願わくは花の下にて春死なむ
その如月の望月のころ
―16―
障子越しに射し込んでくる朝の光で、私は目を覚ました。
一瞬、自分たちが里の自宅にいるような気がして、いつの間にか春が来たのかと錯覚する。だけど起き上がって見渡した部屋は、私たちの自宅より遥かに広い、白玉楼の一室だった。
隣の布団では、蓮子が気持ちよさそうに眠っている。顔でも洗おう、と私は布団を抜け出し、廊下に出た。――のだが。
「……洗面所ってどこ?」
そういえば、このやたらと広い白玉楼の構造を、私はさっぱり理解していない。妖夢さんか誰かいないかしらと見回してみるが、やはり広い建物の中で偶然行き会える可能性は低い。さて、どうしたものか。
普段の私なら、ここはじっと蓮子が起きるのを待つところだ。だが、ここ暫く感じていなかった春の陽気が、私の気を大きくしていたらしい。
「よし、ちょっと探検してみましょう」
そう決めて、私は適当に歩き出した。いくら広いとはいえ、まさか屋敷の中で遭難することもあるまいと、そう考えていたのであるが――。
「迷った……」
案の定である。同じような廊下と襖が続くうちに、私はすっかり自分の現在位置を見失っていた。途中で幽霊とすれ違ったのだが、呼び止めても向こうが喋れないので会話が成立しない。ディスコミュニケーションに困っているうちに幽霊はどこかに行ってしまう。どうしてくれよう、この状況。
「……そうだわ、途中で曲がるからいけないのよ」
はっと私は顔を上げる。いくら広いとはいえ、ひたすらまっすぐ進めばいつかは縁側に出て庭に出られるはずだ。よし、まずは庭を目指そう。
顔を洗うという当初の目的をすっかり忘れ、私は再び、今度はまっすぐ歩き出す。板張りの冷たい廊下を、さらに歩き続けることしばし。ようやく、どこかから声が聞こえてきた。
「――せいっ」
掛け声のようである。この声は、妖夢さんか。その声を頼りに廊下を進むと、思った通り縁側に出られた。そして――そこで、妖夢さんが刀を振るっている。どうやら、朝稽古の最中であるらしい。稽古と言っても妖夢さんの個人練習のようだが。
朝の空気を切り裂くように、妖夢さんの持つ大きな刀が中空に白い軌跡を描く。単なる素振りではなく、イメージトレーニングか何からしい。仮想の相手と切り結んでいるようだ。妖夢さんの背後では、半霊がふわふわと見守るように浮いている。
「――はァッ!」
裂帛の気合い、というのはこういうことだろうか。最後に大上段に振りかぶっての一閃を放って、妖夢さんは刀を鞘に仕舞う。ほう、と息を吐いたところで、私はぱちぱちと拍手した。私の存在には気付いていなかったようで、驚いたように妖夢さんは振り返る。
「あっ、お、おはようございます」
「おはようございます。熱心ですね」
「毎日していることですので、別に……祖父の教えを理解するには、まだまだ先は長いのです」
「お祖父様――妖忌さんでしたっけ」
「はい。雨を斬れるようになるには30年、空気を斬れるようになるには50年、時を斬れるようになるには200年は掛かる。そして、真実は斬って知るものだと」
それはもはや剣術というより禅問答の類いではないだろうか。
「祖父から直接に教わることはもうできませんので、自力で辿り着かなくては」
「……妖忌さんは、いったいどちらへ?」
「わかりません。ですが、いなくなったのは理由あってのことでしょうから。私は祖父から受け継いだお役目、この白玉楼の庭師と幽々子様をお守りするということを、成し遂げるだけなのです。……やっぱり先は長いですけど」
汗を拭って、妖夢さんはすっきりとした顔で言う。やるべきこと、自分の進むべき道が明確であるということは、幸せなことなのだろう。京都で将来像などろくに考えないモラトリアム学生をしていた身としては、いささか眩しい。
「妖忌さんというのは、立派な方だったんですね」
「私のお師匠様で、憧れで、理想で、果てしなく遠い目標です」
誇らしげに妖夢さんは答える。そうやって胸を張れるということも、やっぱり眩しいことだなあと私は思う。しかし――。
ふと、私の脳裏にある疑問がよぎる。
妖夢さんは、あるいはその祖父の妖忌さんは、いったい何を守っているのだろう?
幽々子さんを守ると妖夢さんは言う。けれど、幽々子さんは既に死んだ亡霊だ。死んでいるのだから、何が来ようと命の危険はない。もちろん、幽々子さんに敵対する相手が現れれば守ろうとするのは道理だろうけれど、そんな宿敵でもいるのだろうか。生身の来客は久しぶりだと幽々子さんは言っていたが――。あるいは、紅魔館の紅美鈴さんのように、単に白玉楼の門番という程度の意味なのか。
いやまあ、主が強かったり死なない身だったりすれば守る必要がないというのは極論ではあるだろう。しかし、守るという強い意志を維持するには、やはり敵が必要ではないだろうか。そう思うのは、平和に慣れた人間の感覚なのかもしれないが。
――そういえば、博麗霊夢さんたちは、まだここまで辿り着いていないのだろうか?
「どうかしました?」
「あ、いえ」
妖夢さんに問われ、私は首を横に振る。霊夢さんたちが異変の首謀者を探していることは、まだ幽々子さんや妖夢さんには伝えていない。伝えるべきかは蓮子と昨晩話し合ったのだが、蓮子が『いずれ誰かが止めにくることはお嬢様たちも織り込み済みでしょ』と言って、状況を見守るべきだと言ったのである。蓮子としてはできれば霊夢さんたちに勝ってもらって、幻想郷に春を取り戻して欲しいのだろう。スパイの真似事をする理由も確かにない。
と、そこで私は本来の目的をようやく思い出す。もはや起きてから30分ぐらいは経っているはずなので、今更眠気覚ましも何もないが、顔を洗いたいのは変わらない。
「あの、妖夢さん。洗面所ってどちらです?」
「ああ、ご案内しますよ」
助かった。ついでに部屋まで連れ戻してもらえるとなお助かる。
「すみません、広くて迷ってしまって」
「大丈夫です。うちの幽霊もときどき迷いますから」
「……それ不便じゃないです?」
「庭はもっと広いですよ」
答えになってない気がする。ともかく、妖夢さんの案内で無事洗面所に辿り着き、ついでに白玉楼の構造について簡単なレクチャーを受ける。白玉楼の本殿は中庭にあたる白砂の庭園を中心にコの字型をしており、さらにコの字の縦棒の部分から客間などがある別棟に繋がっているらしい。私は別棟と本殿の間のあたりを彷徨っていたようだ。
「そろそろ朝食も出来るはずですので、客間でお待ち下さい」
妖夢さんはそう言って立ち去ろうとする。私は感謝を述べて、それから「あ――」と呼び止めた。妖夢さんが振り向く。
「まだ何か?」
「……あ、いえ、ううん、なんでもないの」
私は首を横に振る。ふっと浮かんだ疑問を尋ねてみたかったのだけれど、よく考えたら初対面に近いのにあまりに不躾にすぎる質問だった。妖夢さんは首を傾げながら立ち去っていく。その小さな背中を見送って、私は浮かんだ疑問をため息にして吐き出した。
――祖父が行方不明。それはいい。
では、妖夢さんの両親はどこにいるのだろう?
―17―
起き出してきた蓮子ととともに、私たちは大広間に呼び出された。
幽々子さんとアリスさん、4人で囲んだ朝食は、豪勢すぎず質素すぎず、白米から漬け物に至るまでしみじみと美味しい、理想的な朝食だった。どうやら幽々子さんは相当な食い道楽らしく、美味しそうに味わいながら、さりげない工夫を的確に見抜いて料理担当らしい幽霊に伝えている。こういう主の元でなら料理人も腕の振るい甲斐があるだろう。
妖夢さんは一緒に食べるのかと思ったが、配膳やら何やらで忙しそうに立ち回っていて、それどころではなさそうだった。従者は大変そうである。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様。うちの朝ご飯はどうだったかしら~?」
「最高でした」
私と蓮子は全く同じタイミングで同じこと言う。幽々子さんは楽しげに笑って、「それは何よりだわ~」と手を叩いた。
「亡霊なんかやってると、食べるぐらいしか日々の楽しみがなくてね~」
なるほど、美味しい料理が幽々子さんにとっては平板な毎日の彩りなのだろう。
「人形遣いさんのお口には合ったかしら?」
「――ええ、とても」
アリスさんも微笑んで頷く。美味しい料理は世界に平和をもたらすのだなあ、としみじみ思った。あの九尾のモフモフの尻尾と同様に。素晴らしいことである。
そういえば藍さんはどうしているのだろう。彼女の主がこの白玉楼によく来るのなら、ここで待っていればまたあの尻尾をモフれるだろうか――などと私が考えていると、不意に幽々子さんがぽんと手を叩いた。
「そうそう、3人とも。今日はお昼から冥界中の幽霊が集まる、盛大なお花見の予定なのだけれど。騒霊楽団も呼んで賑やかにやる予定だけれど、どうかしら~?」
騒霊楽団といえば、紅魔館のパーティのときにも見かけたあの3人組である。太陽の畑でやっているというライブを見に行ったことはないが、天狗の新聞で読んで知っていた。彼女たちが来るなら、それは賑やかになることだろう。
「いいんですか? そんなに長居させていただいても」
「いいのよ~。連れてきた紫がそのうち迎えに来るでしょうから、それまではゆっくりしてくれて構わないわ~」
それなら、お言葉に甘えさせてもらおう。そもそも帰れと言われても、冥界から幻想郷に帰る方法など知らないわけだし。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「どうぞどうぞ。妖夢、今日は忙しくなるわよ~」
「幽々子様がじゃなく、主に私と料理担当がですよね……」
妖夢さんが小さくため息をつく。大変そうなら暇潰しも兼ねて宴会の支度を手伝うことにしよう。ただ飯を食べさせてもらうのも気が引けるし。
――しかし、霊夢さんたちがここに辿り着いたら、あるいはお花見どころではないかもしれない。そしてあるいは、西行妖が満開になったら――。
私はちらりと相棒を見やる。蓮子は肩を竦めて、ただ首を横に振った。
――昨晩、あの記録の文面を見てから、私と蓮子はその意味をしばし考え込むことになった。
記録の〝富士見の娘〟が幽々子さんのことだとすると、幽々子さんが春を集めて復活させようとしているのは、幽々子さん自身ということになる。
「じゃあ、幽々子さんの目的は――自分が蘇ること?」
「さて、ね。彼女が私たちに事実だけを語ったなら、お嬢様はそれを知らなさそうだけど。生前のことは覚えてないって言っていたしね。もちろん、それは計画的な騙りかもしれない。というか、あれを本気で言っているとすれば、ここのお嬢様は明らかにこの記録の文面を読み違えてるわ」
「――どういうこと?」
「お嬢様はこう言ったわ。『西行妖には、何者かの亡骸が封印されている』『そのせいで西行妖が満開にならない』――とね。つまり、西行妖を満開にすれば、西行妖によって封印された何者かが復活すると考えている。だけど――」
と、蓮子は記録の文面を指さした。
その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
「西行妖が亡骸を封印しているなら、この文面は『西行妖の花を持って封印し』か『西行妖の花で封印し』となるべきだわ。だけどここには『西行妖の花を封印し』とある」
「つまり――封印されているのは西行妖の方?」
「そう解釈すべきだわ。何者かの亡骸が西行妖を封印している。お嬢様の解釈とは完全に逆になるのよ。――いや、そもそも何者かの亡骸なんて存在するのかしら。ここにはただ、『その魂』としか書いてない。つまり、文字通りに読めば、西行妖が満開のときに亡くなった富士見の娘の魂を鎮撫するために、白玉楼を西行妖ごと封印して結界を為した。それにより富士見の娘は転生の苦しみを味わうことなく永久に安らむことを願う――ということになるわ」
「……そうね」
確かに記録の文章をそのまま受け取れば、そうとしか読み取れない。
「でも、幽々子さんが亡骸の存在を確信しているとすれば、亡骸は実在すると考えるべきじゃない? 彼女には土の下の亡骸の存在を感じ取れたりするのかもしれないし」
「まあ、それはそうね。だから亡骸は無いはずだとは言わないわ。たぶん実際に西行妖の下には屍体が埋まっているんでしょう。おそらくは生前のお嬢様の亡骸が」
「……そして幽々子さんは、それを知らずに復活させようとしている」
「復活なんて、するのかしら。――むしろその封印を解くことは、この記録からすれば、お嬢様が転生しないように白玉楼に張られた結界を破ることになると思うわ」
私は息を飲む。――だとしたら。
「じゃあ、もし封印を解いたら――」
「お嬢様は今の、転生することなく冥界を管理する立場から、ただの転生待ちの幽霊に戻ってしまうんじゃないかしら。――この冥界の死生観でいえば、それは即ち本当に死ぬ、ということかもしれないわね」
「――――」
蓮子の推測が当たっているとすれば、幽々子さんはゆるやかな自殺を試みていることになる。本人はそうと知らぬうちに。――亡霊が自殺というのもおかしな話ではあるが。
「じゃあ、止めないと。今の蓮子の解釈を伝えて――」
私はそう言いつのる。さすがに知り合った人が気付かず自滅の道を進んでいるならば、止めねばなるまい――と,私は素直にそう思ったのだけれど。
蓮子は、難しい顔をして顎に手を当てていた。
「……蓮子?」
「そう、この推測が当たっているとすれば、お嬢様の行為は止めるべきものだわ。彼女は幻想郷から春を奪うことで、自らを消滅させようとしている。それが自殺願望でも成仏願望でもないとすれば、なおさら彼女以外の存在が彼女を止めなければならない――」
「そうでしょう。だから――」
「じゃあ、妖怪の賢者はどうして彼女の行為を放置しているの?」
虚を突かれて、私は目を見開く。
「私たちをここに送り込んだ妖怪の賢者は、お嬢様へ私たちについての説明をしていた。つまり藍さんが冬眠していると言っていた賢者は既に覚醒して活動している。お嬢様が何をしているかも理解している。――そして妖怪の賢者がお嬢様を生前から知っているとすれば、この白玉楼の結界を作ったのも、そもそも妖怪の賢者なのかもしれない――だけど妖怪の賢者は、それを破ろうとするお嬢様の行為を放置している。いったいどうして?」
がりがりと頭を掻いて、蓮子は唸る。
そうだ。妖怪の賢者が現状を把握しているなら、なぜ幽々子さんを止めないのか。
「……前提が間違っているんじゃない?」
「つまり、封印を解いてもお嬢様は消滅しないか、もしくは――」
「今の幽々子さんがやっている、春を集める行為だけでは、結界は決して破れない。妖怪の賢者が結界を張った当人なら、それを一番よく理解しているから放置しているんじゃないかしら。確実に失敗するなら放置していても問題ないでしょう?」
「確かにね……。あるいは、霊夢さんたちが異変解決に動いているから、霊夢さんが止めてくれることを期待しているのかも。どちらにしても、妖怪の賢者は何らかの理由で現状を静観しているとみるべきだわ」
「じゃあ、私たちも?」
「とりあえずは静観すべきじゃないかしら。お嬢様をつついて、妖怪の賢者の反応を伺うのも手だけれど……ちょっと考えさせて」
布団に頬杖をついて蓮子は目を閉じる。私は首を捻りながら、「そういえば」と話を変えることにした。他にも気になっていたことはあるのだ。
「桜の下で死にたいと願った歌聖って、西行法師よね?」
「それ以外ないでしょうね。桜の名前が西行妖、お嬢様の苗字が西行寺なんだから。富士見は日本画の画題になるくらい、西行の代名詞だしね。とすると、富士見の娘っていうからにはお嬢様は西行の娘ってことになるんだけど」
「なんだっけ。西行法師が出家するときに縁側から蹴り落とされたっていう……」
「それは『西行物語』の一エピソードだから史実かどうかは怪しいわよ。確かそのあと出家して、生涯男を知らないまま亡くなったっていう話になってたはずだけど、これも後世の創作の可能性が高かったはず。まあ、佐藤義清っていう北面の武士だった頃の西行に妻子がいたのは確からしいし、そもそも狐=油揚げ好きみたいに、通俗的なイメージが具現化するのがこの幻想郷なんだとすれば、『西行物語』の方がこの世界では事実なのかもしれないわね」
「じゃあやっぱり、幽々子さんは西行法師の娘なんじゃないの?」
「なのかしらね。でも……どうなのかしら」
「何が疑問なの?」
「まず、この記録の信用性よ。そもそもこれは誰がいつ何のために書いた記録なのか。そこをきっちり検証しないと、歴史学には偽書がはびこることになっちゃうわけで。ただ物理屋の私にはさすがにその能力はないわ。慧音さんにでも検証してもらわないと」
「……それはまあ、確かにそうね」
言われて見れば、そもそもこの記録を頭から信用する理由も特にないのである。他のページを解読すれば色々と推測はできそうだが、それには明らかに時間が足りない。
「それにね、私は歴史は専門じゃないから、実際どうなのか知らないんだけど――富士見の娘っていう表記自体、不思議なのよ。仮にこれがリアルタイムに書かれたものなら、西行は当時から既に富士見と呼ばれていたのかしら? 富士見が西行の代名詞になったのはいつなのかしら。それ次第では、この記録の信憑性もますます怪しくなるわ」
「この記録が偽書だっていうの? ――何のために?」
「さあね。――でも、なんだか妙にお膳立てが整いすぎてる気がするのよ」
「どういうこと?」
「西行妖が、西行が入寂した寺の桜だとするわよ。西行は本当にあの桜の下で亡くなり、それに憧れて後を追う者が増え、人の命を吸った桜が妖怪となった。――それが満開になったとき、西行の娘が同じようにして亡くなり、その亡骸によって西行妖が封印された。ひょっとしたら西行の娘が父のせいで妖怪化した桜を封印するために自らの命を捧げたのかもしれない。それがお嬢様、西行寺幽々子さんだけれど、亡霊になった彼女は生前の記憶をなくして、その封印を解こうとしている――ねえ、いくらなんでも出来すぎてると思わない?」
「――――」
「そもそも、誰があの桜を西行妖と名付けたの? 生前の記憶のないお嬢様は、どうして西行寺という姓を名乗っているの? まるで西行と妖怪桜とお嬢様の関わりを誰かに見つけてほしいかのような作為を感じるのよ。もちろん、運命ってものが存在するなら、それは神の作為なんでしょうけど――彼女が亡霊として転生を忌避することになったのは、西行妖の封印のために彼女が西行妖に縛られているから……そう、説明がついてしまう……」
ぶつぶつと呟き、蓮子は唸る。
「何かがおかしい。何かが不自然だわ。ここだけが因果が整いすぎてる。西行、妖怪桜、お嬢様、封印。全てが一本の線に繋がりすぎる。お嬢様の死によって西行妖が封印され、それによってお嬢様が西行妖に縛られているなら、なぜ彼女は記憶を失ったの? 彼女が西行妖から離れられない運命だから、せめて悲しく辛い記憶だけでも封じた――そう、説明はつく。因果についての説明はつく。まるで予め用意されてるみたいに、説明がつきすぎる――」
説明がつくならそれが正しいのではないか、と私は思うが、蓮子は納得がいかないらしく、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して唸り続ける。
「……蓮子、疑問点を整理した方がいいんじゃない? 困難は分割しろって言うわよ」
「――そうね。私も頭の中がぐちゃぐちゃだわ。頭を冷やさないと」
蓮子は息を吐き、布団を被った。
「とりあえず寝て、スッキリしてから考えるわ」
「それがいいわ。疲れた頭で考えてもいいアイデアは浮かばないし」
「ん。――おやすみ」
「おやすみ」
――というのが、昨晩の顛末であったわけで。
妖夢さんが宴会の支度に立ち、アリスさんがどこへ行くのか同様に席を立ったあと、私は今朝、妖夢さんの姿を見て思いついた疑問を蓮子に耳打ちすることにした。蓮子の思考の何かのヒントになるかもしれないと思って。
「……妖夢さんのご両親?」
「そうよ。妖忌さんが祖父なら、その間に両親がいるはずでしょう?」
小声で囁いた私に、蓮子はひとつ唸り――そして、幽々子さんに顔を向けた。
「お嬢様は、今日はお暇ですか?」
「うん? 暇と言えば年中暇よ~」
「それなら、少しお話を伺いたいのですが」
蓮子の言葉に、幽々子さんがすっと目を細める。
「何の、かしら?」
「――妖夢さんのお祖父さん、先代の庭師、魂魄妖忌さんについて」
―18―
「妖忌?」
幽々子さんは、思わぬ名前を聞いたという風に、きょとんと目を見開く。
「妖忌がどうかしたの~?」
「いえ、いったいどんな方だったのかと気になりまして」
「どんな方と言われてもね~」
幽々子さんは顎に指を当てて小首を傾げてみせる。
「妖夢さんの剣の師で、非常に厳格な人であったと、昨日そう伺いましたが」
「そうね~。……改めて考えると、それ以上に妖忌について語ることってほとんどないわ」
初めてそのことに気付いたとでも言うように、幽々子さんは頷く。
「妖忌はいつも寡黙で、厳格で、とっつき辛くて~。庭を見回っているか、縁側で静かに瞑想しているか、妖夢に稽古をつけているか……そのぐらいの姿しか見たことがないわ。いたずらしようとしてもすぐ気付かれるし。私ともほとんど口をきかなかったし~」
「300年ほど庭師をしておられたそうですが、具体的には何年前にいなくなられたんです?」
「どうだったかしら~。こんな生活してると、1年も100年も同じようなものだから、よくわからないわ」
「そうですか。――1000年ほど前の、西行妖の満開も見たことがあるそうですが、半人半霊というのは長生きなのですね」
「そうね~。半分幽霊ですもの。私は覚えてないけど、妖忌がいたら、あの桜を満開にする方法も知っていたのかしら~」
立ち上がり、幽々子さんは障子を開け放った。白砂に覆われた庭がそこに広がる。ひらひらと、どこからか桜の花びらが、その白の上に降り積もっていった。ひとつ、ふたつ。
「――お嬢様」
「なにかしら~?」
「妖忌さんは、なぜお嬢様に仕えてらっしゃったのでしょう?」
「――――――」
問いの意味がわからない、というように、幽々子さんは首を傾げた。
「妖忌は、私の従者よ~?」
「……そうですね」
蓮子は敢えて、そこで質問を切り上げた。埒が明かないと思ったのかもしれない。
「ありがとうございました。宴会の支度、何か手伝えることがあればお申し付けくださいな」
「お客様にそんなことさせられないわ~」
扇子に口元を隠して、幽々子さんは笑った。蓮子はただ、それに笑い返しつつ、「ああ、それでは少し書き物をしたいので、筆と紙をいただけませんか」と幽々子さんに言った。
「――で、何か解った?」
「解ったような解らないような、ってところね」
紙と筆と墨と硯を受け取り、部屋に戻って私がそう問うと、ため息をついて蓮子は答えた。
「昨晩も言ったけれど、西行妖とお嬢様の関係は全て、あの記録の文字列から推測できる範囲で筋の通った説明がそれなりにつくわ。だけど――逆に言えば、それ以外は全てがあやふやで不自然なのよ、この白玉楼は。あからさまに示された、西行―お嬢様―妖怪桜という物語は、その細部の曖昧さから目を逸らさせるために用意された解りやすいストーリーに過ぎないのかも知れない」
「……どういうこと?」
「昨日メリーが言った通り、疑問点を整理しましょ」
と言って、蓮子はもらってきた紙に、筆を走らせた。
西行寺幽々子さんの謎
一、彼女は本当に西行の娘なのか。
一、西行の娘だとすれば、『西行物語』に登場する娘なのか、それとも別人なのか。
一、生前の彼女はなぜ、西行妖が満開のときに亡くなったのか。
一、彼女はなぜ転生することを忘れ、白玉楼で亡霊として暮らすことになったのか。
一、彼女はなぜ生前の記憶をなくしているのか。
一、彼女はなぜ記録の〝富士見の娘〟を自分だと考えないのか。
一、西行寺幽々子という彼女の名前は生前からの本名なのか。
西行妖の謎
一、西行妖とは、西行が入寂した弘川寺の桜なのか。
一、誰があの桜を西行妖と呼んだのか。
一、西行妖はなぜお嬢様の魂とともに封印されねばならなかったのか。
魂魄妖忌さん・妖夢さんの謎
一、妖忌さんは生前のお嬢様とどんな関係で、なぜ従者をしていたのか。
一、妖忌さんはなぜ姿を消したのか。彼はどこへ行ったのか。
一、三百年ほど庭師をしていたというが、西行妖の満開は千年ほど前だという。
彼がいなくなったのがいつかにもよるが、残りの数百年、彼は何をしていたのか。
一、妖忌さんと妖夢さんの間にいるはずの、妖夢さんの両親はどこへ行ったのか。
一、魂魄妖忌という名前は本名なのか、何らかの意図があって名乗った名なのか。
時系列と記録の謎
一、西行が亡くなったのは12世紀末だから800年ほど前のはず。
西行妖の前回の満開が1000年ほど前というのは計算が合わなくはないか。
一、あの記録は誰が何のために書き残したものなのか。
一、富士見とは本当に西行のことを指すと考えていいのか。
妖怪の賢者の謎
一、一連のお嬢様と西行妖の過去に、妖怪の賢者はどう関わっているのか。
一、妖怪の賢者はなぜ、現在のお嬢様の行動を止めようとしないのか。
一、妖怪の賢者はなぜ、私たちを白玉楼に送り込んだのか。
「こんなところかしらね」
「……紅魔館のときもそうだったけど、こうしてみると謎だらけね、紅魔館のときは一通り説明がつけられたけど、今回もつけられるの?」
「さあて、ね。妖忌さんか妖怪の賢者から直接話を聞ければ、大半の謎は推理するまでもなく解けるはずだけれど。相手が本当のことを話してくれれば、だけどね」
「そういう意味では、ミステリ的な名探偵というよりは、ハードボイルド的な探偵の仕事ね。妖忌さんでも探す? 失踪人探しはハードボイルドの常道だし」
「何か手掛かりがあればね。それこそ妖忌さんが具体的にいついなくなったのかを妖夢さんに聞きたいところだけど、今日は忙しそうだしね……」
腕を組んで、蓮子はひとつ息を吐く。
「ただ、ね。――おそらく、白玉楼の謎も、性質的には紅魔館と同じだと思うのよ」
「というと?」
「おそらくお嬢様の失われた記憶には、誰かが隠しておきたい秘密がある。妖怪の賢者なのか、あるいは失踪した妖忌さんなのか――その物語を覆い隠すために、筋の通った物語が用意されてるんじゃないかと思うのよ。ただそれは、あくまで表向きにそういうものとして受け取ってもらえればいいというだけだから、細部を気にし出すと謎が色々と生じてくる」
「それが、蓮子が今列挙した謎ってことね」
「そういうこと。西行妖とお嬢様の宿縁の物語の裏には、何か大きな秘密があるんだわ。お嬢様の生前の記憶が失われているのが、誰かの作為だとすれば――妖忌さんが姿を消したのも、それに関わっているのかもしれないわね」
沈黙が落ちる。私は相棒の顔を見つめて、ふと問うた。
「……ねえ蓮子。私たちにそれを解き明かす権利はあるのかしら?」
「うん?」
「隠しておきたいものが、明らかにしても誰も幸せにならない類いのことだったら? それを暴き立てる権利は私たちにあるの? 少なくとも、西行妖と幽々子さんの関係は、あの記録によって筋の通った物語が組み立てられるんでしょう。誰かが幽々子さんのことを思ってそんな物語を作ったのだとしたら、それでいいんじゃないの?」
「――名探偵の宿業の話になってきたわね」
蓮子は頭を掻いて、ひとつ息を吐く。
「そう、本来これはそっとしておくべき問題なんでしょう。――だけどね、だとしたら妖怪の賢者は私たちをここに送りこむ必要はなかったはずよ。霊夢さんなら、こんな謎は気にも掛けずに、今回の異変を解決して、それを武勇伝として阿求さんに語り、表向きの物語が幻想郷の歴史として確定されたはず。だけど妖怪の賢者は私たちを白玉楼に送り込んだ。何のために?」
「――――」
「私たちは何かを求められているのよ。妖怪の賢者、メリーのそっくりさんにね。この異変の首謀者であるお嬢様の懐で何かを為すことを。それがお嬢様を止めることなのか、お嬢様の過去を暴くことなのかは解らないけれど――どっちにしたって、謎を前にしてじっとしていられる人間なら、オカルトサークルや探偵事務所なんてやっていないわ。そうでしょ、メリー?」
「……そうね」
「正確な判断には情報収集が不可欠。私たちは知れる範囲のことを知ってから考えましょう」
蓮子は立ち上がる。私は蓮子を見上げた。蓮子はにっと、いつもの猫のような笑みを浮かべて、私に手を差し伸べた。
「とりあえずは、妖夢さんの手伝いにでも行きましょ」
私は苦笑を返して、「そうしましょ」と蓮子の手を握り返した。
とりあえず大広間の方を目指して歩いていると、幽霊たちがふわふわと行き交う姿が目につき始めた。幽霊の多く集まっている方で支度をしているはずである、という蓮子の推測はどうやら当たっていたようである。私たちはそちらへ向かう。
ほどなく、台所らしき部屋に辿り着いた。が、そこには幽霊がいるだけで、妖夢さんの姿はない。しかし、手足もないふわふわとした幽霊がどうやって料理をするのだろう――。
「妖夢さんはいませんか?」
蓮子がそう声をあげる。幽霊は喋れないのではなかったか――と思ったが、こっちの言葉は通じるらしく、幽霊の一匹(数え方はこれでいいのか?)が、その尻尾(?)のような細い部分を一方向に向けた。そこには勝手口らしき入口がある。
「外ですか?」
ひょこひょこと幽霊が上下移動。頷いているらしい。
「あらあら、妖夢なら騒霊楽団の出迎えにいったわよ~」
と、幽々子さんが突然台所に顔を出してそう言った。
「騒霊楽団? ああ、夜のお花見の――」
「そのはずだけれどね~。妖夢に何か御用? それともつまみ食い?」
「いえいえ。大したことでは。失礼しますわ」
軽く手を振って台所を後にし、蓮子は肩を竦める。
「お嬢様、油断ならないわね」
「どうするの?」
「仕方ないわ。庭でも見て回る? それともあの古文書の解読でもしてみる?」
暇を潰すのもなかなか大変である。夕方のお花見まではまだしばらく時間がある。散歩でもしながら、名探偵の考えがまとまるのを待とう。そういえば、霊夢さんたちはここにちゃんと辿り着けるのだろうか――。
そんなことをつらつらと考えていた私は、そのときはまだ知らなかった。
このとき、無限に続くかのような白玉楼の石段で、魂魄妖夢さんが3人の招かれざる客と対峙していることを。
――春雪異変の終わりが、すぐそこまで迫っていたことを。
その如月の望月のころ
―16―
障子越しに射し込んでくる朝の光で、私は目を覚ました。
一瞬、自分たちが里の自宅にいるような気がして、いつの間にか春が来たのかと錯覚する。だけど起き上がって見渡した部屋は、私たちの自宅より遥かに広い、白玉楼の一室だった。
隣の布団では、蓮子が気持ちよさそうに眠っている。顔でも洗おう、と私は布団を抜け出し、廊下に出た。――のだが。
「……洗面所ってどこ?」
そういえば、このやたらと広い白玉楼の構造を、私はさっぱり理解していない。妖夢さんか誰かいないかしらと見回してみるが、やはり広い建物の中で偶然行き会える可能性は低い。さて、どうしたものか。
普段の私なら、ここはじっと蓮子が起きるのを待つところだ。だが、ここ暫く感じていなかった春の陽気が、私の気を大きくしていたらしい。
「よし、ちょっと探検してみましょう」
そう決めて、私は適当に歩き出した。いくら広いとはいえ、まさか屋敷の中で遭難することもあるまいと、そう考えていたのであるが――。
「迷った……」
案の定である。同じような廊下と襖が続くうちに、私はすっかり自分の現在位置を見失っていた。途中で幽霊とすれ違ったのだが、呼び止めても向こうが喋れないので会話が成立しない。ディスコミュニケーションに困っているうちに幽霊はどこかに行ってしまう。どうしてくれよう、この状況。
「……そうだわ、途中で曲がるからいけないのよ」
はっと私は顔を上げる。いくら広いとはいえ、ひたすらまっすぐ進めばいつかは縁側に出て庭に出られるはずだ。よし、まずは庭を目指そう。
顔を洗うという当初の目的をすっかり忘れ、私は再び、今度はまっすぐ歩き出す。板張りの冷たい廊下を、さらに歩き続けることしばし。ようやく、どこかから声が聞こえてきた。
「――せいっ」
掛け声のようである。この声は、妖夢さんか。その声を頼りに廊下を進むと、思った通り縁側に出られた。そして――そこで、妖夢さんが刀を振るっている。どうやら、朝稽古の最中であるらしい。稽古と言っても妖夢さんの個人練習のようだが。
朝の空気を切り裂くように、妖夢さんの持つ大きな刀が中空に白い軌跡を描く。単なる素振りではなく、イメージトレーニングか何からしい。仮想の相手と切り結んでいるようだ。妖夢さんの背後では、半霊がふわふわと見守るように浮いている。
「――はァッ!」
裂帛の気合い、というのはこういうことだろうか。最後に大上段に振りかぶっての一閃を放って、妖夢さんは刀を鞘に仕舞う。ほう、と息を吐いたところで、私はぱちぱちと拍手した。私の存在には気付いていなかったようで、驚いたように妖夢さんは振り返る。
「あっ、お、おはようございます」
「おはようございます。熱心ですね」
「毎日していることですので、別に……祖父の教えを理解するには、まだまだ先は長いのです」
「お祖父様――妖忌さんでしたっけ」
「はい。雨を斬れるようになるには30年、空気を斬れるようになるには50年、時を斬れるようになるには200年は掛かる。そして、真実は斬って知るものだと」
それはもはや剣術というより禅問答の類いではないだろうか。
「祖父から直接に教わることはもうできませんので、自力で辿り着かなくては」
「……妖忌さんは、いったいどちらへ?」
「わかりません。ですが、いなくなったのは理由あってのことでしょうから。私は祖父から受け継いだお役目、この白玉楼の庭師と幽々子様をお守りするということを、成し遂げるだけなのです。……やっぱり先は長いですけど」
汗を拭って、妖夢さんはすっきりとした顔で言う。やるべきこと、自分の進むべき道が明確であるということは、幸せなことなのだろう。京都で将来像などろくに考えないモラトリアム学生をしていた身としては、いささか眩しい。
「妖忌さんというのは、立派な方だったんですね」
「私のお師匠様で、憧れで、理想で、果てしなく遠い目標です」
誇らしげに妖夢さんは答える。そうやって胸を張れるということも、やっぱり眩しいことだなあと私は思う。しかし――。
ふと、私の脳裏にある疑問がよぎる。
妖夢さんは、あるいはその祖父の妖忌さんは、いったい何を守っているのだろう?
幽々子さんを守ると妖夢さんは言う。けれど、幽々子さんは既に死んだ亡霊だ。死んでいるのだから、何が来ようと命の危険はない。もちろん、幽々子さんに敵対する相手が現れれば守ろうとするのは道理だろうけれど、そんな宿敵でもいるのだろうか。生身の来客は久しぶりだと幽々子さんは言っていたが――。あるいは、紅魔館の紅美鈴さんのように、単に白玉楼の門番という程度の意味なのか。
いやまあ、主が強かったり死なない身だったりすれば守る必要がないというのは極論ではあるだろう。しかし、守るという強い意志を維持するには、やはり敵が必要ではないだろうか。そう思うのは、平和に慣れた人間の感覚なのかもしれないが。
――そういえば、博麗霊夢さんたちは、まだここまで辿り着いていないのだろうか?
「どうかしました?」
「あ、いえ」
妖夢さんに問われ、私は首を横に振る。霊夢さんたちが異変の首謀者を探していることは、まだ幽々子さんや妖夢さんには伝えていない。伝えるべきかは蓮子と昨晩話し合ったのだが、蓮子が『いずれ誰かが止めにくることはお嬢様たちも織り込み済みでしょ』と言って、状況を見守るべきだと言ったのである。蓮子としてはできれば霊夢さんたちに勝ってもらって、幻想郷に春を取り戻して欲しいのだろう。スパイの真似事をする理由も確かにない。
と、そこで私は本来の目的をようやく思い出す。もはや起きてから30分ぐらいは経っているはずなので、今更眠気覚ましも何もないが、顔を洗いたいのは変わらない。
「あの、妖夢さん。洗面所ってどちらです?」
「ああ、ご案内しますよ」
助かった。ついでに部屋まで連れ戻してもらえるとなお助かる。
「すみません、広くて迷ってしまって」
「大丈夫です。うちの幽霊もときどき迷いますから」
「……それ不便じゃないです?」
「庭はもっと広いですよ」
答えになってない気がする。ともかく、妖夢さんの案内で無事洗面所に辿り着き、ついでに白玉楼の構造について簡単なレクチャーを受ける。白玉楼の本殿は中庭にあたる白砂の庭園を中心にコの字型をしており、さらにコの字の縦棒の部分から客間などがある別棟に繋がっているらしい。私は別棟と本殿の間のあたりを彷徨っていたようだ。
「そろそろ朝食も出来るはずですので、客間でお待ち下さい」
妖夢さんはそう言って立ち去ろうとする。私は感謝を述べて、それから「あ――」と呼び止めた。妖夢さんが振り向く。
「まだ何か?」
「……あ、いえ、ううん、なんでもないの」
私は首を横に振る。ふっと浮かんだ疑問を尋ねてみたかったのだけれど、よく考えたら初対面に近いのにあまりに不躾にすぎる質問だった。妖夢さんは首を傾げながら立ち去っていく。その小さな背中を見送って、私は浮かんだ疑問をため息にして吐き出した。
――祖父が行方不明。それはいい。
では、妖夢さんの両親はどこにいるのだろう?
―17―
起き出してきた蓮子ととともに、私たちは大広間に呼び出された。
幽々子さんとアリスさん、4人で囲んだ朝食は、豪勢すぎず質素すぎず、白米から漬け物に至るまでしみじみと美味しい、理想的な朝食だった。どうやら幽々子さんは相当な食い道楽らしく、美味しそうに味わいながら、さりげない工夫を的確に見抜いて料理担当らしい幽霊に伝えている。こういう主の元でなら料理人も腕の振るい甲斐があるだろう。
妖夢さんは一緒に食べるのかと思ったが、配膳やら何やらで忙しそうに立ち回っていて、それどころではなさそうだった。従者は大変そうである。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様。うちの朝ご飯はどうだったかしら~?」
「最高でした」
私と蓮子は全く同じタイミングで同じこと言う。幽々子さんは楽しげに笑って、「それは何よりだわ~」と手を叩いた。
「亡霊なんかやってると、食べるぐらいしか日々の楽しみがなくてね~」
なるほど、美味しい料理が幽々子さんにとっては平板な毎日の彩りなのだろう。
「人形遣いさんのお口には合ったかしら?」
「――ええ、とても」
アリスさんも微笑んで頷く。美味しい料理は世界に平和をもたらすのだなあ、としみじみ思った。あの九尾のモフモフの尻尾と同様に。素晴らしいことである。
そういえば藍さんはどうしているのだろう。彼女の主がこの白玉楼によく来るのなら、ここで待っていればまたあの尻尾をモフれるだろうか――などと私が考えていると、不意に幽々子さんがぽんと手を叩いた。
「そうそう、3人とも。今日はお昼から冥界中の幽霊が集まる、盛大なお花見の予定なのだけれど。騒霊楽団も呼んで賑やかにやる予定だけれど、どうかしら~?」
騒霊楽団といえば、紅魔館のパーティのときにも見かけたあの3人組である。太陽の畑でやっているというライブを見に行ったことはないが、天狗の新聞で読んで知っていた。彼女たちが来るなら、それは賑やかになることだろう。
「いいんですか? そんなに長居させていただいても」
「いいのよ~。連れてきた紫がそのうち迎えに来るでしょうから、それまではゆっくりしてくれて構わないわ~」
それなら、お言葉に甘えさせてもらおう。そもそも帰れと言われても、冥界から幻想郷に帰る方法など知らないわけだし。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「どうぞどうぞ。妖夢、今日は忙しくなるわよ~」
「幽々子様がじゃなく、主に私と料理担当がですよね……」
妖夢さんが小さくため息をつく。大変そうなら暇潰しも兼ねて宴会の支度を手伝うことにしよう。ただ飯を食べさせてもらうのも気が引けるし。
――しかし、霊夢さんたちがここに辿り着いたら、あるいはお花見どころではないかもしれない。そしてあるいは、西行妖が満開になったら――。
私はちらりと相棒を見やる。蓮子は肩を竦めて、ただ首を横に振った。
――昨晩、あの記録の文面を見てから、私と蓮子はその意味をしばし考え込むことになった。
記録の〝富士見の娘〟が幽々子さんのことだとすると、幽々子さんが春を集めて復活させようとしているのは、幽々子さん自身ということになる。
「じゃあ、幽々子さんの目的は――自分が蘇ること?」
「さて、ね。彼女が私たちに事実だけを語ったなら、お嬢様はそれを知らなさそうだけど。生前のことは覚えてないって言っていたしね。もちろん、それは計画的な騙りかもしれない。というか、あれを本気で言っているとすれば、ここのお嬢様は明らかにこの記録の文面を読み違えてるわ」
「――どういうこと?」
「お嬢様はこう言ったわ。『西行妖には、何者かの亡骸が封印されている』『そのせいで西行妖が満開にならない』――とね。つまり、西行妖を満開にすれば、西行妖によって封印された何者かが復活すると考えている。だけど――」
と、蓮子は記録の文面を指さした。
その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
「西行妖が亡骸を封印しているなら、この文面は『西行妖の花を持って封印し』か『西行妖の花で封印し』となるべきだわ。だけどここには『西行妖の花を封印し』とある」
「つまり――封印されているのは西行妖の方?」
「そう解釈すべきだわ。何者かの亡骸が西行妖を封印している。お嬢様の解釈とは完全に逆になるのよ。――いや、そもそも何者かの亡骸なんて存在するのかしら。ここにはただ、『その魂』としか書いてない。つまり、文字通りに読めば、西行妖が満開のときに亡くなった富士見の娘の魂を鎮撫するために、白玉楼を西行妖ごと封印して結界を為した。それにより富士見の娘は転生の苦しみを味わうことなく永久に安らむことを願う――ということになるわ」
「……そうね」
確かに記録の文章をそのまま受け取れば、そうとしか読み取れない。
「でも、幽々子さんが亡骸の存在を確信しているとすれば、亡骸は実在すると考えるべきじゃない? 彼女には土の下の亡骸の存在を感じ取れたりするのかもしれないし」
「まあ、それはそうね。だから亡骸は無いはずだとは言わないわ。たぶん実際に西行妖の下には屍体が埋まっているんでしょう。おそらくは生前のお嬢様の亡骸が」
「……そして幽々子さんは、それを知らずに復活させようとしている」
「復活なんて、するのかしら。――むしろその封印を解くことは、この記録からすれば、お嬢様が転生しないように白玉楼に張られた結界を破ることになると思うわ」
私は息を飲む。――だとしたら。
「じゃあ、もし封印を解いたら――」
「お嬢様は今の、転生することなく冥界を管理する立場から、ただの転生待ちの幽霊に戻ってしまうんじゃないかしら。――この冥界の死生観でいえば、それは即ち本当に死ぬ、ということかもしれないわね」
「――――」
蓮子の推測が当たっているとすれば、幽々子さんはゆるやかな自殺を試みていることになる。本人はそうと知らぬうちに。――亡霊が自殺というのもおかしな話ではあるが。
「じゃあ、止めないと。今の蓮子の解釈を伝えて――」
私はそう言いつのる。さすがに知り合った人が気付かず自滅の道を進んでいるならば、止めねばなるまい――と,私は素直にそう思ったのだけれど。
蓮子は、難しい顔をして顎に手を当てていた。
「……蓮子?」
「そう、この推測が当たっているとすれば、お嬢様の行為は止めるべきものだわ。彼女は幻想郷から春を奪うことで、自らを消滅させようとしている。それが自殺願望でも成仏願望でもないとすれば、なおさら彼女以外の存在が彼女を止めなければならない――」
「そうでしょう。だから――」
「じゃあ、妖怪の賢者はどうして彼女の行為を放置しているの?」
虚を突かれて、私は目を見開く。
「私たちをここに送り込んだ妖怪の賢者は、お嬢様へ私たちについての説明をしていた。つまり藍さんが冬眠していると言っていた賢者は既に覚醒して活動している。お嬢様が何をしているかも理解している。――そして妖怪の賢者がお嬢様を生前から知っているとすれば、この白玉楼の結界を作ったのも、そもそも妖怪の賢者なのかもしれない――だけど妖怪の賢者は、それを破ろうとするお嬢様の行為を放置している。いったいどうして?」
がりがりと頭を掻いて、蓮子は唸る。
そうだ。妖怪の賢者が現状を把握しているなら、なぜ幽々子さんを止めないのか。
「……前提が間違っているんじゃない?」
「つまり、封印を解いてもお嬢様は消滅しないか、もしくは――」
「今の幽々子さんがやっている、春を集める行為だけでは、結界は決して破れない。妖怪の賢者が結界を張った当人なら、それを一番よく理解しているから放置しているんじゃないかしら。確実に失敗するなら放置していても問題ないでしょう?」
「確かにね……。あるいは、霊夢さんたちが異変解決に動いているから、霊夢さんが止めてくれることを期待しているのかも。どちらにしても、妖怪の賢者は何らかの理由で現状を静観しているとみるべきだわ」
「じゃあ、私たちも?」
「とりあえずは静観すべきじゃないかしら。お嬢様をつついて、妖怪の賢者の反応を伺うのも手だけれど……ちょっと考えさせて」
布団に頬杖をついて蓮子は目を閉じる。私は首を捻りながら、「そういえば」と話を変えることにした。他にも気になっていたことはあるのだ。
「桜の下で死にたいと願った歌聖って、西行法師よね?」
「それ以外ないでしょうね。桜の名前が西行妖、お嬢様の苗字が西行寺なんだから。富士見は日本画の画題になるくらい、西行の代名詞だしね。とすると、富士見の娘っていうからにはお嬢様は西行の娘ってことになるんだけど」
「なんだっけ。西行法師が出家するときに縁側から蹴り落とされたっていう……」
「それは『西行物語』の一エピソードだから史実かどうかは怪しいわよ。確かそのあと出家して、生涯男を知らないまま亡くなったっていう話になってたはずだけど、これも後世の創作の可能性が高かったはず。まあ、佐藤義清っていう北面の武士だった頃の西行に妻子がいたのは確からしいし、そもそも狐=油揚げ好きみたいに、通俗的なイメージが具現化するのがこの幻想郷なんだとすれば、『西行物語』の方がこの世界では事実なのかもしれないわね」
「じゃあやっぱり、幽々子さんは西行法師の娘なんじゃないの?」
「なのかしらね。でも……どうなのかしら」
「何が疑問なの?」
「まず、この記録の信用性よ。そもそもこれは誰がいつ何のために書いた記録なのか。そこをきっちり検証しないと、歴史学には偽書がはびこることになっちゃうわけで。ただ物理屋の私にはさすがにその能力はないわ。慧音さんにでも検証してもらわないと」
「……それはまあ、確かにそうね」
言われて見れば、そもそもこの記録を頭から信用する理由も特にないのである。他のページを解読すれば色々と推測はできそうだが、それには明らかに時間が足りない。
「それにね、私は歴史は専門じゃないから、実際どうなのか知らないんだけど――富士見の娘っていう表記自体、不思議なのよ。仮にこれがリアルタイムに書かれたものなら、西行は当時から既に富士見と呼ばれていたのかしら? 富士見が西行の代名詞になったのはいつなのかしら。それ次第では、この記録の信憑性もますます怪しくなるわ」
「この記録が偽書だっていうの? ――何のために?」
「さあね。――でも、なんだか妙にお膳立てが整いすぎてる気がするのよ」
「どういうこと?」
「西行妖が、西行が入寂した寺の桜だとするわよ。西行は本当にあの桜の下で亡くなり、それに憧れて後を追う者が増え、人の命を吸った桜が妖怪となった。――それが満開になったとき、西行の娘が同じようにして亡くなり、その亡骸によって西行妖が封印された。ひょっとしたら西行の娘が父のせいで妖怪化した桜を封印するために自らの命を捧げたのかもしれない。それがお嬢様、西行寺幽々子さんだけれど、亡霊になった彼女は生前の記憶をなくして、その封印を解こうとしている――ねえ、いくらなんでも出来すぎてると思わない?」
「――――」
「そもそも、誰があの桜を西行妖と名付けたの? 生前の記憶のないお嬢様は、どうして西行寺という姓を名乗っているの? まるで西行と妖怪桜とお嬢様の関わりを誰かに見つけてほしいかのような作為を感じるのよ。もちろん、運命ってものが存在するなら、それは神の作為なんでしょうけど――彼女が亡霊として転生を忌避することになったのは、西行妖の封印のために彼女が西行妖に縛られているから……そう、説明がついてしまう……」
ぶつぶつと呟き、蓮子は唸る。
「何かがおかしい。何かが不自然だわ。ここだけが因果が整いすぎてる。西行、妖怪桜、お嬢様、封印。全てが一本の線に繋がりすぎる。お嬢様の死によって西行妖が封印され、それによってお嬢様が西行妖に縛られているなら、なぜ彼女は記憶を失ったの? 彼女が西行妖から離れられない運命だから、せめて悲しく辛い記憶だけでも封じた――そう、説明はつく。因果についての説明はつく。まるで予め用意されてるみたいに、説明がつきすぎる――」
説明がつくならそれが正しいのではないか、と私は思うが、蓮子は納得がいかないらしく、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して唸り続ける。
「……蓮子、疑問点を整理した方がいいんじゃない? 困難は分割しろって言うわよ」
「――そうね。私も頭の中がぐちゃぐちゃだわ。頭を冷やさないと」
蓮子は息を吐き、布団を被った。
「とりあえず寝て、スッキリしてから考えるわ」
「それがいいわ。疲れた頭で考えてもいいアイデアは浮かばないし」
「ん。――おやすみ」
「おやすみ」
――というのが、昨晩の顛末であったわけで。
妖夢さんが宴会の支度に立ち、アリスさんがどこへ行くのか同様に席を立ったあと、私は今朝、妖夢さんの姿を見て思いついた疑問を蓮子に耳打ちすることにした。蓮子の思考の何かのヒントになるかもしれないと思って。
「……妖夢さんのご両親?」
「そうよ。妖忌さんが祖父なら、その間に両親がいるはずでしょう?」
小声で囁いた私に、蓮子はひとつ唸り――そして、幽々子さんに顔を向けた。
「お嬢様は、今日はお暇ですか?」
「うん? 暇と言えば年中暇よ~」
「それなら、少しお話を伺いたいのですが」
蓮子の言葉に、幽々子さんがすっと目を細める。
「何の、かしら?」
「――妖夢さんのお祖父さん、先代の庭師、魂魄妖忌さんについて」
―18―
「妖忌?」
幽々子さんは、思わぬ名前を聞いたという風に、きょとんと目を見開く。
「妖忌がどうかしたの~?」
「いえ、いったいどんな方だったのかと気になりまして」
「どんな方と言われてもね~」
幽々子さんは顎に指を当てて小首を傾げてみせる。
「妖夢さんの剣の師で、非常に厳格な人であったと、昨日そう伺いましたが」
「そうね~。……改めて考えると、それ以上に妖忌について語ることってほとんどないわ」
初めてそのことに気付いたとでも言うように、幽々子さんは頷く。
「妖忌はいつも寡黙で、厳格で、とっつき辛くて~。庭を見回っているか、縁側で静かに瞑想しているか、妖夢に稽古をつけているか……そのぐらいの姿しか見たことがないわ。いたずらしようとしてもすぐ気付かれるし。私ともほとんど口をきかなかったし~」
「300年ほど庭師をしておられたそうですが、具体的には何年前にいなくなられたんです?」
「どうだったかしら~。こんな生活してると、1年も100年も同じようなものだから、よくわからないわ」
「そうですか。――1000年ほど前の、西行妖の満開も見たことがあるそうですが、半人半霊というのは長生きなのですね」
「そうね~。半分幽霊ですもの。私は覚えてないけど、妖忌がいたら、あの桜を満開にする方法も知っていたのかしら~」
立ち上がり、幽々子さんは障子を開け放った。白砂に覆われた庭がそこに広がる。ひらひらと、どこからか桜の花びらが、その白の上に降り積もっていった。ひとつ、ふたつ。
「――お嬢様」
「なにかしら~?」
「妖忌さんは、なぜお嬢様に仕えてらっしゃったのでしょう?」
「――――――」
問いの意味がわからない、というように、幽々子さんは首を傾げた。
「妖忌は、私の従者よ~?」
「……そうですね」
蓮子は敢えて、そこで質問を切り上げた。埒が明かないと思ったのかもしれない。
「ありがとうございました。宴会の支度、何か手伝えることがあればお申し付けくださいな」
「お客様にそんなことさせられないわ~」
扇子に口元を隠して、幽々子さんは笑った。蓮子はただ、それに笑い返しつつ、「ああ、それでは少し書き物をしたいので、筆と紙をいただけませんか」と幽々子さんに言った。
「――で、何か解った?」
「解ったような解らないような、ってところね」
紙と筆と墨と硯を受け取り、部屋に戻って私がそう問うと、ため息をついて蓮子は答えた。
「昨晩も言ったけれど、西行妖とお嬢様の関係は全て、あの記録の文字列から推測できる範囲で筋の通った説明がそれなりにつくわ。だけど――逆に言えば、それ以外は全てがあやふやで不自然なのよ、この白玉楼は。あからさまに示された、西行―お嬢様―妖怪桜という物語は、その細部の曖昧さから目を逸らさせるために用意された解りやすいストーリーに過ぎないのかも知れない」
「……どういうこと?」
「昨日メリーが言った通り、疑問点を整理しましょ」
と言って、蓮子はもらってきた紙に、筆を走らせた。
西行寺幽々子さんの謎
一、彼女は本当に西行の娘なのか。
一、西行の娘だとすれば、『西行物語』に登場する娘なのか、それとも別人なのか。
一、生前の彼女はなぜ、西行妖が満開のときに亡くなったのか。
一、彼女はなぜ転生することを忘れ、白玉楼で亡霊として暮らすことになったのか。
一、彼女はなぜ生前の記憶をなくしているのか。
一、彼女はなぜ記録の〝富士見の娘〟を自分だと考えないのか。
一、西行寺幽々子という彼女の名前は生前からの本名なのか。
西行妖の謎
一、西行妖とは、西行が入寂した弘川寺の桜なのか。
一、誰があの桜を西行妖と呼んだのか。
一、西行妖はなぜお嬢様の魂とともに封印されねばならなかったのか。
魂魄妖忌さん・妖夢さんの謎
一、妖忌さんは生前のお嬢様とどんな関係で、なぜ従者をしていたのか。
一、妖忌さんはなぜ姿を消したのか。彼はどこへ行ったのか。
一、三百年ほど庭師をしていたというが、西行妖の満開は千年ほど前だという。
彼がいなくなったのがいつかにもよるが、残りの数百年、彼は何をしていたのか。
一、妖忌さんと妖夢さんの間にいるはずの、妖夢さんの両親はどこへ行ったのか。
一、魂魄妖忌という名前は本名なのか、何らかの意図があって名乗った名なのか。
時系列と記録の謎
一、西行が亡くなったのは12世紀末だから800年ほど前のはず。
西行妖の前回の満開が1000年ほど前というのは計算が合わなくはないか。
一、あの記録は誰が何のために書き残したものなのか。
一、富士見とは本当に西行のことを指すと考えていいのか。
妖怪の賢者の謎
一、一連のお嬢様と西行妖の過去に、妖怪の賢者はどう関わっているのか。
一、妖怪の賢者はなぜ、現在のお嬢様の行動を止めようとしないのか。
一、妖怪の賢者はなぜ、私たちを白玉楼に送り込んだのか。
「こんなところかしらね」
「……紅魔館のときもそうだったけど、こうしてみると謎だらけね、紅魔館のときは一通り説明がつけられたけど、今回もつけられるの?」
「さあて、ね。妖忌さんか妖怪の賢者から直接話を聞ければ、大半の謎は推理するまでもなく解けるはずだけれど。相手が本当のことを話してくれれば、だけどね」
「そういう意味では、ミステリ的な名探偵というよりは、ハードボイルド的な探偵の仕事ね。妖忌さんでも探す? 失踪人探しはハードボイルドの常道だし」
「何か手掛かりがあればね。それこそ妖忌さんが具体的にいついなくなったのかを妖夢さんに聞きたいところだけど、今日は忙しそうだしね……」
腕を組んで、蓮子はひとつ息を吐く。
「ただ、ね。――おそらく、白玉楼の謎も、性質的には紅魔館と同じだと思うのよ」
「というと?」
「おそらくお嬢様の失われた記憶には、誰かが隠しておきたい秘密がある。妖怪の賢者なのか、あるいは失踪した妖忌さんなのか――その物語を覆い隠すために、筋の通った物語が用意されてるんじゃないかと思うのよ。ただそれは、あくまで表向きにそういうものとして受け取ってもらえればいいというだけだから、細部を気にし出すと謎が色々と生じてくる」
「それが、蓮子が今列挙した謎ってことね」
「そういうこと。西行妖とお嬢様の宿縁の物語の裏には、何か大きな秘密があるんだわ。お嬢様の生前の記憶が失われているのが、誰かの作為だとすれば――妖忌さんが姿を消したのも、それに関わっているのかもしれないわね」
沈黙が落ちる。私は相棒の顔を見つめて、ふと問うた。
「……ねえ蓮子。私たちにそれを解き明かす権利はあるのかしら?」
「うん?」
「隠しておきたいものが、明らかにしても誰も幸せにならない類いのことだったら? それを暴き立てる権利は私たちにあるの? 少なくとも、西行妖と幽々子さんの関係は、あの記録によって筋の通った物語が組み立てられるんでしょう。誰かが幽々子さんのことを思ってそんな物語を作ったのだとしたら、それでいいんじゃないの?」
「――名探偵の宿業の話になってきたわね」
蓮子は頭を掻いて、ひとつ息を吐く。
「そう、本来これはそっとしておくべき問題なんでしょう。――だけどね、だとしたら妖怪の賢者は私たちをここに送りこむ必要はなかったはずよ。霊夢さんなら、こんな謎は気にも掛けずに、今回の異変を解決して、それを武勇伝として阿求さんに語り、表向きの物語が幻想郷の歴史として確定されたはず。だけど妖怪の賢者は私たちを白玉楼に送り込んだ。何のために?」
「――――」
「私たちは何かを求められているのよ。妖怪の賢者、メリーのそっくりさんにね。この異変の首謀者であるお嬢様の懐で何かを為すことを。それがお嬢様を止めることなのか、お嬢様の過去を暴くことなのかは解らないけれど――どっちにしたって、謎を前にしてじっとしていられる人間なら、オカルトサークルや探偵事務所なんてやっていないわ。そうでしょ、メリー?」
「……そうね」
「正確な判断には情報収集が不可欠。私たちは知れる範囲のことを知ってから考えましょう」
蓮子は立ち上がる。私は蓮子を見上げた。蓮子はにっと、いつもの猫のような笑みを浮かべて、私に手を差し伸べた。
「とりあえずは、妖夢さんの手伝いにでも行きましょ」
私は苦笑を返して、「そうしましょ」と蓮子の手を握り返した。
とりあえず大広間の方を目指して歩いていると、幽霊たちがふわふわと行き交う姿が目につき始めた。幽霊の多く集まっている方で支度をしているはずである、という蓮子の推測はどうやら当たっていたようである。私たちはそちらへ向かう。
ほどなく、台所らしき部屋に辿り着いた。が、そこには幽霊がいるだけで、妖夢さんの姿はない。しかし、手足もないふわふわとした幽霊がどうやって料理をするのだろう――。
「妖夢さんはいませんか?」
蓮子がそう声をあげる。幽霊は喋れないのではなかったか――と思ったが、こっちの言葉は通じるらしく、幽霊の一匹(数え方はこれでいいのか?)が、その尻尾(?)のような細い部分を一方向に向けた。そこには勝手口らしき入口がある。
「外ですか?」
ひょこひょこと幽霊が上下移動。頷いているらしい。
「あらあら、妖夢なら騒霊楽団の出迎えにいったわよ~」
と、幽々子さんが突然台所に顔を出してそう言った。
「騒霊楽団? ああ、夜のお花見の――」
「そのはずだけれどね~。妖夢に何か御用? それともつまみ食い?」
「いえいえ。大したことでは。失礼しますわ」
軽く手を振って台所を後にし、蓮子は肩を竦める。
「お嬢様、油断ならないわね」
「どうするの?」
「仕方ないわ。庭でも見て回る? それともあの古文書の解読でもしてみる?」
暇を潰すのもなかなか大変である。夕方のお花見まではまだしばらく時間がある。散歩でもしながら、名探偵の考えがまとまるのを待とう。そういえば、霊夢さんたちはここにちゃんと辿り着けるのだろうか――。
そんなことをつらつらと考えていた私は、そのときはまだ知らなかった。
このとき、無限に続くかのような白玉楼の石段で、魂魄妖夢さんが3人の招かれざる客と対峙していることを。
――春雪異変の終わりが、すぐそこまで迫っていたことを。
第2章 妖々夢編 一覧
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ギリギリの週一更新お疲れです
今回の謎が漸く全体的に表面化してきまきたね。ワクワクしてきました。
第2章の謎も整理されて盛り上がって参りました!
紅魔郷編では原作で提示されてる要素を見事に再構成して
全く違う物語になってたからな~
今回の異変の真相がどうなるのか今から楽しみです!
(しっかり読み返さねばっ…!)
ッ!
謎が増えて頭がこんがらがる~!
紅魔卿の時も見事に解いて頂きましたましたし………
首を飛ばして待ってます!
EOさんも忙しいですが、頑張って下さい!
原作の設定を崩さず、かつ斬新な解釈を展開してるので、毎回とても驚かされます。
次も楽しみにしてます!
確かに妖夢の親はわかりませんね。
ずっと気になっていた疑問が話の中にあって感激。
妖夢の親は一体どこへ?
誤字報告です。
>そしてあるいは、白玉楼が満開になったら――。
西行妖→白玉楼に
いろいろと謎も浮かび上がってきて、いよいよ推理も佳境と言ったところでしょうか。
ある意味長年問沙汰されてきたこの矛盾をどう解消するのか、楽しみにお待ちしております。