魔のように。光の渦が、西行妖を包み――弾ける。
そして、その下で。
西行寺幽々子さんは、泣いていた。
その口が何を呟いたのか、私たちには聞き取れなかったけれど――。
光の蝶と、桜の嵐は、果たしてどれだけの時間続いたのだろう。
永久にも思えるような、しかし一瞬のことだったような――。
――気付いたときには、冥界は完全な静寂を取り戻していた。
後に残されたのは。
枯れ果てた西行妖と。
その根元にもたれて目を閉じた幽々子さんと。
――その上に降り積もった無数の花びらだけ。
「終わった……のかしら?」
咲夜さんがそう言い、霊夢さんが大きく息を吐き出して障壁を消し去った。魔理沙さんが帽子の位置を直しながら、「勘弁してほしいぜ」とぼやく。
次の瞬間、強い風が吹いて、降り積もった花びらが高く舞いあがり、空の彼方へ消えていく。
「……どうやら、春が幻想郷に戻っていったみたいね」
腰に手を当てて、霊夢さんがそう言った。異変解決に動いた3人は、ただ目を細め、桜の花びらが消えていった冥界の空を見上げる。
「幽々子様!」
そして、桜の下で目を閉じた幽々子さんに、どこにいたのか、妖夢さんが駆け寄った。
私たちも縁側から飛び降り、枯れ果てた西行妖の方へ向かう。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
坂口安吾『桜の森の満開の下』のそんな、最後の情景を思い出す。けれど、幽々子さんの姿は消えることはなかった。駆け寄った妖夢さんの腕の中で、幽々子さんは目を開いて。
「……妖夢」
「幽々子様、申し訳ありません、私――」
「…………おなかすいたわ~」
「――はっ?」
ぐう、と幽々子さんのお腹が鳴り、がくっ、と妖夢さんがうなだれる。
私たちは顔を見合わせて、そして笑った。
――それが、春雪異変の終わりだった。
―23―
「――で、あんたたちは、なんでまたここにいるのよ?」
霊夢さんに半眼で睨まれて、私は思わず身を竦める。
名残惜しげに枯れ果てた西行妖を見上げていた幽々子さんが、妖夢さんとともに白玉楼に引っ込んだあと。私たちは霊夢さんたちの前に引っ立てられていた。
「紅魔館のときはともかく、ここは人間の来るような場所じゃないでしょ」
「いや、人間の霊夢さんにそれを言われましても」
「蓮子! 余計な茶々を入れない!」
私が相棒のコートを引っ張ると、霊夢さんは頭を掻いて、「怪しいわね」と口を尖らせる。
「まあまあ、2回までなら偶然ってもんだぜ」
と、魔理沙さんが取りなすように私たちと霊夢さんの間に割って入った。
「つうか、お前が連れてきたんだろ? 何が目的だか知らないけどな」
魔理沙さんがアリスさんを見やる。アリスさんは肩を竦めた。
「そういうことでいいわ、説明も面倒だから」
「それより、私はお嬢様が心配なので帰らせていただきますわ。では失礼」
それだけ言い残し、咲夜さんはさっさと飛び去っていく。それを見送ってから、霊夢さんはため息をついて、「まあいいわ、疲れたし」とぼやいた。
「私も早く帰って寝たいわ。あんたたちについては、また後で話を聞かせてもらうわよ。アリス、あんたが連れてきたなら、ちゃんと里まで連れて帰りなさいよ」
「……はいはい」
「んじゃ、私も帰るとすっか。なんだか妙に眠いぜ」
ふわあ、と欠伸を漏らしながら箒にまたがり、魔理沙さんは飛び去る。霊夢さんもふわりと浮き上がり、冥界の空に消えていった。それを見送った私は、相棒の横顔を振り返る。蓮子は帽子の庇を弄りながら、何か考え込むように口を閉ざしていた。
「さて。――貴方たちが帰るなら、送って行くけれど」
アリスさんが言う。私は振り返り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。妖怪の賢者とやらがどうしているのかはわからないが、アリスさんに送ってもらった方が安心である。
「ああ、すみませんアリスさん。その前にお嬢様方にご挨拶をさせていただければ」
と、蓮子が口を挟んだ。確かに、散々お世話になっておいて、何も言わずに帰るのは失礼な話だろう。「それもそうね」とアリスさんは頷き、白玉楼の方へと向かう。
幽々子さんと妖夢さんは炊事場にいた。「妖夢~、まだ~?」「まだですから大人しく待ってて下さい」と、先ほどまでの幻想的な戦いの余韻の欠片もない会話が聞こえてくる。
「お嬢様、お世話になりました。私たちはお暇させていただきますわ」
蓮子がそう声をかけると、幽々子さんは振り返り、「あら~」と小首を傾げた。
「もっとゆっくりしていってもいいのよ~」
「いえいえ。生者は早めに現世に戻りますわ。――そこで、ひとつお願いが」
「なにかしら?」
「例の記録を、少しお借りしてもよろしいですか?」
「あの記録? ええ、もう用は無いから構わないけれど。結局、封印は解けなかったからね~」
つまらなさそうに口を尖らせた幽々子さんは、自分が何をしようとしていたのか、結局知らないままだったのだろうか。私には何とも判断しようのないことだったが。
「人形遣いさんもお帰りかしら」
「ええ。お邪魔しました」
「――来るなとは言いませんが、あまり私の邪魔をしないでいただけると有難いです」
と、妖夢さんが口を尖らせてそうアリスさんに言った。「あら、ごめんなさい」とアリスさんは肩を竦める。
「あらあら妖夢、人形遣いさんに何かされたの?」
「いえ、ただ何か妙につきまとわれたもので……」
「ちょっと、貴方のその半霊に興味があってね」
「……持って帰ったりしないでくださいね」
自分の半霊を抱き寄せるようにして、妖夢さんはアリスさんを睨む。アリスさんはただ肩を竦めていた。
――そんなわけで、白玉楼を後にした私たちは、アリスさんに連れられて里へと戻った。
里に辿り着いたときには夜が明けていたので、1泊3日の冥界旅行だったことになる。
辿り着いた里は、明らかに気温が上がり暖かくなっていた。これなら、積もった雪はすぐにでも解けて消えていくだろう。ようやく春が、本当に幻想郷に取り戻されたらしい。
まあ、それはいいとして――。
「全く、人がどれだけ心配したと思ってるんだ」
案の定、慧音さんはカンカンであった。それはそうだろう。藍さんに連れられて行ってから二晩戻らなかったのだから、連絡の手段が無かったとはいえ、弁解の余地は無い。自警団の詰所に正座させられて、私たちはしばしのお説教を受けることになった。
「無事だったからいいようなものだが、君たちは普通の人間なんだ。里の外で夜明かしをするなんていうのは自殺行為だという自覚を持ってくれないと困る」
「……はい」
「こっちは遺体の捜索にかかるべきかとまで考えていたんだからな――全く」
ため息をついて、慧音さんは私たちの頭をぽんと撫でた。
「――まあ、何にしても、無事で良かった」
「はい――すみませんでした」
心から心配してくれいたことがその声音でよくわかって、私たちは深々と頭を下げる。ぽんぽんと私たちの頭を撫でた慧音さんは、しかし「だが、お仕置きはしないとな」と言って――。
頭突きは痛かった。死ぬほど。
―24―
それはさておき、である。
「古い記録?」
「ええ。慧音さんなら解読できるかと思いまして」
自宅に戻って一眠りしたあと、私たちは再び慧音さんの元へ向かった。借りだしてきた例の記録を解読してもらうためである。
寺子屋の資料室。蓮子の差し出した冊子を受け取って、慎重にページを捲った慧音さんは、軽く目を見開いて、「これは――どこで手に入れたんだ?」と私たちを振り返った。
「ちょっと、冥界のお屋敷にお邪魔しまして。そこから借りてきたんですが」
「冥界? 生身でそんなところまで行ったのか。君たちという人間は……あそこは死者の国だ、生者が行くところじゃない」
頭痛を堪えるように呻いた慧音さんは、「しかし、冥界に……?」と首を傾げた。
「慧音さん、これは何なんです?」
蓮子の問いに、慧音さんは頷いて答える。
「『撰集抄』だ。西行の筆といわれる説話集の、これは五巻目だな」
「西行の?」
「ああ。実際に西行の筆かどうかはかなり怪しいところだが。西行が諸国行脚の途中に見聞した話を軸に、当時の遁世者の無常観を伝える隠者文学だが……ん?」
と、ページを捲っていた慧音さんが、あの最後のページの文章に目を留める。
「これは……富士見の娘? こんな文章は、『撰集抄』にはないはずだが」
「やっぱり、そこは後世の加筆でしょうか」
「――ああ。字体も違うし、墨の具合も新しい。かなり最近になって書き加えられたものだろうが……富士見の娘、西行妖満開の時、幽冥境を分かつ……? 富士見の娘というのは西行の娘のことか? だが、西行妖とはなんだ?」
考え込んだ慧音さんに、私たちは白玉楼で見聞きしたことを話した。主に私が語り、蓮子が細かい補足を入れるという形で、白玉楼で幽々子さんたちと交わした会話と、西行妖についてのあれこれを慧音さんに伝える。ただし、蓮子が立てたとある仮説だけは省いて。
「……そんなことがあったのか。紅魔館のときといい、君たちはなぜ霊夢の異変解決に縁があるんだ?」
「さあ、それは何とも……ところで慧音さん、この白玉楼の住人についてどう思います?」
「さて。そのお嬢様が本当に西行の娘かというのは、何とも言えないな。そもそも西行の娘は、はっきりした記録はほとんど無い。『西行物語』の記述をどこまで事実と見なしていいかも怪しいところだ」
「西行に出家後の隠し子がいた可能性は?」
「それは、悪魔の証明になるな。……しかし、西行妖とやらが西行の死によって妖怪化した桜だとすれば、1000年前というのはおかしいな。西行の入寂は800年前のはずだ。まあ、800年も生きていれば200年ぐらいの誤差は気にしなくなるのかもしれないが」
腕を組んで慧音さんは唸り、立ち上がる。
「西行について、君たちはどの程度知っている?」
「元々は北面の武士で、何かのきっかけで出家、諸国を放浪して数々の歌を残し、後世に多大な影響を与えた歌人。桜の下で死にたいと願い、その通りに入寂した僧侶――というところですけれど」
蓮子の答えに、慧音さんは頷き、「西行については」とひとつ咳払いした。
「現在でも謎とされているのが、その出家の理由だ。武士であった西行が出家したのは23歳のときだが、なぜそのように若くして出家したのか。これには様々な説があるが、一般的なのは『西行物語』に採られている親友の急死説だ。親しい友の死に無常を感じて出家したとされるが、この死んだ友人が誰なのかはわからない。それから――失恋説もよく挙げられる」
「失恋ですか」と私は思わず声をあげる。
「ああ。実際、西行は武士だった頃から失恋の歌を多く残している。失恋の相手も諸説ある。ただ高貴な女房という説から、待賢門院、美福門院など、まあ色々だ。いずれにせよ俗説の域を出ないので、どれも決め手に欠けるが」
失恋で出家し、和歌に慰めを求めた結果、その道の大家となった僧侶。そう考えると、西行という人物になんとなく親しみを持てるような気もした。
「いずれにせよ――」
「あの、慧音さん。西行についての詳細な歴史的研究はまた別の機会に聞きますので、この資料の内容について聞きたいんですけども」
と、蓮子が慧音さんの言葉を遮る。慧音さんははしごを外されたような不満げな顔を見せたが、ひとつ咳払いして、「そうだったな」と資料に視線を落とした。
「全文を読み下すとなると時間がかかるが」
「あ、それなら『西行造人す』というところだけでも――」
私がそう手を挙げると、慧音さんは目をしばたたかせる。
「その話か。ああ、確かにこの巻に収められた話だな――」
ページをめくり、慧音さんは頷く。
「ご存じですか?」
「この時代の人造人間説話の中でも印象的な話だからな。どれ、読んでみせよう」
慧音さんの読んでくれた原文をここに記しても煩雑なので、以下は、私による要約である。
高野山の奧に住んでいた頃、友人と花鳥風月を楽しんでいたが、友人は私を置いて都に行ってしまった。寂しいので、鬼が人骨で人を作るように、人間を造ってみようと思った。信頼できる人から聞いた通り、野原で拾った骨を並べて造ったが、人の姿に似ていても、色も悪く、声は吹き損じた笛のようで、何よりも心が宿らなかった。こんな結果だったので、壊そうかと思ったが、それは殺人になるのだろうか。心がなければ、草木と同じだろうと思ったが、しかし人の形である。仕方ないので高野山の奧に捨ててきた。もし誰か見つけたら、化け物だと思うだろう。
どうして失敗したのかと思い、都で中納言師仲卿に会って造った手順を説明すると、「私は四条の大納言の流儀を伝授され人を造ってきた。今では大臣になっているものもいるが名は明かせない」と言い、「香を炊くと魔が遠ざかり聖衆が集まるが、聖衆は生死を忌むので心を生じさせるのは難しい。また反魂の秘術をする時には七日間絶食すること」というアドバイスを受けた。しかし考えてみるとつまらない気がして、その後は人を造ることはなかった。
「……という話だ。結局何を言いたいのか、今ひとつ判らない話だが」
ははあ、と私は息を吐く。なんとも不思議な話だ。これが事実かどうかは別として、当時の人たちはこの話をどう受け取ったのだろう。また、後世に残る西行のイメージからも何ともそぐわない感じがする。
しかし、である。人間を造ろうとしたが、心が宿らなかったので捨ててきた――この話はまるっきり、アリスさんの目指す、心を持った人形の作り方の話ではないか? ということは、アリスさんが白玉楼に留まっていたのは、この西行の行った人造人間を造る秘術を探るためだったのか。アリスさんがこの話を知っていて、西行妖の名前から白玉楼を西行と縁のある場所と考えていたならば、彼女が白玉楼で何かを調べていたのも筋が通るが――。
「しかし、みんなこの話に興味を示すのだな」
「え? みんなと言いますと」
私が首を傾げると、慧音さんは肩を竦める。
「以前にも、森の方に住んでいるという魔法使いに、西行の造人伝説について聞かれたんだ。君たちも見たことがないか? 最近、ときどき里で人形劇をしている――」
「アリス・マーガトロイドさん、ですか」
「ああ、そんな名前だったな」
やっぱりそうだ。アリスさんはこれについて調べるために白玉楼に留まっていた――。
なるほど、アリスさんの行動の謎はこれで解けた。しかし、だからといって蓮子が気にしている、白玉楼の秘密にこれが関わるのかどうかなど、私には判りっこないのだが――。
私が相棒の方を振り向くと、相棒は目を伏せ、何か考え込むような顔をしていた。と、顔を上げ、蓮子は慧音さんを見つめる。
「……慧音さん。ひとつ思いついたんですが」
「なんだ?」
「西行の出家の理由は、友人の死であるというのが定説でしたね。――この説話こそが、西行の出家の本当の理由だったとは考えられませんか」
蓮子の言葉に、慧音さんがきょとんと目を見開く。
「どういう意味だ」
「そのままです。つまり、この説話は高野山の奧にいた頃とされていますが、これが北面の武士だった頃のことだったとすれば。一緒に花鳥風月を楽しんでいた友人が、都に行ってしまった――これを、死んだと言い換えれば。親友が死んだのが寂しくて、人造人間を造ろうと思った。そういう話になりませんか」
「――――」
「反魂の秘術を学び、人造人間を造る――北面の武士の立場では、そのような陰陽道めいたことに手を染めるのは難しかったのではないですか」
「……つまり、西行は親友を蘇らせるために出家した、と?」
「この説話は何が言いたいのか判らないと慧音さんは仰いましたけど、この説話の意味とはつまり、謎とされていた西行の出家の理由を説明するものだったのではないですか」
蓮子の顔を、唖然とした表情で慧音さんは見つめ返し、それからゆるゆると首を振る。
「興味深い仮説だが、仮説の域を出ないな」
「ええ、ただの思いつきですから――」
そう、蓮子が言いかけたところで。
不意に愕然と、蓮子は目を見開いた。何か、大変なことに気付いたように。
「……慧音さん。この最後の書き込みは、かなり新しいもので間違いないですね?」
「ん? そうだな、それは自信をもって断言できる。書かれたのはせいぜい数十年前か。誰が何のために書いたのかは判らないが――」
「了解です。――全く話は変わるのですが、幻想郷の死生観について、簡単に伺いたいのですが。死者は、この世界では死後はどうなるのか、という問題について」
「なんだ、随分話が飛ぶな。まだ死について考えるような歳でもないだろうに――冥界で幽霊の影響でも受けたのか?」
首を傾げた慧音さんは、腕を組んでひとつ鼻を鳴らす。
「幻想郷では、死者の魂は三途の川を渡り、閻魔の裁きを受ける。閻魔によって天界に成仏するか、現世に転生するか、地獄に落ちるかが判定され、成仏する魂と転生する魂は冥界で順番を待つことになる。天界も狭くなってきているらしくてな。冥界でたくさんの幽霊を見ただろう? あの多くは成仏や転生を待っている魂だ」
「地獄にも落ちず、転生も成仏もしない魂、というのはあり得るのですか?」
「それは亡霊だな。きちんと供養されなかったりして、現世に強い執着を残した魂は、閻魔の裁きを受けずに留まる亡霊になる。放っておくと、そのまま妖怪にもなり得る。殊に本人があまりに強く何かを願ったり恨んだりしていた場合がそうだな。祟る亡霊は妖怪そのものだ」
「……つまり、強すぎる願いや恨みを叶えられずに死んだ人間は妖怪になり得る、と?」
「なり得る、というだけで、必ずそうなるわけではないがな」
「妖怪化した人間は、人間の姿のままなのですか?」
「それは、どういう妖怪になるかによりけりじゃないか。多くの畏れを集めれば、もはや人ならざる姿になることもあるだろう。そのあたりは阿求殿の方が詳しいと思うが」
「そうですか。ありがとうございます。――ちょっと、考えたいことがあるので、失礼します」
と、突然立ち上がり、蓮子は部屋を出て行く。呆然とそれを見送った私と慧音さんは、顔をただ見合わせるしかなかった。
「こんなところにいたの?」
「あらメリー。食べる?」
蓮子はなぜか団子屋の軒先にいた。お団子を差し出してくる相棒に、私はため息をつく。
すっかり外の気温は春めいて、積み上げられた雪がみるみる解けていっている。おかげで字面はぬかるんで、足元が気になって仕方ない。そんなことを気にしない子供たちは歓声をあげて泥を跳ね散らかしていく。
お団子を受け取って蓮子の隣に腰を下ろし、空を見上げると、白い妖精らしき女の子が飛んでいくのが見えた。妖精も春がようやくやって来て浮かれているのかもしれない。
「で、何かわかったの?」
「――そうね。たぶん、何が起きていたのかは、おおよそ」
お茶を啜って、ため息のように蓮子は息を吐き出す。つい先日まで白かった息は、もう染まることもなく、春の陽気の中に消えていく。私も店員さんを呼び止めて、自分のお茶とお団子を注文した。店員さんは誰か他のテーブルに運ぶらしいお団子を手にしたまま「はーい」と返事をする。
「ただ、私にわかるのは、あのとき白玉楼で何が起きていたのかと、お嬢様が何のために春雪異変を起こそうとしたのか――その本当の理由だけだわ。たぶんその裏側には、当事者に聞かないとわからない物語が隠されてる。それはもう、名探偵の領分じゃないわね」
どうぞ、と店員さんがお茶とお団子を持ってきた。早い。私がそれを受け取っていると、蓮子がその店員さんに目を細めているのに気付く。
「どうしたの?」
「ううん。――子供の頃、料理人さんって目の前にたくさん料理があるのに自分では食べられなくて可哀想、って思ってたのを、ふっと思い出しただけ」
「食いしん坊の発想ねえ」
「よく食べよく寝る子は育つのよ」
「そのわりに蓮子はあんまり育ってなさそうだけど。夜更かしのせいかしら」
「胸の話はしてない!」
慎ましい胸を抱くようにして蓮子は吠える。私は小さく笑った。
ため息をついた蓮子は、お団子を頬張って、それから帽子の庇を弄る。
「いくつか説明のつかない謎は残るけれど、それも当事者から聞かせて貰えるといいけどね」
「……聞きに行くつもりなの?」
「まあ、ケリはつけないといけないわ。どうも私たちは失敗したようだし」
「失敗? 何に?」
「今度、全部説明するわ。――たぶんそのうち、白玉楼からお花見のお誘いが来るでしょうから。後始末にもならないだろうけど、こっちにも意地があるからね」
まるで意味がわからないが、いつものことである。もったいぶるのが名探偵の仕事である以上、ワトソン役の私はただ首を捻ることしかできないわけで。
ただ、相棒がこう言うということは――おそらくあのとき、白玉楼で聞かされた仮説とは違って、辿り着いた真相は、私たちの胸だけに秘めておくべきものではないのだろう。
私に推測できるのは、ただそれぐらいのことだった。
――私たちが、博麗神社でのお花見のお誘いを受けたのは、その数日後のことだった。
【読者への挑戦状】
紅魔館の話でこれを挿入したのに、今回は入れないというのもおかしな話だ。
よって今回も、これを読まれている貴方に挑戦したい。この物語の謎について。
とはいえ、紅魔館のときと同様、春雪異変の背後にあった物語もまた、論理的な推理というよりも、想像の飛躍によってこそ辿り着けるものであろう。
また、先んじて蓮子が列挙した謎の全てに相棒が説明をつけられたわけでもない。具体的に言えば、200年分の時系列の齟齬については、この挑戦状においては考える必要はない。
なので、貴方に考えていただきたいのは、そのとっかかりとなる以下の2点である。
1、蓮子が途中で立てて、白玉楼で私に聞かせた、覆された仮説とはどんなものか?
2、西行寺幽々子さんと魂魄妖夢さんは、何のために春雪異変を起こしたのか?
紅魔館のときと同様、厳密な論理的正解はない。我が相棒たる名探偵、宇佐見蓮子が、ここまでに記した情報からどんな想像を組み立てたのか。是非、今回も蓮子の想像力に挑戦していただきたい。
本当のところ、この物語を探偵小説のように書き残していいのかどうか、私にはわからない。
けれどそれでも、確定された歴史の裏側に埋もれたもうひとつの物語を――忘れてしまわないように、私は相棒の、名探偵の物語として、ここに記しておこうと思うのだ。
あの桜の下に消え去った物語に、貴方は辿り着けるだろうか?
第2章 妖々夢編 一覧
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ゆゆさまの涙の訳とは一体… …。
次回も楽しみにしております。
作成御苦労様です~推理オリジナル小説の醍醐味の1つ読者への挑戦状ですか。んむ、西行寺幽々子は本当に何者なんでしょうか?原作の情報しか知らないので難しい回答だと考えております
やりますねぇ!東方全然わからないけど面白かった(小並感)