花見ればそのいはれとはなけれども
心のうちぞ苦しかりける
―13―
いや、それはただの錯覚に過ぎなかったのかもしれない。
ただ夜桜が風にざわめいたのを、まるで桜そのものが命を持って叫んだかのように、私が感じただけのことだったのだと思う。
けれど――だとしても。
そこに一本だけ佇む桜の巨木は、ひどく歪だった。何が? 解らない。何がおかしいのかは解らないのだけれど、その桜の姿に、どうしてこれほど、恐怖のような、あるいは忌避のような、逃げ出したくなるような怖気を感じるのだろう――。
「あらあら妖夢、お客様?」
――だが、その緊張感は、桜の下に佇んだ少女の、ひどく脳天気な声に打ち破られた。
桜は既に沈黙している。いや、元々音ひとつたてていなかったのかもしれない。
その下に佇んでいたその少女は――パチュリーさんと同じように、地面の上、10センチほどのところに浮いて、滑るようにこちらへと寄ってきた。桜の図柄の、フリルのついた着物という不思議な服装に、頭には――何の冗談なのか、死に装束の三角頭巾のようなデザインの帽子を被っている。柔和な笑みを浮かべたその顔は、レミリア嬢とは違った意味でのお嬢様然とした――おっとりとした箱入り娘のような雰囲気だった。
「幽々子様。怪しい侵入者を発見しましたので――」
「いやいや妖夢。お客様に失礼よ~」
「は? 幽々子様のお知り合いでしたか」
「知り合いの知り合い、かしらね~?」
懐から桜の描かれた扇子を取りだして口元を隠し、そのお嬢様――幽々子さんは笑った。
「紫から話は聞いているわ。そこの人形遣いさんまで一緒だとは聞いていないけれど――まあ、いいでしょう。妖夢、お客様をご案内して差し上げなさい」
「はっ――ええと、では、こちらへどうぞ」
妖夢さんが急に畏まる。何が何だかさっぱり解らず、私たちは顔を見合わせるしかなかった。
かくして案内された白玉楼は、大きな日本屋敷だった。紅魔館の、あの空間拡張による違和感のある広さではなく、物理的にかなり広い。一室が平気で数十畳はありそうだ。
そして、そんな屋敷の中を、白いふわふわとした物体が時折行き交っている。それは妖夢さんの傍らに浮いているのと同じもののようだが――。それぞれがひんやりとした冷気を放っていて、すれ違うとちょっと肌寒い。
「あの……さっきから見えてる白いのって?」
「ん? ああ、幽霊ですよ。これは私の半霊です」
私の問いに、妖夢さんは振り返って、傍らの白いふわふわに手を添える。半霊と呼ばれたふわふわは、にゅるん、と形を変えて妖夢さんの背後に回った。
また別の白い物体が、ふわふわと私たちの近くを横切っていく。あれが――幽霊か。随分と古臭いオバケのイメージが具象化したような存在である。そういえば、ここは成仏や転生を待つ霊が暮らす冥界だと妖夢さんが言っていたが――。
「ここにいるのは、白玉楼の家事を受け持っている幽霊たちです」
「……幽霊に家事ができるんですか」
「ええ、もちろん」
そういうものらしい。幻想郷の理屈は相変わらず計り知れない。
「蓮子、物理学の徒としてはこの幽霊の存在、どう思うの?」
「人間が空を飛ぶ幻想郷の物理法則を科学世紀の物理学で考えても仕方ないけど――幻想郷を、認識の力が物理的な力に転換される世界だと定義すれば、幽霊もその存在が信じられているからこそ存在するのかもしれないわね。こういう話はメリーの方の専門でしょ?」
「そうだけど。なんかすっかり相対性精神主義者に鞍替えしちゃったわね、蓮子」
「この世界で相対性精神学的な考えが物理的に力を持つなら、それを第五の力として考えるのが物理学の徒としての立場というものよ。それより問題は、この幽霊がどういう存在として定義されているかの方だわ。死者の魂なのか、思念の塊なのか、それ以外の何かなのか――幻想郷の死生観にも大きく関わる問題だし、興味深いわ」
目を輝かせて言う蓮子に、私は肩を竦める。と、妖夢さんが襖のひとつを開けて、「こちらへどうぞ」と私たちを促した。ここもまた広々とした和室である。妖夢さんがどこかから座布団を三枚持ってきた。私と蓮子、アリスさんはそこに腰を下ろす。「お茶を用意します」と妖夢さんが部屋を出て行き、私たち三人がそこに残された。
「なんだか妙なことになっちゃったわね」
アリスさんが息を吐く。つい先ほどまで魔法の森にいたはずなのに、気が付けば冥界の屋敷にいるのだから、幻想郷は摩訶不思議である。というか――。
「ねえ、蓮子。私たちがここに飛ばされたときのあれって――」
「――メリーが何を言いたいかは解ってるわよ。大叔母さんの部屋、でしょう?」
私は頷く。そう――魔法の森からこの冥界まで飛ばされたとき、私たちを呑み込んだ、あの奇妙な世界の裂け目。あそこに吸い込まれるように視界が暗転した、あの感覚は――私たちが二一世紀末の京都からこの幻想郷に飛ばされたとき、蓮子の大叔母さん・宇佐見菫子さんの部屋で感じたものと同じものだった。
「つまり、あれは結界の裂け目を超える感覚だったってことよ、メリー」
「……そうなのかしら。だけど、あの裂け目の出現はあまりに唐突だったわ。この幻想郷の結界は安定しているのに――どうしてあんな急に。というか、じゃあここって幻想郷の外?」
「冥界は、厳密に言えば幻想郷の外よ。貴方たちのいた外の世界とはまた別だけれど」
アリスさんがそう口を挟む。蓮子が腑に落ちたような顔で頷いた。
「ということは、幻想郷は、幻想郷だけで独立した世界ではないんですね?」
「そうよ。幻想郷の他に、天界、冥界、彼岸、魔界、地獄といった世界が隣り合っているわ。そもそも私が魔界の出身だしね」
「ははあ。それらも外の世界の私たちから大きなくくりで見れば幻想郷に近い、と」
「そうね。幻想郷から外の世界に出るのは難しいけれど、冥界や魔界と行き来するのはそう難しいことでもないから」
なるほど。私は今まで、幻想郷というのは日本のどこかに結界というドームで覆われた空間がひとつあるのだと思っていたが、正確にはいくつかのドームが隣り合って並んでいるうちのひとつが幻想郷ということなのだろう。そして私たちは今、冥界という別のドームにいるわけだ。ただ外の世界から見れば同じドームの中なので、幻想郷と同じ理屈でこの冥界も動いている――ということなのだろう。たぶん。
しかし、だとしてもどうして私たちはそのドームを区切る結界を急に超えてしまったのだろうか。まるで誰かの意志が介入しているかのように――。
「しかし、いずれにしても興味深いことだらけだわ、ここは。幻想郷から春を奪っているのは、どうやらあのお嬢様が犯人みたいだけれど、いったい何の目的で春を集めているのか。そして、私たちをここに導いた何者かは、私たちに何をさせようとしているのか――」
「何者かって……」
「魔法の森からここに飛ばされたのは、誰かの意志に決まってるじゃない。たぶん、噂のメリーのそっくりさん、妖怪の賢者だわ。さっきのお嬢様が、『紫から話は聞いている』って言っていたしね」
なるほど道理である。しかし、藍さんの話だと冬眠しているということだったと思うが。いや、冥界が春なので起きたのだろうか? それなら妖怪の賢者も冥界に住んでいるのか。
「ということは、蓮子。私たちは妖怪の賢者に監視されてたっていうこと?」
「おそらくね。藍さんから報告が入ったんだと思うわ。人間の里にそっくりさんがいるってね」
「――つまり、私のせい?」
「向こうも、メリーのことが気になったんじゃないの? というか、今もどこかで見てるのかもしれないわね。おーい、妖怪の賢者さーん。見てますかー。イェーイ」
蓮子が声をあげてピースをする。恥ずかしいからやめてほしい。というか何かテンションがおかしくないか。この冥界の陽気にあてられたのだろうか。
「……何をやってるんですか」
「おっとこれは失礼」
呆れた声がかかり振り返ると、妖夢さんがお茶を持ってきていた。と、その背後から先ほどのお嬢様、幽々子さんがゆったりとした動作で姿を現す。相変わらず、床上数センチに浮いたまま滑ってくる姿はいささかシュールだ。
「どうぞ」
妖夢さんからお茶を受け取る。冥界の食べ物を口にしたら現世に戻れなく……なったりは、さすがにしないだろう。たぶん。以前、紅魔館で貰ったクッキーを外の世界の京都で食べたときも大丈夫だったし。
「さてさて、紫たち以外の生身のお客様なんて随分と久しぶりだわ~」
私たちの向かいに幽々子さんは悠然と腰を下ろし、その斜め後ろに妖夢さんが控える。幽々子さんは目を細めて私たちを見回し、私に目を留めてひとつ頷いた。
「自己紹介は結構。紫から聞いているわ。紫が何のために貴方たちを連れてきたのかは知らないけれど、客人として扱うように言われているから、ゆっくりくつろいで頂戴ね。そこの人形遣いさんは招かれざる客のようだけれど、まあいいわ~」
「――お気遣い痛み入りますわ」
アリスさんが少し憮然としたような顔で頭を下げる。幽々子さんはまた扇子で口元を隠しながら微笑んだ。間延び気味のしゃべり方といい、いまひとつ緊張感に欠けるお嬢様である。
「そちらの名探偵さんは、色々と聞きたいことがありそうね~?」
と、幽々子さんは蓮子に向き直る。蓮子は頷いて、猫のような笑みを浮かべた。
「それはもう、山ほど」
「全てに答えていたら朝になりそうな顔ね~。まあ、退屈しのぎには丁度いいかもしれないけれど。――ああ、私の自己紹介がまだだったわね。私は西行寺幽々子。この白玉楼の主で、冥界の管理者をしているわ。管理者といっても、特にすることは何もないんだけどね~」
「――お嬢様も、幽霊なんですか?」
「ええ、そう考えてくれて結構よ~。もう長いこと亡霊をやっているわ」
「成仏なさらないんです?」
「それができないから、冥界の管理者なんてやってるのよ~」
幽々子さんはため息をつく。何か、この世に強い未練でも残しているのだろうか。蓮子も同じことを思ったのか、「何か未練でも?」と首を傾げる。
「さてね~。生きてた頃のことはさっぱり覚えてないから、それも解らないの。まあ、別に成仏したいわけでもないから、いいんだけどね~」
随分あっけらかんと暢気な亡霊である。亡霊がみんなこんな調子なら、生者が祟られることもあるまいに。
「そうですか。もしお嬢様が望まれるのでしたら、お嬢様の未練の源の調査も請け負いますけれど。こちら探偵事務所をやってますので」
「あらあら、売り込み~?」
「冥界に囚われたお嬢様の未練探し、なかなか魅力的な謎ですわ。その気になりましたら是非、人間の里の《秘封探偵事務所》にお申し付けを。外来の頭脳にお任せくださいな」
完璧な営業スマイルで売り込みをかける我らが所長。冥界の亡霊に人間の里の事務所を売り込んでも仕方ないと思うのだが。
そんな蓮子に、幽々子さんは楽しげに笑い声をあげる。
「面白い人間ね~。紫が気に入るわけだわ」
「妖怪の賢者さんとは?」
「古い友人よ~。私が生きてた頃からの。私は覚えてないけどね~」
「なるほど。私たちをここに連れてきたのも、その妖怪の賢者さんのようですけれど。いったい私たちは何のためにここに招かれたのでしょう?」
「さてね~。紫のすることは、ときどき私にもよくわからないわ。そこのそっくりさんといい、何か紫にとって重大な意味があるんでしょうけどね~」
そんなことを言われても、私には全く心当たりがないのだけれども。
「意味といえば、お嬢様方が冥界に春を集めていらっしゃるのは何のためにでしょう?」
と、蓮子が唐突に身を乗り出して核心に切り込む。蓮子としては不意打ちのつもりだったのだろうが、幽々子さんは悠然と微笑んでそれを受け流した。
「桜を咲かせるため、よ」
「桜というと――先ほどお嬢様が見上げておられた、あの巨木ですか?」
「そう。うちの自慢の妖怪桜」
ぱちん、と扇子を閉じて、幽々子さんは小首を傾げる。
不意に――その笑みに、人外の凄絶さを感じ取って、私は息を飲んだ。
目の前にいるのが、不意に人間以外の存在であると突きつけられたかのようで、背筋に冷たいものが走り抜ける。私たちなど、その指を少し動かすだけで、文字通りこの冥界の住人に変えられるのだと言わんばかりの、酷薄たる笑み――。
「――あの桜を咲かせるのには、この程度の春じゃ足りないの。もっともっとたくさんの春を集めなければ、あの西行妖は、満開にはならないから」
「……西行妖?」
「ああ、貴方たち生身の人間は、西行妖には近付かない方がいいわね~」
幽々子さんは、扇子を私たちに突きつけて、笑顔のまま告げる。
「――死に、誘われるから」
―14―
話の続きはお酒でも飲みながらにしましょう、と幽々子さんが言い、なぜか夜桜見物の宴会が始まってしまった。先ほども通ってきた満開の桜並木に茣蓙を敷き、妖夢さんが酒とつまみを運んでくる。
ぼんやりとした月明かりに照らされた満開の桜。その姿は、梶井基次郎や坂口安吾が幻視したような怖ろしさと、それ故の美しさをたたえて、静かに風にそよいでいる。
「西行妖はまだ満開にならないけど、このあたりはちょうど見頃ね~」
「幽々子様、食べ過ぎないでくださいね」
お団子を頬張る幽々子さんに、妖夢さんが呆れたように声をかける。亡霊も食事をするらしい。頬を膨らませてもぐもぐとお団子を咀嚼する幽々子さんの姿には、紅魔館のお嬢様以上に威厳も何もあったものではない。
「お嬢様。なぜその西行妖を満開にしようとするんですか? 単に花見のためです?」
注がれたお酒の杯を傾けながら、蓮子がそう問う。京都では飲んだことのない、不思議な甘みのあるとろりとしたお酒だった。あまり日本酒は得意でないのだが、これは美味しい。私もついつい杯に手が伸びてしまう。アリスさんは隅で静かにお酒を飲んでいた。
「あの西行妖はね~、私の覚えている限りで一度も満開になったことがないの」
ごくん、とお団子を呑み込んで、幽々子さんが答えた。
「だから、一度ぐらい満開の姿を見てみたいじゃない?」
「――それだけです?」
「あら、貴方がそれを知ってどうするのかしら?」
不意に幽々子さんは目を細めて蓮子を見つめた。その肩越しに、ふわりと光る蝶が舞いあがる。蝶はひらひらと夜の闇に舞い、桜の花の中に溶けるように消えた。いまのは蝶の幽霊なのだろうか。それとも何か別の――。
「いえ、単に好奇心ですわ。この見事な桜並木を見ていると、お花見だけならここで十分ではないかと思いまして」
「私にとっては、もう何百年も見慣れた桜並木よ~。まあ、特に隠す意味もないから答えてあげてもいいけれど――」
と、幽々子さんは立ち上がり、桜の一本の幹に手を触れた。
「あの西行妖には、何者かの亡骸が封印されているようなの」
「――封印?」
「そう。そのせいで西行妖が満開にならないのだとすれば、満開にすればその何者かが復活するんじゃないかと思ってね~」
「何者か――って、お嬢様のお知り合いとかではないんですか?」
「さあ、誰なのかしら。見つけた古い記録にはただ〝富士見の娘〟としかなかったから」
「不死身? 不老不死ですか。八百比丘尼とか」
「そっちじゃなくて、富士を見る方を富士見よ~。不死身との掛詞でしょうけどね」
「富士見の娘――ですか」
蓮子が眉を寄せて、何事かを考え込む。相棒が何に引っかかっているのか、私にはわからないが、ともかく蓮子が黙ってしまったので、私が代わりに口を開いた。
「あの……そもそも西行妖というのは、妖怪桜ということですけど、いったいどんな……」
「文字通り、人を死に誘う桜よ~」
そんな物騒なことをさらっと言わないでほしい。さっき、その西行妖をすぐ見上げるところまで近付いたことが今更ながらに怖ろしくなる。
「私はよく知らないけれど、1000年ほど前に、あの桜の下で死にたいと願って、その通りに亡くなった歌聖がいたんだそうよ。それに憧れて、大勢の人があの桜の下で死を選ぶうちに、人を死に誘う妖怪桜になったんだって、確か妖忌が昔言ってたわね~」
――桜の下で死にたいと願い、その通りに亡くなった歌聖?
ああ、と私は頷く。そうか、だから西行妖なのか。
願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ――そう、西行法師の最も有名な歌のひとつだ。西行妖の名前は、そこから来ているに違いない。西行法師が入寂したという弘川寺の桜が妖怪桜となったのか……しかし、なぜそれがこの冥界にあるのだろう。あの白玉楼が弘川寺なのか? しかし私たちの時代にも弘川寺は現存していたはずだし――。
私が考え込んでいると、入れ替わりにまた蓮子が口を開く。
「ようき、というのはどなたです?」
「祖父です。魂魄妖忌と言います」
答えたのは妖夢さんだった。
「祖父は今は頓悟してどこかに姿を消してしまいましたが、それまで300年ほど、この白玉楼で私の先代の庭師を務めていたそうです。――1000年ほど前に、西行妖が満開になったときのことも見たことがあると、昔聞いた覚えがあります。それはそれは凄い桜だったと」
「妖忌は、妖夢と違って頼りになる従者だったけど、堅物すぎて私はちょっと苦手だったわね~。今はどこでどうしてるのかしら」
「幽々子様ぁ、そんなぁ」
妖夢さんが情けない声をあげる。妖夢さんと違って――って、それはつまり妖夢さんが頼りにならないということか。なんともはや。
「その妖忌さんは幽霊だったんですか?」
「え? いえ、祖父も私と同じ半人半霊ですよ」
蓮子の問いに、妖夢さんはきょとんと目を見開いて答える。蓮子がまた難しい顔をして首を傾げた。相棒はいったい何をそんなに考え込んでいるのだろう。紅霧異変のときのパチュリーさんたちと違って、幽々子さんたちは随分と情報をオープンにしてくれていると思うが。
「半人半霊、ね」
と、それまで黙っていたアリスさんが不意に立ち上がり、妖夢さんに歩み寄った。
「な、なんですか」
「貴方、人間と幽霊とどっちが本体なの?」
「え、いや、どっちも本体です。半人半霊ですから」
「じゃあ、こっちの霊体にも意志があるのね?」
「ええ、まあ……」
「でも、意思表示の主体は人間の方よね」
「そ、それはまあ、幽霊の方は喋れませんし」
「なるほど――」
と、アリスさんが妖夢さんの半霊に手を伸ばし、むぎゅっと捕まえた。触れるのかそれ。と、背筋でも撫でられたように、妖夢さんが「ふひゃあ!?」と身体を震わせて悲鳴をあげる。
「かっ、勝手に触らないでください!」
「あら、ごめんなさい。感覚は共有されてるのね」
「な、なんなんですか、さっきから」
アリスさんが半霊から手を放し、妖夢さんは涙目で刀の柄に手を掛ける。
「あらあら妖夢、今のは簡単に半霊に触られるぐらい隙だらけの妖夢が悪いわよ~」
「う……」
「妖忌なら、常にピリピリした殺気を漂わせて、近づけさせもしなかったでしょうね~。私でも妖忌に気付かれずに近付くことはできなかったもの~」
「ううう……精進します」
がっくり肩を落としてうなだれる妖夢さん。と、蓮子が顔を上げて幽々子さんを見やった。
「お嬢様――西行妖についての古い記録というのを、後で拝見してもよろしいですかね?」
―15―
たらふくお団子を食べて満足したらしく、その後ほどなくしてお花見はお開きとなった。幽々子さんは明らかに食べる方に情熱を注いでいた気がするが、花より団子なのか、単に本人の言う通り普通の桜が見飽きているだけなのか。
アリスさんは「私は先に休むわ」と言ってあてがわれた客間に引っ込んでいった。それを見送って、私たちは妖夢さんの案内で白玉楼の書庫に向かう。
「……そういえば、アリスさんはどうして帰ろうとしないのかしら? 前にもここに来たことがあるっていうことは、帰れるはずよね。今回は無理矢理連れて来られたようなものなのに」
「アリスさんにも、何か目的があるんでしょうね。客人扱いしてもらえてる現状が、彼女にとって都合がいいんだと思うわ」
私の疑問に、蓮子は帽子を指でくるくると回しながら答える。人形遣いが冥界に何の用があるというのだろう。さっぱり見当も付かない。
「で、一応聞くけど、蓮子は何を考えているの?」
「ん? まあ、いろいろね。まだまだ疑問が疑問を呼ぶ状況だけれど――」
「たとえばどんな?」
「答えると思う?」
「思わないけど、訊いておかないとワトソンとして役目が果たせないじゃない。名探偵にもったいぶる機会を与えてあげるのも助手の役目だわ」
「感心な心がけね。じゃあ思う存分もったいぶらせていただきますわ。――ところで妖夢さん」
「はい?」
前を歩く妖夢さんを、蓮子が呼び止める。
「妖夢さんは、具体的に普段、どんなことをしているんです?」
「え、わ、私ですか? 庭師なので、この白玉楼の庭を見回って、木の剪定をしたり草むしりをしたり、あと侵入者がいれば追い返したり、ですが」
「お嬢様の護衛というわけではないんですか?」
「それも仕事のうちです。まあ、滅多に侵入者なんてありませんが。あと幽々子様への剣術指南も一応……幽々子様が剣を握られたことは一度もありませんが」
それは仕事というのだろうか。まさか、剪定もその腰と背中の刀でやるとか。いやいや。
「じゃあ、私たちは滅多な侵入者だったわけですね」
「……紫様の招かれた客人だと先に教えておいてもらいたかったです」
妖夢さんはため息をつく。危うく斬られかけた身としては、全く、と頷く他ない。
「ところでその、うちの相棒のそっくりさん――妖怪の賢者こと八雲紫さんって、いったいどんな人です? いや、どんな妖怪、と言うべきなのかしら」
蓮子がそう問うと、妖夢さんは目を泳がせて、それから声を潜めた。
「……紫様は今もどこでここの様子を見聞きしているか解らないので、その……」
「壁にミザリー障子にメリーと」
「なによそれ」
「でも、小声になったということは、わりと困った人みたいですね」
蓮子も声を潜める。妖夢さんは小さく頷いて、ため息のように息を吐いた。
「幽々子様以上に何を考えておられるのか解らない方ですので、その。いつも予告なく現れていつの間にかいなくなりますし、人を煙に巻くようなことばかり仰いますし……まあ、基本的にはここには幽々子様と宴会をするためだけに来ているようですが」
「藍さんは?」
「九尾の式神ですか。一緒だったりそうでなかったりしますね。彼女の方が話が通じるので、いてくれた方がありがたいんですけれど」
阿求さんと同じことを言う妖夢さんである。まあ、確かに藍さんは私たちが接した限りでも話の解る相手のようだが。奔放な主人の下の従者同士、気が合うのかもしれない。
ふとそこで、私も確認したいことを思いついて、妖夢さんに声を掛ける。
「……あの、妖夢さん」
「今度は何ですか」
「いえ、私のそっくりさんのことなんですけど……私たちがここに飛ばされたとき、突然空間に大きな結界の裂け目が生じて、そこに呑み込まれたんだけど、あれは――」
「ああ、それは間違いなく紫様の仕業です。紫様は境界を操る妖怪ですので」
「――境界を操る?」
蓮子が目を見開いて、私の方を見やる。私も思わず自分の目に手を当てた。
結界の裂け目を見つける、私のこの目。私たち秘封倶楽部は、それによって結界の向こう側を覗き見るオカルトサークルだったわけだが――この世界の私のそっくりさんが、境界そのものを操る妖怪だというのは、いったいどういう因果の為せる技なのだ?
「……ねえメリー」
「なに、蓮子」
蓮子は思い切り声を潜めて、耳打ちするように私に囁いた。
「実はその妖怪の賢者ってメリー本人だったりしない?」
「は? そんなことあるわけないじゃない。だいたい私は蓮子と一緒に去年ここに来たのよ」
「でも、夢の中で数百年前の竹林を彷徨ったりしてたんでしょう?」
「それは――だとしても、私はちゃんとここにいるわ」
「そうねえ……タイムスリップして過去もしくは未来の自分と出会うっていうのは、さすがに前世紀の時間SFだわ。広瀬正の時代じゃないんだから」
蓮子が頭を掻く。しかし実際、私たちはこの幻想郷に来るときに80年以上前にタイムスリップしているわけだし、私が夢の中で書いたメモが数百年前に発見されて稗田家に保管されていたりするわけで――。
「いやでも、これはちょっと私たちがこの世界にやって来た原因の根幹に関わるかもしれないわね。メリーのそっくりさんで、メリーの境界視の発展形みたいな能力を持ってるとすれば、それこそメリーの縁者なり前世なりを想定すべきだわ」
「そんなこと言われても……」
「考えることが一気に増えたわねえ。――さすがに思考のリソースが足りないわ。妖怪の賢者のことはちょっと置いておきましょ。私たちに直接干渉してきたってことは、そのうち本格的にコンタクトがあるかもしれないし」
勝手に話を打ち切られてしまい、私は宙ぶらりんな気分のまま放り出される。というか、阿求さんも藍さんも妖怪の賢者の能力について教えてくれれば良かったのに――いや、聞かなかった私たちが悪いのだけれども。
私は自分の目元を撫でて、息を吐く。いつからこの目に、世界の裂け目が見えるようになったのだったか、今となってはもう思い出せない。ただ、私にとっては世界のつぎはぎと、その向こう側の不思議なものが見えることは、幼い頃から当たり前のことだった。他人にはそれが見えないことに気付いてからは、ずっと隠し通してきた。家族にさえも。
蓮子だけだ。私の境界視を羨ましいと言ってくれたのは。
冗談めかして、気持ち悪い目なんても言うけれど、いつだったか月旅行についての話をしたとき、不思議な世界がたくさん見えて羨ましい――と言った、そっちの方が、たぶん蓮子の本心なのだと思う。だから私たちは、京都で、あるいは旅先で、結界の裂け目を探し歩き、それを蓮子の目に触れることで共有してきたのだけれども――。
いったい、どうして私にこんな能力が備わったのだろう?
考えても詮無いことだと、とうの昔に捨て去った疑問が、また鎌首をもたげる。私がこんな目を持って生まれたことには、何か意味があったのか。この幻想郷に来るという意味が? あのとき、宇佐見菫子さんの部屋でこの世界に私たちを導いたのも、私のそっくりさんの妖怪の仕業なのだとしたら――この因果は、いったいどこに収束しようとしているのか。そもそも始まりはどこなのか。私は――。
「こちらです」
と、妖夢さんが足を止め、私は我に返った。がらがらと妖夢さんが開けた引き戸の奧は、和綴じの古い書物が雑然と並んだ薄暗い書庫である。鈴奈庵や、前に一度見せてもらったことのある稗田家の書庫、あるいは寺子屋の資料室のようだった。
「暗いので気をつけてください」
持ってきていたランプに明かりを灯し、中に入る。私たちも後に続いた。古い紙の匂いがぷんと鼻を突く。いったいここにはどんな記録が収められているのだろう。
「幽々子様は、出しっ放しにしていると仰ってましたが……」
「妖夢さんは読んでないんです? その記録を」
「はい。幽々子様が、『古い記録を見つけたけれど、西行妖に誰かが封印されてるみたいだから、春を集めてきて』と仰られたので、それに従っただけでして――」
なんという漠然とした指示。というか、具体的に春を集めるってどうやったのだろう?
「これかしら?」
と、蓮子が机に開きっぱなしになっていた古い書物を手に取る。相当な年月を閲しているようで、手に取っただけで崩れ落ちそうにも見える。「たぶん」と妖夢さんも頷いた。書庫の中は暗いので、そのまま慎重に持ち出して私たちの客間に持ち込むことにする。幽々子さんの許可は取ってあるし。
「では、おやすみなさい」
私たちを客間まで案内して、妖夢さんは立ち去っていく。ふわふわとその背後で動き回る半霊を見ながら、あの霊体はいったい何なのだろう、自分の半分が浮いているってどういう感覚なんだろう――と考えていると、「メリー、何してるの」と蓮子に呼ばれた。
客間には、既に布団が二枚敷かれている。その一枚に寝転んで、蓮子は行灯の光を頼りに持ち出した書物を睨んでいた。
「何が書いてあるの?」
「うーん、古文書ね。慧音さんがいてくれればすぐ読めるんだろうけど」
やたら博識であるとはいえ、物理屋の相棒には、さすがに古文書は手強いようだ。
「メリー、読める?」
「一応、古文書の読みの基礎は教養課程で習ったけど」
大学一年のときなので、かなり記憶は曖昧である。それでも蓮子と一緒にその記録を覗きこんで、ミミズののたくったような文字に目を凝らす。
「とりあえず、富士見の娘、だっけ? その文字を探しましょう、蓮子」
「そうね。――慧音さんがいれば、文字や文体から年代まで推定できるんでしょうね」
「ついてきてもらえば良かったわね」
ため息をつきながら記録のページをめくっていく。紙が古いので、慎重に扱わないと崩れ落ちてしまいそうだった。
「……あ、あった!」
と、蓮子があるページで指を止める。私もその文字列を見つけて頷いた。確かに《富士見の娘》と読める。どうやらここらしい。私はその文字を追う。かなり字が崩してあるので読み取りにくいが、なんとか推測できる範囲だった。
「ええと、富士見の娘、西行妖満開の時……幽明境……を分かつ、かしら?」
「幽明境を異にする、で死に別れるっていう意味だから、亡くなったってことかしらね」
なるほど。古い言い回しはなかなか典雅である。
「それから……ええと」
そうしてしばしの悪戦苦闘ののち、読み取れたのは以下のような文面だった。
富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ、
その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に転生することを忘れ……
その先はページが破けていた。その文字列を見直し、私たちは顔を見合わせる。
「……ねえ、蓮子。これってどう考えても……」
「そうよね。彼女の話を聞いたときから、もしやとは思っていたけど……」
蓮子は口元に手を当て、唸る。私も読み取れた文面には、困惑するしかなかった。
白玉楼中で、永久に転生することを忘れ安らむ、富士見の娘。
――私たちの知る限り、思い当たる人物はひとりしかいない。
「西行妖に封印されているのは――幽々子さん、本人っていうこと?」
心のうちぞ苦しかりける
―13―
いや、それはただの錯覚に過ぎなかったのかもしれない。
ただ夜桜が風にざわめいたのを、まるで桜そのものが命を持って叫んだかのように、私が感じただけのことだったのだと思う。
けれど――だとしても。
そこに一本だけ佇む桜の巨木は、ひどく歪だった。何が? 解らない。何がおかしいのかは解らないのだけれど、その桜の姿に、どうしてこれほど、恐怖のような、あるいは忌避のような、逃げ出したくなるような怖気を感じるのだろう――。
「あらあら妖夢、お客様?」
――だが、その緊張感は、桜の下に佇んだ少女の、ひどく脳天気な声に打ち破られた。
桜は既に沈黙している。いや、元々音ひとつたてていなかったのかもしれない。
その下に佇んでいたその少女は――パチュリーさんと同じように、地面の上、10センチほどのところに浮いて、滑るようにこちらへと寄ってきた。桜の図柄の、フリルのついた着物という不思議な服装に、頭には――何の冗談なのか、死に装束の三角頭巾のようなデザインの帽子を被っている。柔和な笑みを浮かべたその顔は、レミリア嬢とは違った意味でのお嬢様然とした――おっとりとした箱入り娘のような雰囲気だった。
「幽々子様。怪しい侵入者を発見しましたので――」
「いやいや妖夢。お客様に失礼よ~」
「は? 幽々子様のお知り合いでしたか」
「知り合いの知り合い、かしらね~?」
懐から桜の描かれた扇子を取りだして口元を隠し、そのお嬢様――幽々子さんは笑った。
「紫から話は聞いているわ。そこの人形遣いさんまで一緒だとは聞いていないけれど――まあ、いいでしょう。妖夢、お客様をご案内して差し上げなさい」
「はっ――ええと、では、こちらへどうぞ」
妖夢さんが急に畏まる。何が何だかさっぱり解らず、私たちは顔を見合わせるしかなかった。
かくして案内された白玉楼は、大きな日本屋敷だった。紅魔館の、あの空間拡張による違和感のある広さではなく、物理的にかなり広い。一室が平気で数十畳はありそうだ。
そして、そんな屋敷の中を、白いふわふわとした物体が時折行き交っている。それは妖夢さんの傍らに浮いているのと同じもののようだが――。それぞれがひんやりとした冷気を放っていて、すれ違うとちょっと肌寒い。
「あの……さっきから見えてる白いのって?」
「ん? ああ、幽霊ですよ。これは私の半霊です」
私の問いに、妖夢さんは振り返って、傍らの白いふわふわに手を添える。半霊と呼ばれたふわふわは、にゅるん、と形を変えて妖夢さんの背後に回った。
また別の白い物体が、ふわふわと私たちの近くを横切っていく。あれが――幽霊か。随分と古臭いオバケのイメージが具象化したような存在である。そういえば、ここは成仏や転生を待つ霊が暮らす冥界だと妖夢さんが言っていたが――。
「ここにいるのは、白玉楼の家事を受け持っている幽霊たちです」
「……幽霊に家事ができるんですか」
「ええ、もちろん」
そういうものらしい。幻想郷の理屈は相変わらず計り知れない。
「蓮子、物理学の徒としてはこの幽霊の存在、どう思うの?」
「人間が空を飛ぶ幻想郷の物理法則を科学世紀の物理学で考えても仕方ないけど――幻想郷を、認識の力が物理的な力に転換される世界だと定義すれば、幽霊もその存在が信じられているからこそ存在するのかもしれないわね。こういう話はメリーの方の専門でしょ?」
「そうだけど。なんかすっかり相対性精神主義者に鞍替えしちゃったわね、蓮子」
「この世界で相対性精神学的な考えが物理的に力を持つなら、それを第五の力として考えるのが物理学の徒としての立場というものよ。それより問題は、この幽霊がどういう存在として定義されているかの方だわ。死者の魂なのか、思念の塊なのか、それ以外の何かなのか――幻想郷の死生観にも大きく関わる問題だし、興味深いわ」
目を輝かせて言う蓮子に、私は肩を竦める。と、妖夢さんが襖のひとつを開けて、「こちらへどうぞ」と私たちを促した。ここもまた広々とした和室である。妖夢さんがどこかから座布団を三枚持ってきた。私と蓮子、アリスさんはそこに腰を下ろす。「お茶を用意します」と妖夢さんが部屋を出て行き、私たち三人がそこに残された。
「なんだか妙なことになっちゃったわね」
アリスさんが息を吐く。つい先ほどまで魔法の森にいたはずなのに、気が付けば冥界の屋敷にいるのだから、幻想郷は摩訶不思議である。というか――。
「ねえ、蓮子。私たちがここに飛ばされたときのあれって――」
「――メリーが何を言いたいかは解ってるわよ。大叔母さんの部屋、でしょう?」
私は頷く。そう――魔法の森からこの冥界まで飛ばされたとき、私たちを呑み込んだ、あの奇妙な世界の裂け目。あそこに吸い込まれるように視界が暗転した、あの感覚は――私たちが二一世紀末の京都からこの幻想郷に飛ばされたとき、蓮子の大叔母さん・宇佐見菫子さんの部屋で感じたものと同じものだった。
「つまり、あれは結界の裂け目を超える感覚だったってことよ、メリー」
「……そうなのかしら。だけど、あの裂け目の出現はあまりに唐突だったわ。この幻想郷の結界は安定しているのに――どうしてあんな急に。というか、じゃあここって幻想郷の外?」
「冥界は、厳密に言えば幻想郷の外よ。貴方たちのいた外の世界とはまた別だけれど」
アリスさんがそう口を挟む。蓮子が腑に落ちたような顔で頷いた。
「ということは、幻想郷は、幻想郷だけで独立した世界ではないんですね?」
「そうよ。幻想郷の他に、天界、冥界、彼岸、魔界、地獄といった世界が隣り合っているわ。そもそも私が魔界の出身だしね」
「ははあ。それらも外の世界の私たちから大きなくくりで見れば幻想郷に近い、と」
「そうね。幻想郷から外の世界に出るのは難しいけれど、冥界や魔界と行き来するのはそう難しいことでもないから」
なるほど。私は今まで、幻想郷というのは日本のどこかに結界というドームで覆われた空間がひとつあるのだと思っていたが、正確にはいくつかのドームが隣り合って並んでいるうちのひとつが幻想郷ということなのだろう。そして私たちは今、冥界という別のドームにいるわけだ。ただ外の世界から見れば同じドームの中なので、幻想郷と同じ理屈でこの冥界も動いている――ということなのだろう。たぶん。
しかし、だとしてもどうして私たちはそのドームを区切る結界を急に超えてしまったのだろうか。まるで誰かの意志が介入しているかのように――。
「しかし、いずれにしても興味深いことだらけだわ、ここは。幻想郷から春を奪っているのは、どうやらあのお嬢様が犯人みたいだけれど、いったい何の目的で春を集めているのか。そして、私たちをここに導いた何者かは、私たちに何をさせようとしているのか――」
「何者かって……」
「魔法の森からここに飛ばされたのは、誰かの意志に決まってるじゃない。たぶん、噂のメリーのそっくりさん、妖怪の賢者だわ。さっきのお嬢様が、『紫から話は聞いている』って言っていたしね」
なるほど道理である。しかし、藍さんの話だと冬眠しているということだったと思うが。いや、冥界が春なので起きたのだろうか? それなら妖怪の賢者も冥界に住んでいるのか。
「ということは、蓮子。私たちは妖怪の賢者に監視されてたっていうこと?」
「おそらくね。藍さんから報告が入ったんだと思うわ。人間の里にそっくりさんがいるってね」
「――つまり、私のせい?」
「向こうも、メリーのことが気になったんじゃないの? というか、今もどこかで見てるのかもしれないわね。おーい、妖怪の賢者さーん。見てますかー。イェーイ」
蓮子が声をあげてピースをする。恥ずかしいからやめてほしい。というか何かテンションがおかしくないか。この冥界の陽気にあてられたのだろうか。
「……何をやってるんですか」
「おっとこれは失礼」
呆れた声がかかり振り返ると、妖夢さんがお茶を持ってきていた。と、その背後から先ほどのお嬢様、幽々子さんがゆったりとした動作で姿を現す。相変わらず、床上数センチに浮いたまま滑ってくる姿はいささかシュールだ。
「どうぞ」
妖夢さんからお茶を受け取る。冥界の食べ物を口にしたら現世に戻れなく……なったりは、さすがにしないだろう。たぶん。以前、紅魔館で貰ったクッキーを外の世界の京都で食べたときも大丈夫だったし。
「さてさて、紫たち以外の生身のお客様なんて随分と久しぶりだわ~」
私たちの向かいに幽々子さんは悠然と腰を下ろし、その斜め後ろに妖夢さんが控える。幽々子さんは目を細めて私たちを見回し、私に目を留めてひとつ頷いた。
「自己紹介は結構。紫から聞いているわ。紫が何のために貴方たちを連れてきたのかは知らないけれど、客人として扱うように言われているから、ゆっくりくつろいで頂戴ね。そこの人形遣いさんは招かれざる客のようだけれど、まあいいわ~」
「――お気遣い痛み入りますわ」
アリスさんが少し憮然としたような顔で頭を下げる。幽々子さんはまた扇子で口元を隠しながら微笑んだ。間延び気味のしゃべり方といい、いまひとつ緊張感に欠けるお嬢様である。
「そちらの名探偵さんは、色々と聞きたいことがありそうね~?」
と、幽々子さんは蓮子に向き直る。蓮子は頷いて、猫のような笑みを浮かべた。
「それはもう、山ほど」
「全てに答えていたら朝になりそうな顔ね~。まあ、退屈しのぎには丁度いいかもしれないけれど。――ああ、私の自己紹介がまだだったわね。私は西行寺幽々子。この白玉楼の主で、冥界の管理者をしているわ。管理者といっても、特にすることは何もないんだけどね~」
「――お嬢様も、幽霊なんですか?」
「ええ、そう考えてくれて結構よ~。もう長いこと亡霊をやっているわ」
「成仏なさらないんです?」
「それができないから、冥界の管理者なんてやってるのよ~」
幽々子さんはため息をつく。何か、この世に強い未練でも残しているのだろうか。蓮子も同じことを思ったのか、「何か未練でも?」と首を傾げる。
「さてね~。生きてた頃のことはさっぱり覚えてないから、それも解らないの。まあ、別に成仏したいわけでもないから、いいんだけどね~」
随分あっけらかんと暢気な亡霊である。亡霊がみんなこんな調子なら、生者が祟られることもあるまいに。
「そうですか。もしお嬢様が望まれるのでしたら、お嬢様の未練の源の調査も請け負いますけれど。こちら探偵事務所をやってますので」
「あらあら、売り込み~?」
「冥界に囚われたお嬢様の未練探し、なかなか魅力的な謎ですわ。その気になりましたら是非、人間の里の《秘封探偵事務所》にお申し付けを。外来の頭脳にお任せくださいな」
完璧な営業スマイルで売り込みをかける我らが所長。冥界の亡霊に人間の里の事務所を売り込んでも仕方ないと思うのだが。
そんな蓮子に、幽々子さんは楽しげに笑い声をあげる。
「面白い人間ね~。紫が気に入るわけだわ」
「妖怪の賢者さんとは?」
「古い友人よ~。私が生きてた頃からの。私は覚えてないけどね~」
「なるほど。私たちをここに連れてきたのも、その妖怪の賢者さんのようですけれど。いったい私たちは何のためにここに招かれたのでしょう?」
「さてね~。紫のすることは、ときどき私にもよくわからないわ。そこのそっくりさんといい、何か紫にとって重大な意味があるんでしょうけどね~」
そんなことを言われても、私には全く心当たりがないのだけれども。
「意味といえば、お嬢様方が冥界に春を集めていらっしゃるのは何のためにでしょう?」
と、蓮子が唐突に身を乗り出して核心に切り込む。蓮子としては不意打ちのつもりだったのだろうが、幽々子さんは悠然と微笑んでそれを受け流した。
「桜を咲かせるため、よ」
「桜というと――先ほどお嬢様が見上げておられた、あの巨木ですか?」
「そう。うちの自慢の妖怪桜」
ぱちん、と扇子を閉じて、幽々子さんは小首を傾げる。
不意に――その笑みに、人外の凄絶さを感じ取って、私は息を飲んだ。
目の前にいるのが、不意に人間以外の存在であると突きつけられたかのようで、背筋に冷たいものが走り抜ける。私たちなど、その指を少し動かすだけで、文字通りこの冥界の住人に変えられるのだと言わんばかりの、酷薄たる笑み――。
「――あの桜を咲かせるのには、この程度の春じゃ足りないの。もっともっとたくさんの春を集めなければ、あの西行妖は、満開にはならないから」
「……西行妖?」
「ああ、貴方たち生身の人間は、西行妖には近付かない方がいいわね~」
幽々子さんは、扇子を私たちに突きつけて、笑顔のまま告げる。
「――死に、誘われるから」
―14―
話の続きはお酒でも飲みながらにしましょう、と幽々子さんが言い、なぜか夜桜見物の宴会が始まってしまった。先ほども通ってきた満開の桜並木に茣蓙を敷き、妖夢さんが酒とつまみを運んでくる。
ぼんやりとした月明かりに照らされた満開の桜。その姿は、梶井基次郎や坂口安吾が幻視したような怖ろしさと、それ故の美しさをたたえて、静かに風にそよいでいる。
「西行妖はまだ満開にならないけど、このあたりはちょうど見頃ね~」
「幽々子様、食べ過ぎないでくださいね」
お団子を頬張る幽々子さんに、妖夢さんが呆れたように声をかける。亡霊も食事をするらしい。頬を膨らませてもぐもぐとお団子を咀嚼する幽々子さんの姿には、紅魔館のお嬢様以上に威厳も何もあったものではない。
「お嬢様。なぜその西行妖を満開にしようとするんですか? 単に花見のためです?」
注がれたお酒の杯を傾けながら、蓮子がそう問う。京都では飲んだことのない、不思議な甘みのあるとろりとしたお酒だった。あまり日本酒は得意でないのだが、これは美味しい。私もついつい杯に手が伸びてしまう。アリスさんは隅で静かにお酒を飲んでいた。
「あの西行妖はね~、私の覚えている限りで一度も満開になったことがないの」
ごくん、とお団子を呑み込んで、幽々子さんが答えた。
「だから、一度ぐらい満開の姿を見てみたいじゃない?」
「――それだけです?」
「あら、貴方がそれを知ってどうするのかしら?」
不意に幽々子さんは目を細めて蓮子を見つめた。その肩越しに、ふわりと光る蝶が舞いあがる。蝶はひらひらと夜の闇に舞い、桜の花の中に溶けるように消えた。いまのは蝶の幽霊なのだろうか。それとも何か別の――。
「いえ、単に好奇心ですわ。この見事な桜並木を見ていると、お花見だけならここで十分ではないかと思いまして」
「私にとっては、もう何百年も見慣れた桜並木よ~。まあ、特に隠す意味もないから答えてあげてもいいけれど――」
と、幽々子さんは立ち上がり、桜の一本の幹に手を触れた。
「あの西行妖には、何者かの亡骸が封印されているようなの」
「――封印?」
「そう。そのせいで西行妖が満開にならないのだとすれば、満開にすればその何者かが復活するんじゃないかと思ってね~」
「何者か――って、お嬢様のお知り合いとかではないんですか?」
「さあ、誰なのかしら。見つけた古い記録にはただ〝富士見の娘〟としかなかったから」
「不死身? 不老不死ですか。八百比丘尼とか」
「そっちじゃなくて、富士を見る方を富士見よ~。不死身との掛詞でしょうけどね」
「富士見の娘――ですか」
蓮子が眉を寄せて、何事かを考え込む。相棒が何に引っかかっているのか、私にはわからないが、ともかく蓮子が黙ってしまったので、私が代わりに口を開いた。
「あの……そもそも西行妖というのは、妖怪桜ということですけど、いったいどんな……」
「文字通り、人を死に誘う桜よ~」
そんな物騒なことをさらっと言わないでほしい。さっき、その西行妖をすぐ見上げるところまで近付いたことが今更ながらに怖ろしくなる。
「私はよく知らないけれど、1000年ほど前に、あの桜の下で死にたいと願って、その通りに亡くなった歌聖がいたんだそうよ。それに憧れて、大勢の人があの桜の下で死を選ぶうちに、人を死に誘う妖怪桜になったんだって、確か妖忌が昔言ってたわね~」
――桜の下で死にたいと願い、その通りに亡くなった歌聖?
ああ、と私は頷く。そうか、だから西行妖なのか。
願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ――そう、西行法師の最も有名な歌のひとつだ。西行妖の名前は、そこから来ているに違いない。西行法師が入寂したという弘川寺の桜が妖怪桜となったのか……しかし、なぜそれがこの冥界にあるのだろう。あの白玉楼が弘川寺なのか? しかし私たちの時代にも弘川寺は現存していたはずだし――。
私が考え込んでいると、入れ替わりにまた蓮子が口を開く。
「ようき、というのはどなたです?」
「祖父です。魂魄妖忌と言います」
答えたのは妖夢さんだった。
「祖父は今は頓悟してどこかに姿を消してしまいましたが、それまで300年ほど、この白玉楼で私の先代の庭師を務めていたそうです。――1000年ほど前に、西行妖が満開になったときのことも見たことがあると、昔聞いた覚えがあります。それはそれは凄い桜だったと」
「妖忌は、妖夢と違って頼りになる従者だったけど、堅物すぎて私はちょっと苦手だったわね~。今はどこでどうしてるのかしら」
「幽々子様ぁ、そんなぁ」
妖夢さんが情けない声をあげる。妖夢さんと違って――って、それはつまり妖夢さんが頼りにならないということか。なんともはや。
「その妖忌さんは幽霊だったんですか?」
「え? いえ、祖父も私と同じ半人半霊ですよ」
蓮子の問いに、妖夢さんはきょとんと目を見開いて答える。蓮子がまた難しい顔をして首を傾げた。相棒はいったい何をそんなに考え込んでいるのだろう。紅霧異変のときのパチュリーさんたちと違って、幽々子さんたちは随分と情報をオープンにしてくれていると思うが。
「半人半霊、ね」
と、それまで黙っていたアリスさんが不意に立ち上がり、妖夢さんに歩み寄った。
「な、なんですか」
「貴方、人間と幽霊とどっちが本体なの?」
「え、いや、どっちも本体です。半人半霊ですから」
「じゃあ、こっちの霊体にも意志があるのね?」
「ええ、まあ……」
「でも、意思表示の主体は人間の方よね」
「そ、それはまあ、幽霊の方は喋れませんし」
「なるほど――」
と、アリスさんが妖夢さんの半霊に手を伸ばし、むぎゅっと捕まえた。触れるのかそれ。と、背筋でも撫でられたように、妖夢さんが「ふひゃあ!?」と身体を震わせて悲鳴をあげる。
「かっ、勝手に触らないでください!」
「あら、ごめんなさい。感覚は共有されてるのね」
「な、なんなんですか、さっきから」
アリスさんが半霊から手を放し、妖夢さんは涙目で刀の柄に手を掛ける。
「あらあら妖夢、今のは簡単に半霊に触られるぐらい隙だらけの妖夢が悪いわよ~」
「う……」
「妖忌なら、常にピリピリした殺気を漂わせて、近づけさせもしなかったでしょうね~。私でも妖忌に気付かれずに近付くことはできなかったもの~」
「ううう……精進します」
がっくり肩を落としてうなだれる妖夢さん。と、蓮子が顔を上げて幽々子さんを見やった。
「お嬢様――西行妖についての古い記録というのを、後で拝見してもよろしいですかね?」
―15―
たらふくお団子を食べて満足したらしく、その後ほどなくしてお花見はお開きとなった。幽々子さんは明らかに食べる方に情熱を注いでいた気がするが、花より団子なのか、単に本人の言う通り普通の桜が見飽きているだけなのか。
アリスさんは「私は先に休むわ」と言ってあてがわれた客間に引っ込んでいった。それを見送って、私たちは妖夢さんの案内で白玉楼の書庫に向かう。
「……そういえば、アリスさんはどうして帰ろうとしないのかしら? 前にもここに来たことがあるっていうことは、帰れるはずよね。今回は無理矢理連れて来られたようなものなのに」
「アリスさんにも、何か目的があるんでしょうね。客人扱いしてもらえてる現状が、彼女にとって都合がいいんだと思うわ」
私の疑問に、蓮子は帽子を指でくるくると回しながら答える。人形遣いが冥界に何の用があるというのだろう。さっぱり見当も付かない。
「で、一応聞くけど、蓮子は何を考えているの?」
「ん? まあ、いろいろね。まだまだ疑問が疑問を呼ぶ状況だけれど――」
「たとえばどんな?」
「答えると思う?」
「思わないけど、訊いておかないとワトソンとして役目が果たせないじゃない。名探偵にもったいぶる機会を与えてあげるのも助手の役目だわ」
「感心な心がけね。じゃあ思う存分もったいぶらせていただきますわ。――ところで妖夢さん」
「はい?」
前を歩く妖夢さんを、蓮子が呼び止める。
「妖夢さんは、具体的に普段、どんなことをしているんです?」
「え、わ、私ですか? 庭師なので、この白玉楼の庭を見回って、木の剪定をしたり草むしりをしたり、あと侵入者がいれば追い返したり、ですが」
「お嬢様の護衛というわけではないんですか?」
「それも仕事のうちです。まあ、滅多に侵入者なんてありませんが。あと幽々子様への剣術指南も一応……幽々子様が剣を握られたことは一度もありませんが」
それは仕事というのだろうか。まさか、剪定もその腰と背中の刀でやるとか。いやいや。
「じゃあ、私たちは滅多な侵入者だったわけですね」
「……紫様の招かれた客人だと先に教えておいてもらいたかったです」
妖夢さんはため息をつく。危うく斬られかけた身としては、全く、と頷く他ない。
「ところでその、うちの相棒のそっくりさん――妖怪の賢者こと八雲紫さんって、いったいどんな人です? いや、どんな妖怪、と言うべきなのかしら」
蓮子がそう問うと、妖夢さんは目を泳がせて、それから声を潜めた。
「……紫様は今もどこでここの様子を見聞きしているか解らないので、その……」
「壁にミザリー障子にメリーと」
「なによそれ」
「でも、小声になったということは、わりと困った人みたいですね」
蓮子も声を潜める。妖夢さんは小さく頷いて、ため息のように息を吐いた。
「幽々子様以上に何を考えておられるのか解らない方ですので、その。いつも予告なく現れていつの間にかいなくなりますし、人を煙に巻くようなことばかり仰いますし……まあ、基本的にはここには幽々子様と宴会をするためだけに来ているようですが」
「藍さんは?」
「九尾の式神ですか。一緒だったりそうでなかったりしますね。彼女の方が話が通じるので、いてくれた方がありがたいんですけれど」
阿求さんと同じことを言う妖夢さんである。まあ、確かに藍さんは私たちが接した限りでも話の解る相手のようだが。奔放な主人の下の従者同士、気が合うのかもしれない。
ふとそこで、私も確認したいことを思いついて、妖夢さんに声を掛ける。
「……あの、妖夢さん」
「今度は何ですか」
「いえ、私のそっくりさんのことなんですけど……私たちがここに飛ばされたとき、突然空間に大きな結界の裂け目が生じて、そこに呑み込まれたんだけど、あれは――」
「ああ、それは間違いなく紫様の仕業です。紫様は境界を操る妖怪ですので」
「――境界を操る?」
蓮子が目を見開いて、私の方を見やる。私も思わず自分の目に手を当てた。
結界の裂け目を見つける、私のこの目。私たち秘封倶楽部は、それによって結界の向こう側を覗き見るオカルトサークルだったわけだが――この世界の私のそっくりさんが、境界そのものを操る妖怪だというのは、いったいどういう因果の為せる技なのだ?
「……ねえメリー」
「なに、蓮子」
蓮子は思い切り声を潜めて、耳打ちするように私に囁いた。
「実はその妖怪の賢者ってメリー本人だったりしない?」
「は? そんなことあるわけないじゃない。だいたい私は蓮子と一緒に去年ここに来たのよ」
「でも、夢の中で数百年前の竹林を彷徨ったりしてたんでしょう?」
「それは――だとしても、私はちゃんとここにいるわ」
「そうねえ……タイムスリップして過去もしくは未来の自分と出会うっていうのは、さすがに前世紀の時間SFだわ。広瀬正の時代じゃないんだから」
蓮子が頭を掻く。しかし実際、私たちはこの幻想郷に来るときに80年以上前にタイムスリップしているわけだし、私が夢の中で書いたメモが数百年前に発見されて稗田家に保管されていたりするわけで――。
「いやでも、これはちょっと私たちがこの世界にやって来た原因の根幹に関わるかもしれないわね。メリーのそっくりさんで、メリーの境界視の発展形みたいな能力を持ってるとすれば、それこそメリーの縁者なり前世なりを想定すべきだわ」
「そんなこと言われても……」
「考えることが一気に増えたわねえ。――さすがに思考のリソースが足りないわ。妖怪の賢者のことはちょっと置いておきましょ。私たちに直接干渉してきたってことは、そのうち本格的にコンタクトがあるかもしれないし」
勝手に話を打ち切られてしまい、私は宙ぶらりんな気分のまま放り出される。というか、阿求さんも藍さんも妖怪の賢者の能力について教えてくれれば良かったのに――いや、聞かなかった私たちが悪いのだけれども。
私は自分の目元を撫でて、息を吐く。いつからこの目に、世界の裂け目が見えるようになったのだったか、今となってはもう思い出せない。ただ、私にとっては世界のつぎはぎと、その向こう側の不思議なものが見えることは、幼い頃から当たり前のことだった。他人にはそれが見えないことに気付いてからは、ずっと隠し通してきた。家族にさえも。
蓮子だけだ。私の境界視を羨ましいと言ってくれたのは。
冗談めかして、気持ち悪い目なんても言うけれど、いつだったか月旅行についての話をしたとき、不思議な世界がたくさん見えて羨ましい――と言った、そっちの方が、たぶん蓮子の本心なのだと思う。だから私たちは、京都で、あるいは旅先で、結界の裂け目を探し歩き、それを蓮子の目に触れることで共有してきたのだけれども――。
いったい、どうして私にこんな能力が備わったのだろう?
考えても詮無いことだと、とうの昔に捨て去った疑問が、また鎌首をもたげる。私がこんな目を持って生まれたことには、何か意味があったのか。この幻想郷に来るという意味が? あのとき、宇佐見菫子さんの部屋でこの世界に私たちを導いたのも、私のそっくりさんの妖怪の仕業なのだとしたら――この因果は、いったいどこに収束しようとしているのか。そもそも始まりはどこなのか。私は――。
「こちらです」
と、妖夢さんが足を止め、私は我に返った。がらがらと妖夢さんが開けた引き戸の奧は、和綴じの古い書物が雑然と並んだ薄暗い書庫である。鈴奈庵や、前に一度見せてもらったことのある稗田家の書庫、あるいは寺子屋の資料室のようだった。
「暗いので気をつけてください」
持ってきていたランプに明かりを灯し、中に入る。私たちも後に続いた。古い紙の匂いがぷんと鼻を突く。いったいここにはどんな記録が収められているのだろう。
「幽々子様は、出しっ放しにしていると仰ってましたが……」
「妖夢さんは読んでないんです? その記録を」
「はい。幽々子様が、『古い記録を見つけたけれど、西行妖に誰かが封印されてるみたいだから、春を集めてきて』と仰られたので、それに従っただけでして――」
なんという漠然とした指示。というか、具体的に春を集めるってどうやったのだろう?
「これかしら?」
と、蓮子が机に開きっぱなしになっていた古い書物を手に取る。相当な年月を閲しているようで、手に取っただけで崩れ落ちそうにも見える。「たぶん」と妖夢さんも頷いた。書庫の中は暗いので、そのまま慎重に持ち出して私たちの客間に持ち込むことにする。幽々子さんの許可は取ってあるし。
「では、おやすみなさい」
私たちを客間まで案内して、妖夢さんは立ち去っていく。ふわふわとその背後で動き回る半霊を見ながら、あの霊体はいったい何なのだろう、自分の半分が浮いているってどういう感覚なんだろう――と考えていると、「メリー、何してるの」と蓮子に呼ばれた。
客間には、既に布団が二枚敷かれている。その一枚に寝転んで、蓮子は行灯の光を頼りに持ち出した書物を睨んでいた。
「何が書いてあるの?」
「うーん、古文書ね。慧音さんがいてくれればすぐ読めるんだろうけど」
やたら博識であるとはいえ、物理屋の相棒には、さすがに古文書は手強いようだ。
「メリー、読める?」
「一応、古文書の読みの基礎は教養課程で習ったけど」
大学一年のときなので、かなり記憶は曖昧である。それでも蓮子と一緒にその記録を覗きこんで、ミミズののたくったような文字に目を凝らす。
「とりあえず、富士見の娘、だっけ? その文字を探しましょう、蓮子」
「そうね。――慧音さんがいれば、文字や文体から年代まで推定できるんでしょうね」
「ついてきてもらえば良かったわね」
ため息をつきながら記録のページをめくっていく。紙が古いので、慎重に扱わないと崩れ落ちてしまいそうだった。
「……あ、あった!」
と、蓮子があるページで指を止める。私もその文字列を見つけて頷いた。確かに《富士見の娘》と読める。どうやらここらしい。私はその文字を追う。かなり字が崩してあるので読み取りにくいが、なんとか推測できる範囲だった。
「ええと、富士見の娘、西行妖満開の時……幽明境……を分かつ、かしら?」
「幽明境を異にする、で死に別れるっていう意味だから、亡くなったってことかしらね」
なるほど。古い言い回しはなかなか典雅である。
「それから……ええと」
そうしてしばしの悪戦苦闘ののち、読み取れたのは以下のような文面だった。
富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ、
その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に転生することを忘れ……
その先はページが破けていた。その文字列を見直し、私たちは顔を見合わせる。
「……ねえ、蓮子。これってどう考えても……」
「そうよね。彼女の話を聞いたときから、もしやとは思っていたけど……」
蓮子は口元に手を当て、唸る。私も読み取れた文面には、困惑するしかなかった。
白玉楼中で、永久に転生することを忘れ安らむ、富士見の娘。
――私たちの知る限り、思い当たる人物はひとりしかいない。
「西行妖に封印されているのは――幽々子さん、本人っていうこと?」
第2章 妖々夢編 一覧
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ゆゆさまののほほんとした態度が微笑ましいです。次回も楽しみにしております。
面白くなってまいりました!
紫様がどういう行動をとるのかとても楽しみです!
しかし、何故「誰が封印されてるか分からない」みたいな言い方をしたのかも気になりますね。言い方はアレにしても、蓮子やメリーに気付ける事を幽々子様が気付かない筈も無かろうに、、、