さびしさに堪へたる人のまたもあれな
庵ならべむ冬の山里
―4―
「や、八雲藍さん?」
「おや。阿求殿からかな? どうも、ハーンさんと言いましたか。八雲藍です」
道士服の袖に相互に手を入れた、中国っぽいあのポーズで、藍さんは頭を下げる。その拍子に背中の尻尾がゆらゆらと揺れ、私の理性が揺さぶられる。ああ、夢にまでみたあの尻尾が、黄金のモフモフが目の前に! 触りたい! 抱きつきたい! あの中に埋もれたい! 今すぐに! 全てを投げ捨てて!
だがそんな私の衝動は、背後であがった子供たちの歓声に遮られる。
「おわ、妖怪だ!」
「あの尻尾すげえー」
「うごいた! あのモフモフのうごいた!」
「お布団みたいで気持ちよさそう……」
集まってきた子供たちが、藍さんの尻尾を興味津々の顔で見つめる。
「あ、あの、いったいどうしてここへ?」
「この寺子屋で読み書きや算術を教えていると言ったのは君たちだろう。少々気になったので、覗きに来てみたのだが。お邪魔してしまったなら申し訳ない」
「い、いえ……」
と、私が困惑している隙に、子供たちが雪崩を打って藍さんの尻尾へ向けて突進し始めた。ゆらゆらと揺れる尻尾に、何人かの子供が飛びつこうとするが――その手や身体は、見えない壁に阻まれ、尻尾には届かない。
「あ、あれ? さわれない……」
ぺたぺたと、尻尾の前にある見えない壁を触りながら子供たちが首を傾げる。藍さんはそれには構わず、教室を覗きこむ。
「読み書きの授業中だったかな?」
「あ、はい」
「算学を教えているのは――」
「私です」
蓮子が手を挙げる。「ほうほう」と藍さんは興味深げに頷いた。
「算学の授業は」
「今日はお昼の後の3時間目ですけど――」
「では、その授業を後で見学させてくれないか。私は数学が得意でね。里の人間にどんな算学を教えているのか、興味があるんだ」
藍さんの言葉に、理論物理学専攻の蓮子の目が光った。
「それはそれは。是非とも――と言いたいですが、慧音さんが何と言うか……」
蓮子が首を傾げたところへ、「何の騒ぎだ?」と当の慧音さんが資料部屋から顔を出した。慧音さんは藍さんの姿を見て目を丸くする。
「……見覚えのある尻尾だと思ったら、豆腐屋の常連の狐じゃないか。なぜこんなところに」
「貴方が、この寺子屋の代表の上白沢慧音氏でしょうか」
「あ、ああ――」
「ご挨拶が遅れました。八雲藍と申します。里で行われている人間への教育というものに興味がありまして、見学をお許しいただけないでしょうか」
思い切り下手に出た藍さんの態度に、意表を突かれたように慧音さんは目をしばたたかせる。
「きゅ、急にそんなことを言われてもな。妖怪が近くにいて、子供たちが授業に集中できなくなっては――」
「そこは、お邪魔になるようなら気配を消しておりますので、是非に。この後の算学の授業だけでも結構ですので」
「……子供たちに対して害意はないと誓ってもらおう」
「それはもちろん。里の人間は襲ってはならない、幻想郷のルールは弁えています。里に出入りできなくなっては、油揚げも買えないしきつねそばも食べられない。それは困りますからね」
「――――」
飄々とした藍さんの言葉に、慧音さんは肩を竦めて蓮子を見やる。
「算学の担当は蓮子、君だ。――君はどうだ?」
「あ、私は一向に構いませんわ。というか色々お話したいので是非に」
「――なら、私から言うことはない。ただ、私も同席させてもらう。それでいいか」
「ええ、もちろん」
慇懃に頭を下げる藍さんに、慧音さんは警戒した態度のまま頷き、子供たちは相変わらず藍さんの尻尾の周囲にまとわりつき、蓮子は楽しげな笑みを浮かべ、私は息を吐き出した。
周囲のおかげであの尻尾を見ても理性を失わずに済んでいるが、おかげですっかり私は蚊帳の外である。こうなったらあとで何とか頼み込んで、必要なら土下座してでもモフられてもらおう。こっそりと、私はそう決意するのだった。
結局、私の読み書きの授業はその後グダグダのままに終わり、昼休みを挟んで3時間目の蓮子の算学へバトンタッチする。私は慧音さんと、教室の後ろで見学していた。藍さんは気配を消しているらしく、意識してもどこにいるのかよくわからない。
慧音さんの歴史の授業は、子供たちからは退屈だと非常に評判が悪い。私も聞いてみたことがあるが、慧音さんは明らかに子供のレベルに合わせた授業をしていないので、あれでは子供たちが眠りに落ちるのも仕方ない。もっとかみ砕いて解りやすく説明した方が、と蓮子がアドバイスしたのだが、そうしたら今度はひたすら話が冗長になり、やはり子供たちは眠りに落ちていく。そのあたり、慧音さん自身も悩みの種のようだが、今のところ解決の目処は立っていないようだ。
じゃあ私の授業はどうなんだと言われれば、全く偉そうなことを言えた立場ではないのでごめんなさいと言う他ないのだが――そんな中、子供たちに非常に評判がいいのが、蓮子の算学である。とにかく弁が立つので話が面白いし、説明がわかりやすい。きちんと子供たちのレベルに合わせて授業を進め、理解できていない子がどの段階で躓いているのかを的確に見抜いている。蓮子の天職って実は教師なのでは、と思わされるような見事な授業ぶりなのだ。
たとえば今、蓮子はかけ算について教えているわけだが――。
「みんな、かけ算っていうのは、九九を覚えればいいっていうものじゃないの。もちろん、九九を覚えるのは大事。でも、かけ算っていうものが、どういう仕組みなのか。それが解っていれば、九九を忘れてしまっても、ちゃんとかけ算ができるようになるの。それはもっと難しい計算になっても同じ。はいみんな、算学は、仕組みで覚えよう!」
寺子屋に通っているのは主に商家の子であるから、四則演算ぐらいは既に家で教わっている子も多い。ただ蓮子によれば、それぞれの家での教え方がまちまちで、きちんと四則演算の仕組みを理解している子もいれば、理解できていない子も、変な覚え方をしてしまっている子もいるという。極端な例では家で扱っている商品の値段しか計算できない子もいたようだ。
そういった子たちに、蓮子は基礎的な四則演算の仕組みから丁寧に教えていく。既に理解していて退屈している子にはもう少し高度な問題を与えて考えさせたり、フォローにも隙が無い。
自分で読み書きを教えてみて痛感したが、基礎の基礎を教えるというのは本当に難しい。普段あまりに当たり前に扱っている概念だから、改めて説明しろと言われると困ってしまうことは多々ある。蓮子の立て板に水という感じの弁舌は、素直に羨ましいのである。
「はい、じゃあ今日はここまで。今日の宿題は、みんな、家でかけ算を見つけてくること。どんなことでも、これはかけ算だな、と思ったことを次の授業で蓮子先生に教えてね」
はーい、と子供たちの声。そんな調子で蓮子の算学の授業は、最後まで子供たちを惹きつけて終わった。慧音さんが帰りの挨拶をして、子供たちは家路につく。
「なるほど、なかなか興味深かった」
子供たちがいなくなったところで、藍さんがどこからともなく姿を現した。いや、たぶん正確にはずっとその場にいたのだろう。私たちがその存在を感じ取りにくくなっていただけで。
「私の授業はお気に召しましたかしら」
「君とは一度、数学について議論をしてみたいな。酒でも呑みながら」
「いいですね、今夜でも構いませんが」
蓮子の愉しげな提案に、藍さんは少し困ったように後頭部を掻いた。
「いや――それも魅力的な提案だが、それより」
「それより?」
「ここの教師の他に、君たちは探偵事務所をしていると言っていたな。そこで悩み事の相談所みたいなことをしていると聞いた」
「ええまあ、本当は違うんですが、結果的にはそうなりますかね」
蓮子は頬を掻く。事務所の看板を掲げてから、これまでの半年ばかりで蓮子が解決した問題といえば、幽霊の正体見たり枯れ尾花、みたいなものばかりである。妖怪の跋扈するこの世界でも、なかなか相棒を満足させるような謎とは出逢えない。
と、藍さんはその狐目を細めて、蓮子を見つめ――こんなことを言い出した。
「妖怪である私の相談でも、乗ってもらえるだろうか?」
―5―
ところ変わって、今は私たちの探偵事務所となっている、寺子屋裏の離れ。
八畳一間に座卓と座布団と文机があるだけの、事務所と呼ぶにも簡素にすぎる一室である。探偵事務所なら応接机にソファーにタイプライターとファイルの並ぶ本棚ぐらいは用意したいものだが、いかんせんこの離れは和室であり、欧米的な探偵事務所をやっても仕方が無い。
私が寺子屋の炊事場でお茶を淹れて離れまで持っていくと、蓮子と藍さんは向かい合って座布団に座っていた。湯飲みを置き、私は文机に帳面を広げる。探偵助手である私の仕事は、書記・記録係である。
「では、藍さん。お話を伺いましょう」
「ふむ。そうだな、どこから説明するか――」
ずず、とお茶を啜って、藍さんはひとつ宙を睨む。
「私が紫様――妖怪の賢者の式神であることは、ご存じか?」
「はい。阿求さん――阿礼乙女から伺いました」
「うむ。私は紫様から今のこの名を与えられ、紫様に式として仕えることになった。とはいえ、私自身も九尾の妖狐だ。そんじょそこらの妖怪には負けない程度の力はある。その私も遠く及ばぬ紫様の力が強大無比であるということだが――」
と、藍さんは不意に私の方を振り向いて、また訝しげに目を細めた。
「……あの、私はそんなにその方と似ていますか」
私が思わずそう問うと、藍さんは目をしばたたかせる。
「ああ、阿求殿から聞かれたか。そう、先日見かけて私も驚いた。君――なんといったか」
「マエリベリー・ハーンです。呼びにくければ、メリーで」
「では、メリー殿。……本当によく似ている。紫様が人間に化けて里に紛れ込んでおられるのかと思ったほどだ。紫様をもう少しあどけなくされれば、ちょうど君のようになるだろう」
私、そんなに子供っぽいかしら。自分の頬に手を当てて考えるけれど、単にその八雲紫という妖怪が老けて……いや、自分のそっくりさんに対しそれは失礼か。
「藍さん。是非、メリーのそのそっくりさんに一度お会いしたいですわ」
「いや、残念だが紫様は冬の間はお休みになられているのでな。今年は春の到来が遅いので、まだお休みだ」
冬眠? 熊か何かか。
「ではまた別の機会に。それで、お話の続きを」
「ああ、すまない、話が逸れたな。私は紫様の式であり、紫様のために働く存在なのだが、私自身も紫様がそうするように、式を使役することができる」
「式の式、ですか」
「そうなるな。橙という化け猫の子なんだが……どうも、お恥ずかしながら、なかなか言うことを聞いてくれない。紫様と違って、私はまだまだ未熟者だ」
「はあ」
「相談したいのは、その橙のことだ」
ずい、と身を乗り出して、藍さんは言葉を続ける。
「今朝、私は橙の住むマヨヒガへ向かったんだが、呼んでも橙がなかなか出てこない。探し回ると、ようやく隠れていた橙を見つけたのだが、どうも誰かと弾幕ごっこをして負けたらしく、ボロボロの格好になっていた。私の可愛い式をいじめた不届きな輩はどこのどいつだ、と私は訊ねたのだが、橙はふて腐れてしまって、相手について教えてくれなかった」
「では――その相手を、私たちに聞き出せと?」
「そうだ。宇佐見蓮子殿、君はどうやら子供の扱いが上手いようだ。橙は化け猫だが、まだ尻尾も2本しかないお子様だ。そんな子供を手なずけられないのは私の不徳の致すところだが、橙の方も私には打ち明けにくいこともあろう。そこで、君たちに橙の口を割らせてほしい。もちろん、相手が解ればあとは私がとっちめに行くから、心配はいらない。橙をいじめた罪は身をもって贖わせなければ。ふふ、ふふふ……」
昏い笑みを浮かべる藍さんに、私はたじろぐ。怖いからやめてほしい。
しかし、化け猫の尻尾が2本しかないって、元から化け猫はそういうものなのでは、とも思ったが、藍さんの九尾を考えれば、彼女にとっては尻尾の本数が妖怪としての格ということなのだろうか。九尾の化け猫って想像するとけっこう気持ち悪いと思うが。
「お話はわかりました。ではご依頼は、式神の化け猫、橙さんから、昨日の弾幕ごっこの対戦相手を聞きだし、報告する――ということでよろしいですね?」
「うむ。謝礼ははずもう。前金は幾らかな」
「いえ、成功報酬で結構です。それよりも橙さんについてもう少し詳しいことを伺いたいのですが。話を聞き出すとっかかりとして、性格や好物など――」
「そうか、橙のことが知りたいか。よし、教えてやろう」
と、急に目の色を変えて、藍さんは嬉々として得々と喋り始めた。
「橙はな、それはそれは愛らしい子でな――」
――それが、八雲藍さんに対して一番やってはいけない地雷、即ち親ばか(式ばか?)モード発動のスイッチであったことに、私たちが気付いたのは、藍さんの得意げな語りが30分を過ぎたあたりのことだった。
どうにかこうにか藍さんの話を切り上げさせたときには、だいぶ時間が過ぎてしまっていた。
早くしないと陽が暮れてしまう。藍さんの指示でマタタビを道具屋で仕入れると、私たちは藍さんの案内で橙嬢の住むというマヨヒガへ向かうことになった。
「里の外は危険だぞ。私も着いて行こうか」
慧音さんはそう行ったが、これは蓮子が笑って首を振った。
「大丈夫ですわ。里の人間は襲ってはならないのがこの幻想郷のルールで、外来人とはいえ私たちは里の住人ですよね。幻想郷の偉い妖怪の部下が、この基本ルールを蔑ろにするはずはありません。そうですよね?」
「それはそうだが……くれぐれも気をつけてな」
正直、私個人としては慧音さんにもついてきてほしかったが、こうなっては仕方ない。腹を括って、藍さんについていくしかあるまい。
「マヨヒガというのはどこに?」
「北に見える妖怪の山があるだろう。あそこの麓だ」
「紅魔館のあるあたりですか?」
「湖の吸血鬼屋敷か。そこよりはもう少し西側の奧だ。わかりにくいところにあるから、私にしっかり掴まっているんだぞ」
そう言って、里の外に出たところで、藍さんは私と蓮子を両脇に抱えると、ふわりとその場から飛び立った。紅霧異変のときに霊夢さんに抱えられ、その後のフランドール嬢の騒動のときに魔理沙さんの箒に乗って以来、三度目の飛行体験。自分の身体が宙に浮いているというのは、何度体験してもどこか落ち着かない。
「藍さんたちも妖怪の山にお住まいなんです?」
飛ばされないように帽子を押さえながら、蓮子が藍さんに問いかける。
「うん? ――紫様と私の住処は、秘密だ。山ではないとだけは言っておこう」
「他人に知られると、何か不都合でも?」
――また、怖いもの知らずになんという突っ込んだ質問をするのだ。
いつものこととはいえ、反対側で私がはらはらしていると、藍さんはため息をつく。
「別にこちらは困ることもないが。紫様が、煩わしいことはお嫌いなのでな」
この世界を創った妖怪の賢者ともなれば、いろいろ面倒なこともあるのだろう。
ともかく、私たちはそうして、妖怪の山の麓にあるというマヨヒガに向かった。
――そしてそれが、私たちがあの春雪異変に関わる第一歩だったのだが、この時点での私たちは、そんなことは知るべくもない。
―6―
湖と紅魔館を通り過ぎ、山の西側に回り込むようにして飛んでいくことしばし。木立の合間に、不意に集落めいたものの影が見え始めた。
「あそこだ」
藍さんは私たちを抱えたまま、ゆっくりと高度を下げる。地面に下りたって、久々の大地の感触にほっと息を吐き、それから私は目の前の光景を見下ろした。確かに集落である。だが、人の気配は全くなく、残された建物は荒れ果て、雪と丈の高い草に覆われている。しかし不思議なことに、山中のわりに心なしか雪が少ない。なぜだろう?
「廃村、ですかね」
「昔はこのあたりにも人間が住んでいたようだな。皆、平地にある今の人間の里の方に集まってしまい、ここはかなり前に放棄された場所だ。今は――」
と、がさがさと草むらから、不意にいくつもの光る目が覗いた。――なに、妖怪? 私がびくりと身を竦めると、その草むらから何かの影が雪を踏みしめて躍り出てくる。
「……あら、メリー見て見て、野良猫がいっぱいよ!」
蓮子が歓声を上げる。私は力を抜いて、思わず大きく息をついた。姿を現したのは、たくさんの野良猫である。わらわらと現れた猫たちは、私たちを遠巻きにじっと見つめてきた。何十匹いるのだろう。正直、これだけの数の猫に囲まれると、それはそれでちょっと怖い。
「見ての通り、今は猫の楽園だ」
藍さんがそう言って、一歩前に歩み出る。化け猫だという彼女の式がここに住んでいるということは、その子はここの野良猫たちのボス猫なのかもしれない。
「おおい、橙、いるかー」
藍さんがそう声をあげる。だが、それらしき返事はない。いないのか、それとも隠れているのか。ふむ、と鼻を鳴らして、藍さんは私たちを振り向いた。
「どうやら、橙は私に会いたくないらしい」
露骨にしょんぼりした顔で、藍さんは肩を落とす。よほど溺愛しているのだなあ、と私としては変な感心の仕方をするしかないが、ともかく。
里で買ってきたマタタビを私たちに差し出して、藍さんは「では、頼む」と一礼した。
「マタタビさえ持っていれば、少なくとも橙にいきなり襲われることはないはずだ。橙はすばしこく逃げ回るだろうが、君たちが根負けしなければマタタビの匂いに負けてそのうち寄ってくる。そこをなんとか捕まえて、橙をいじめた犯人を聞きだしてくれ」
妖怪相手に根負けするなとは、普通の人間に無茶を言ってくれるが、所長たる蓮子がこの依頼を受けてしまった以上は、やるしかあるまい。
「でも、あの、藍さん」
「なんだ?」
「橙さんを捕まえる前に、まずこのマタタビが、そこの猫たちに奪われそうな……」
私は、こちらを取り囲んでじっと見つめる野良猫たちを見回す。この猫たちが集まってきたのも、マタタビの微かな匂いを嗅ぎつけてきたのだろうか。というか、さらにぞろぞろと猫の数が増えてきているのだけれど……。
「そこは、こうする」
と、藍さんは袋の中からおもむろにマタタビの実をいくつか取り出す。野良猫たちがざわめいた。一部の猫は既に興奮して、藍さんの手にあるマタタビを狙っている。
「そーれ、マタタビだ!」
藍さんはそれを、遠くの草むらへ放り投げた。野良猫たちは一斉に、そちらの方へ駆けていく。風のように猫たちは、私たちの周囲から姿を消した。マタタビの威力、恐るべし。
「では、あとは頼んだ」
「了解です。行くわよ、メリー」
「はいはい」
やれやれ、本当に藍さんの式神を私たちに捕まえられるものだろうか。あまり体力には自信がないので、あっさりマタタビに降参してもらえると助かるのだが――。
さて、ここで私はマヨヒガ内で繰り広げられた大捕物、蓮子と私による化け猫捕獲大作戦にページを割こうと思えばいくらでも割けるのだけれども、そこはこの話の本筋とは関係ないのでばっさりとカットさせていただく。お決まりのドタバタであるので、皆様のイメージするそういった類いのもの的な展開を想定していただければ大きな違いはない。
ともあれ、マヨヒガの廃屋を、雪を散らして縦横無尽に駆け回る化け猫の少女――ネコミミと二本の尻尾を生やした、小学校中学年ぐらいの幼い女の子だった――を捕獲するため、私たちは様々な作戦を考え、実行に移し、失敗を重ねながらも徐々に包囲網を狭めていった。
「さーさー、おいでおいで。マタタビあげるから、ほら」
ようやく追い詰めた廃屋の屋根の上から、警戒心も露わにこちらを見下ろすネコミミの少女を見上げながら、蓮子はマタタビの実でお手玉してみせる。私はその傍らでため息をついた。正直、疲れた。いい加減終わりにしてしまいたい。
「橙ちゃーん」
「フーッ」
猫のように尻尾を立てて威嚇する少女。いや、そもそも猫か。襲ってこないのは、蓮子がマタタビを持っているからなのだろうが。
「ほらほらー。あっ」
と、蓮子がいかにも失敗したかのように屋根の方へ高くマタタビを放り投げた。少女の目が光り、ぱっと廃屋の屋根を蹴ってマタタビの実をキャッチする。
が、蓮子が放り投げたその場所は、ちょうど廃屋の屋根から飛び出さなければギリギリ取れない絶妙の位置だ。結果、マタタビをキャッチした勢いのまま、少女は屋根から落下する。くるりと身を捻って雪の上に着地するが、そこまでは含めて蓮子の狙い通り。
「確保ー!」
着地した瞬間に生じた少女の隙。そこへ、蓮子がありったけのマタタビをぶちまけた。
「はにゃあぁぁぁ~」
浴びせられたマタタビに、少女はその場にうっとりと丸くなる。人間の姿をしているけれど、行動は本当に猫そのものだ。ごろごろとマタタビと戯れる少女に、私たちはかがみ込む。
「こんにちは、橙ちゃん」
「――はっ」
蓮子に呼びかけられ、少女は再び警戒心を露わにする。が、蓮子が残ったマタタビを鼻先に差し出すと、とろんとした顔になって「……ぐぬぬ」と唸った。あ、喋れるんだ。
「うう、紫さまぁ、なんなんですかぁ」
「え?」
「へ? ……あれ、ゆっ、紫さまじゃない!? なんだぁお前!?」
「なんだと言われても……人間よ」
「紫さまの偽者……怪しいやつ!」
「こらこら橙、怪しい奴ではない。私が連れて来たんだ」
と、そこへ藍さんが登場する。「藍さまぁ」と橙ちゃんは困った顔をする。
「なんですかこいつら。紫さまの新しい人間ですか?」
「そうではないが。お前に話があるんだそうだ」
「話ぃ? 人間が? なんで」
「詳しくはふたりから聞いてくれ。私は向こうにいるから」
「はあ……」
藍さんが下がっていき、橙ちゃんは私たちをじろじろと睨む。
「やっぱり怪しい奴。藍さまに油揚げでも貢いだの?」
「藍さん、油揚げで言うこと聞いてくれるの?」
「うん、結構ちょろい」
藍さん、思いっきり式に侮られてますよ。私は心の中だけで同情する。
「まあ、それはともかく。ここは随分、猫でいっぱいなのね」
「私たちの楽園だもん。猫による猫のためのマヨヒガだよ」
「そんなところに人間の私たちがお邪魔しちゃって、まずかったかしら?」
「むー。藍さまが連れてきたんじゃしょうがないし」
不満たらやらのようである。「ごめんね、猫の生活を邪魔する気はないから」と苦笑し、蓮子は片手を立ててひとつ謝る。
「一日に何度も人間に乱入されたら、さすがに気分悪いよね」
「そうだよ。今朝のあの紅白なんか泥棒していくし」
「あらあら。霊夢さんに何を持ってかれたの?」
「別に、大したものじゃないけど。マヨヒガのもの持って帰ると幸運になるから」
「へえ。私たちでも?」
「あんたたちも泥棒?」
「いえいえ、滅相もない」
「ていうか、あの紅白の知り合い?」
「顔見知りといえば顔見知りだけど。取られたもの、取り返してきてあげようか?」
「いいってば、藍さまに知られたらうるさいし――はっ」
そこでようやく、橙ちゃんは状況に気付いて目を見開いた。
「あーっ、あんたたち、藍さまからそれ頼まれてきたね!」
「ばれたか」
蓮子は舌を出す。全くもって自然なカマのかけ方に、私は呆れるしかなかった。
――橙ちゃんをいじめた相手が誰か。蓮子はここに来た時点で、既に霊夢さんあたりではないかと目算をつけていたのである。
『橙ちゃんがいじめた相手を藍さんに言ってないのはなぜか、っていうのが問題だと思うのよ。要するに弾幕ごっこで負けたってことなんだろうけど、いったい誰に負けたのか。ねえメリー、勝負に負けたとして、負けたことを隠しておきたい相手っていうと?』
『……自分より格下の相手、よね』
『そゆこと。で、橙ちゃんは化け猫で、九尾の狐の式神ってことだから、本人の実力にかかわらず、それなりにプライドは高いんだと思うわ。そんな妖怪が、パッと見で格下に見える相手に挑まれて負けた。もちろんそれは、あくまで格下に見えるだけだったんでしょうけど』
『化け猫から見て、格下の相手……』
『一番パッと浮かぶのは?』
『人間ね』
『そういうこと。で、私たちの知る限り、そんなことを一番しそうな人間は――』
妖怪退治が生業の巫女さん、博麗霊夢というわけだ。だから蓮子は、橙ちゃんが負けた相手は霊夢さんという前提でカマをかけ、見事に的中したわけである。
「あーあ、めんどくさいなあ……」
と、橙ちゃんはふて腐れたようにその場に丸まった。
「めんどくさいって?」
「藍さまに伝えるんでしょ、今朝の相手は人間の巫女だって」
「まあ、それをお願いされて来たからねえ」
「――絶対、『橙をいじめるとは! 許せん! 私が直々に成敗してくれる!』って言うから、見てなよ」
「あー。なるほど、それはめんどくさいわねえ」
「わかる?」
「わかるわかる。放っておいてほしいわよね」
「全くだよ! 藍さま、そのへん空気読めないんだもん」
熱く頷き合う蓮子と橙ちゃん。どうしてそう、妖怪相手に意気投合できるのだ。
しかし、橙ちゃんが口を噤んだのは、藍さんが過剰にうるさく騒ぐからだったのか。なるほど、わざわざ私たちをこんなところまで連れて来るのだから、その過保護ぶりは察するに余りある。昔で言うところのモンスターペアレントというやつだろうか。
「どうする? 内緒にしておいてあげようか?」
「……いいよもう。あの巫女にはやり返したいし」
ふん、と拗ねたように座り込む橙ちゃんは、不意にまた私の方を見やった。
「で、そこの紫さまの偽者はなんなのさ」
「私? いや、偽者じゃないんだけど……メリーっていうのよ」
「メリー? ふーん。ま、いいや」
それだけで興味を失ったようにそっぽを向く。猫は気まぐれというけれど、何ともはや、私から見るとつかみどころのない少女だ。いや、子供はこんなものだろうか?
「でも、霊夢さんはなんでこんなところに来たのかしら?」
蓮子がそう言うと、橙ちゃんは小さく鼻を鳴らす。
「春を奪ってる奴を探してるみたいだったけど」
「――春を?」
私と蓮子は、よく解らないその言葉に、ただ顔を見合わせた。
庵ならべむ冬の山里
―4―
「や、八雲藍さん?」
「おや。阿求殿からかな? どうも、ハーンさんと言いましたか。八雲藍です」
道士服の袖に相互に手を入れた、中国っぽいあのポーズで、藍さんは頭を下げる。その拍子に背中の尻尾がゆらゆらと揺れ、私の理性が揺さぶられる。ああ、夢にまでみたあの尻尾が、黄金のモフモフが目の前に! 触りたい! 抱きつきたい! あの中に埋もれたい! 今すぐに! 全てを投げ捨てて!
だがそんな私の衝動は、背後であがった子供たちの歓声に遮られる。
「おわ、妖怪だ!」
「あの尻尾すげえー」
「うごいた! あのモフモフのうごいた!」
「お布団みたいで気持ちよさそう……」
集まってきた子供たちが、藍さんの尻尾を興味津々の顔で見つめる。
「あ、あの、いったいどうしてここへ?」
「この寺子屋で読み書きや算術を教えていると言ったのは君たちだろう。少々気になったので、覗きに来てみたのだが。お邪魔してしまったなら申し訳ない」
「い、いえ……」
と、私が困惑している隙に、子供たちが雪崩を打って藍さんの尻尾へ向けて突進し始めた。ゆらゆらと揺れる尻尾に、何人かの子供が飛びつこうとするが――その手や身体は、見えない壁に阻まれ、尻尾には届かない。
「あ、あれ? さわれない……」
ぺたぺたと、尻尾の前にある見えない壁を触りながら子供たちが首を傾げる。藍さんはそれには構わず、教室を覗きこむ。
「読み書きの授業中だったかな?」
「あ、はい」
「算学を教えているのは――」
「私です」
蓮子が手を挙げる。「ほうほう」と藍さんは興味深げに頷いた。
「算学の授業は」
「今日はお昼の後の3時間目ですけど――」
「では、その授業を後で見学させてくれないか。私は数学が得意でね。里の人間にどんな算学を教えているのか、興味があるんだ」
藍さんの言葉に、理論物理学専攻の蓮子の目が光った。
「それはそれは。是非とも――と言いたいですが、慧音さんが何と言うか……」
蓮子が首を傾げたところへ、「何の騒ぎだ?」と当の慧音さんが資料部屋から顔を出した。慧音さんは藍さんの姿を見て目を丸くする。
「……見覚えのある尻尾だと思ったら、豆腐屋の常連の狐じゃないか。なぜこんなところに」
「貴方が、この寺子屋の代表の上白沢慧音氏でしょうか」
「あ、ああ――」
「ご挨拶が遅れました。八雲藍と申します。里で行われている人間への教育というものに興味がありまして、見学をお許しいただけないでしょうか」
思い切り下手に出た藍さんの態度に、意表を突かれたように慧音さんは目をしばたたかせる。
「きゅ、急にそんなことを言われてもな。妖怪が近くにいて、子供たちが授業に集中できなくなっては――」
「そこは、お邪魔になるようなら気配を消しておりますので、是非に。この後の算学の授業だけでも結構ですので」
「……子供たちに対して害意はないと誓ってもらおう」
「それはもちろん。里の人間は襲ってはならない、幻想郷のルールは弁えています。里に出入りできなくなっては、油揚げも買えないしきつねそばも食べられない。それは困りますからね」
「――――」
飄々とした藍さんの言葉に、慧音さんは肩を竦めて蓮子を見やる。
「算学の担当は蓮子、君だ。――君はどうだ?」
「あ、私は一向に構いませんわ。というか色々お話したいので是非に」
「――なら、私から言うことはない。ただ、私も同席させてもらう。それでいいか」
「ええ、もちろん」
慇懃に頭を下げる藍さんに、慧音さんは警戒した態度のまま頷き、子供たちは相変わらず藍さんの尻尾の周囲にまとわりつき、蓮子は楽しげな笑みを浮かべ、私は息を吐き出した。
周囲のおかげであの尻尾を見ても理性を失わずに済んでいるが、おかげですっかり私は蚊帳の外である。こうなったらあとで何とか頼み込んで、必要なら土下座してでもモフられてもらおう。こっそりと、私はそう決意するのだった。
結局、私の読み書きの授業はその後グダグダのままに終わり、昼休みを挟んで3時間目の蓮子の算学へバトンタッチする。私は慧音さんと、教室の後ろで見学していた。藍さんは気配を消しているらしく、意識してもどこにいるのかよくわからない。
慧音さんの歴史の授業は、子供たちからは退屈だと非常に評判が悪い。私も聞いてみたことがあるが、慧音さんは明らかに子供のレベルに合わせた授業をしていないので、あれでは子供たちが眠りに落ちるのも仕方ない。もっとかみ砕いて解りやすく説明した方が、と蓮子がアドバイスしたのだが、そうしたら今度はひたすら話が冗長になり、やはり子供たちは眠りに落ちていく。そのあたり、慧音さん自身も悩みの種のようだが、今のところ解決の目処は立っていないようだ。
じゃあ私の授業はどうなんだと言われれば、全く偉そうなことを言えた立場ではないのでごめんなさいと言う他ないのだが――そんな中、子供たちに非常に評判がいいのが、蓮子の算学である。とにかく弁が立つので話が面白いし、説明がわかりやすい。きちんと子供たちのレベルに合わせて授業を進め、理解できていない子がどの段階で躓いているのかを的確に見抜いている。蓮子の天職って実は教師なのでは、と思わされるような見事な授業ぶりなのだ。
たとえば今、蓮子はかけ算について教えているわけだが――。
「みんな、かけ算っていうのは、九九を覚えればいいっていうものじゃないの。もちろん、九九を覚えるのは大事。でも、かけ算っていうものが、どういう仕組みなのか。それが解っていれば、九九を忘れてしまっても、ちゃんとかけ算ができるようになるの。それはもっと難しい計算になっても同じ。はいみんな、算学は、仕組みで覚えよう!」
寺子屋に通っているのは主に商家の子であるから、四則演算ぐらいは既に家で教わっている子も多い。ただ蓮子によれば、それぞれの家での教え方がまちまちで、きちんと四則演算の仕組みを理解している子もいれば、理解できていない子も、変な覚え方をしてしまっている子もいるという。極端な例では家で扱っている商品の値段しか計算できない子もいたようだ。
そういった子たちに、蓮子は基礎的な四則演算の仕組みから丁寧に教えていく。既に理解していて退屈している子にはもう少し高度な問題を与えて考えさせたり、フォローにも隙が無い。
自分で読み書きを教えてみて痛感したが、基礎の基礎を教えるというのは本当に難しい。普段あまりに当たり前に扱っている概念だから、改めて説明しろと言われると困ってしまうことは多々ある。蓮子の立て板に水という感じの弁舌は、素直に羨ましいのである。
「はい、じゃあ今日はここまで。今日の宿題は、みんな、家でかけ算を見つけてくること。どんなことでも、これはかけ算だな、と思ったことを次の授業で蓮子先生に教えてね」
はーい、と子供たちの声。そんな調子で蓮子の算学の授業は、最後まで子供たちを惹きつけて終わった。慧音さんが帰りの挨拶をして、子供たちは家路につく。
「なるほど、なかなか興味深かった」
子供たちがいなくなったところで、藍さんがどこからともなく姿を現した。いや、たぶん正確にはずっとその場にいたのだろう。私たちがその存在を感じ取りにくくなっていただけで。
「私の授業はお気に召しましたかしら」
「君とは一度、数学について議論をしてみたいな。酒でも呑みながら」
「いいですね、今夜でも構いませんが」
蓮子の愉しげな提案に、藍さんは少し困ったように後頭部を掻いた。
「いや――それも魅力的な提案だが、それより」
「それより?」
「ここの教師の他に、君たちは探偵事務所をしていると言っていたな。そこで悩み事の相談所みたいなことをしていると聞いた」
「ええまあ、本当は違うんですが、結果的にはそうなりますかね」
蓮子は頬を掻く。事務所の看板を掲げてから、これまでの半年ばかりで蓮子が解決した問題といえば、幽霊の正体見たり枯れ尾花、みたいなものばかりである。妖怪の跋扈するこの世界でも、なかなか相棒を満足させるような謎とは出逢えない。
と、藍さんはその狐目を細めて、蓮子を見つめ――こんなことを言い出した。
「妖怪である私の相談でも、乗ってもらえるだろうか?」
―5―
ところ変わって、今は私たちの探偵事務所となっている、寺子屋裏の離れ。
八畳一間に座卓と座布団と文机があるだけの、事務所と呼ぶにも簡素にすぎる一室である。探偵事務所なら応接机にソファーにタイプライターとファイルの並ぶ本棚ぐらいは用意したいものだが、いかんせんこの離れは和室であり、欧米的な探偵事務所をやっても仕方が無い。
私が寺子屋の炊事場でお茶を淹れて離れまで持っていくと、蓮子と藍さんは向かい合って座布団に座っていた。湯飲みを置き、私は文机に帳面を広げる。探偵助手である私の仕事は、書記・記録係である。
「では、藍さん。お話を伺いましょう」
「ふむ。そうだな、どこから説明するか――」
ずず、とお茶を啜って、藍さんはひとつ宙を睨む。
「私が紫様――妖怪の賢者の式神であることは、ご存じか?」
「はい。阿求さん――阿礼乙女から伺いました」
「うむ。私は紫様から今のこの名を与えられ、紫様に式として仕えることになった。とはいえ、私自身も九尾の妖狐だ。そんじょそこらの妖怪には負けない程度の力はある。その私も遠く及ばぬ紫様の力が強大無比であるということだが――」
と、藍さんは不意に私の方を振り向いて、また訝しげに目を細めた。
「……あの、私はそんなにその方と似ていますか」
私が思わずそう問うと、藍さんは目をしばたたかせる。
「ああ、阿求殿から聞かれたか。そう、先日見かけて私も驚いた。君――なんといったか」
「マエリベリー・ハーンです。呼びにくければ、メリーで」
「では、メリー殿。……本当によく似ている。紫様が人間に化けて里に紛れ込んでおられるのかと思ったほどだ。紫様をもう少しあどけなくされれば、ちょうど君のようになるだろう」
私、そんなに子供っぽいかしら。自分の頬に手を当てて考えるけれど、単にその八雲紫という妖怪が老けて……いや、自分のそっくりさんに対しそれは失礼か。
「藍さん。是非、メリーのそのそっくりさんに一度お会いしたいですわ」
「いや、残念だが紫様は冬の間はお休みになられているのでな。今年は春の到来が遅いので、まだお休みだ」
冬眠? 熊か何かか。
「ではまた別の機会に。それで、お話の続きを」
「ああ、すまない、話が逸れたな。私は紫様の式であり、紫様のために働く存在なのだが、私自身も紫様がそうするように、式を使役することができる」
「式の式、ですか」
「そうなるな。橙という化け猫の子なんだが……どうも、お恥ずかしながら、なかなか言うことを聞いてくれない。紫様と違って、私はまだまだ未熟者だ」
「はあ」
「相談したいのは、その橙のことだ」
ずい、と身を乗り出して、藍さんは言葉を続ける。
「今朝、私は橙の住むマヨヒガへ向かったんだが、呼んでも橙がなかなか出てこない。探し回ると、ようやく隠れていた橙を見つけたのだが、どうも誰かと弾幕ごっこをして負けたらしく、ボロボロの格好になっていた。私の可愛い式をいじめた不届きな輩はどこのどいつだ、と私は訊ねたのだが、橙はふて腐れてしまって、相手について教えてくれなかった」
「では――その相手を、私たちに聞き出せと?」
「そうだ。宇佐見蓮子殿、君はどうやら子供の扱いが上手いようだ。橙は化け猫だが、まだ尻尾も2本しかないお子様だ。そんな子供を手なずけられないのは私の不徳の致すところだが、橙の方も私には打ち明けにくいこともあろう。そこで、君たちに橙の口を割らせてほしい。もちろん、相手が解ればあとは私がとっちめに行くから、心配はいらない。橙をいじめた罪は身をもって贖わせなければ。ふふ、ふふふ……」
昏い笑みを浮かべる藍さんに、私はたじろぐ。怖いからやめてほしい。
しかし、化け猫の尻尾が2本しかないって、元から化け猫はそういうものなのでは、とも思ったが、藍さんの九尾を考えれば、彼女にとっては尻尾の本数が妖怪としての格ということなのだろうか。九尾の化け猫って想像するとけっこう気持ち悪いと思うが。
「お話はわかりました。ではご依頼は、式神の化け猫、橙さんから、昨日の弾幕ごっこの対戦相手を聞きだし、報告する――ということでよろしいですね?」
「うむ。謝礼ははずもう。前金は幾らかな」
「いえ、成功報酬で結構です。それよりも橙さんについてもう少し詳しいことを伺いたいのですが。話を聞き出すとっかかりとして、性格や好物など――」
「そうか、橙のことが知りたいか。よし、教えてやろう」
と、急に目の色を変えて、藍さんは嬉々として得々と喋り始めた。
「橙はな、それはそれは愛らしい子でな――」
――それが、八雲藍さんに対して一番やってはいけない地雷、即ち親ばか(式ばか?)モード発動のスイッチであったことに、私たちが気付いたのは、藍さんの得意げな語りが30分を過ぎたあたりのことだった。
どうにかこうにか藍さんの話を切り上げさせたときには、だいぶ時間が過ぎてしまっていた。
早くしないと陽が暮れてしまう。藍さんの指示でマタタビを道具屋で仕入れると、私たちは藍さんの案内で橙嬢の住むというマヨヒガへ向かうことになった。
「里の外は危険だぞ。私も着いて行こうか」
慧音さんはそう行ったが、これは蓮子が笑って首を振った。
「大丈夫ですわ。里の人間は襲ってはならないのがこの幻想郷のルールで、外来人とはいえ私たちは里の住人ですよね。幻想郷の偉い妖怪の部下が、この基本ルールを蔑ろにするはずはありません。そうですよね?」
「それはそうだが……くれぐれも気をつけてな」
正直、私個人としては慧音さんにもついてきてほしかったが、こうなっては仕方ない。腹を括って、藍さんについていくしかあるまい。
「マヨヒガというのはどこに?」
「北に見える妖怪の山があるだろう。あそこの麓だ」
「紅魔館のあるあたりですか?」
「湖の吸血鬼屋敷か。そこよりはもう少し西側の奧だ。わかりにくいところにあるから、私にしっかり掴まっているんだぞ」
そう言って、里の外に出たところで、藍さんは私と蓮子を両脇に抱えると、ふわりとその場から飛び立った。紅霧異変のときに霊夢さんに抱えられ、その後のフランドール嬢の騒動のときに魔理沙さんの箒に乗って以来、三度目の飛行体験。自分の身体が宙に浮いているというのは、何度体験してもどこか落ち着かない。
「藍さんたちも妖怪の山にお住まいなんです?」
飛ばされないように帽子を押さえながら、蓮子が藍さんに問いかける。
「うん? ――紫様と私の住処は、秘密だ。山ではないとだけは言っておこう」
「他人に知られると、何か不都合でも?」
――また、怖いもの知らずになんという突っ込んだ質問をするのだ。
いつものこととはいえ、反対側で私がはらはらしていると、藍さんはため息をつく。
「別にこちらは困ることもないが。紫様が、煩わしいことはお嫌いなのでな」
この世界を創った妖怪の賢者ともなれば、いろいろ面倒なこともあるのだろう。
ともかく、私たちはそうして、妖怪の山の麓にあるというマヨヒガに向かった。
――そしてそれが、私たちがあの春雪異変に関わる第一歩だったのだが、この時点での私たちは、そんなことは知るべくもない。
―6―
湖と紅魔館を通り過ぎ、山の西側に回り込むようにして飛んでいくことしばし。木立の合間に、不意に集落めいたものの影が見え始めた。
「あそこだ」
藍さんは私たちを抱えたまま、ゆっくりと高度を下げる。地面に下りたって、久々の大地の感触にほっと息を吐き、それから私は目の前の光景を見下ろした。確かに集落である。だが、人の気配は全くなく、残された建物は荒れ果て、雪と丈の高い草に覆われている。しかし不思議なことに、山中のわりに心なしか雪が少ない。なぜだろう?
「廃村、ですかね」
「昔はこのあたりにも人間が住んでいたようだな。皆、平地にある今の人間の里の方に集まってしまい、ここはかなり前に放棄された場所だ。今は――」
と、がさがさと草むらから、不意にいくつもの光る目が覗いた。――なに、妖怪? 私がびくりと身を竦めると、その草むらから何かの影が雪を踏みしめて躍り出てくる。
「……あら、メリー見て見て、野良猫がいっぱいよ!」
蓮子が歓声を上げる。私は力を抜いて、思わず大きく息をついた。姿を現したのは、たくさんの野良猫である。わらわらと現れた猫たちは、私たちを遠巻きにじっと見つめてきた。何十匹いるのだろう。正直、これだけの数の猫に囲まれると、それはそれでちょっと怖い。
「見ての通り、今は猫の楽園だ」
藍さんがそう言って、一歩前に歩み出る。化け猫だという彼女の式がここに住んでいるということは、その子はここの野良猫たちのボス猫なのかもしれない。
「おおい、橙、いるかー」
藍さんがそう声をあげる。だが、それらしき返事はない。いないのか、それとも隠れているのか。ふむ、と鼻を鳴らして、藍さんは私たちを振り向いた。
「どうやら、橙は私に会いたくないらしい」
露骨にしょんぼりした顔で、藍さんは肩を落とす。よほど溺愛しているのだなあ、と私としては変な感心の仕方をするしかないが、ともかく。
里で買ってきたマタタビを私たちに差し出して、藍さんは「では、頼む」と一礼した。
「マタタビさえ持っていれば、少なくとも橙にいきなり襲われることはないはずだ。橙はすばしこく逃げ回るだろうが、君たちが根負けしなければマタタビの匂いに負けてそのうち寄ってくる。そこをなんとか捕まえて、橙をいじめた犯人を聞きだしてくれ」
妖怪相手に根負けするなとは、普通の人間に無茶を言ってくれるが、所長たる蓮子がこの依頼を受けてしまった以上は、やるしかあるまい。
「でも、あの、藍さん」
「なんだ?」
「橙さんを捕まえる前に、まずこのマタタビが、そこの猫たちに奪われそうな……」
私は、こちらを取り囲んでじっと見つめる野良猫たちを見回す。この猫たちが集まってきたのも、マタタビの微かな匂いを嗅ぎつけてきたのだろうか。というか、さらにぞろぞろと猫の数が増えてきているのだけれど……。
「そこは、こうする」
と、藍さんは袋の中からおもむろにマタタビの実をいくつか取り出す。野良猫たちがざわめいた。一部の猫は既に興奮して、藍さんの手にあるマタタビを狙っている。
「そーれ、マタタビだ!」
藍さんはそれを、遠くの草むらへ放り投げた。野良猫たちは一斉に、そちらの方へ駆けていく。風のように猫たちは、私たちの周囲から姿を消した。マタタビの威力、恐るべし。
「では、あとは頼んだ」
「了解です。行くわよ、メリー」
「はいはい」
やれやれ、本当に藍さんの式神を私たちに捕まえられるものだろうか。あまり体力には自信がないので、あっさりマタタビに降参してもらえると助かるのだが――。
さて、ここで私はマヨヒガ内で繰り広げられた大捕物、蓮子と私による化け猫捕獲大作戦にページを割こうと思えばいくらでも割けるのだけれども、そこはこの話の本筋とは関係ないのでばっさりとカットさせていただく。お決まりのドタバタであるので、皆様のイメージするそういった類いのもの的な展開を想定していただければ大きな違いはない。
ともあれ、マヨヒガの廃屋を、雪を散らして縦横無尽に駆け回る化け猫の少女――ネコミミと二本の尻尾を生やした、小学校中学年ぐらいの幼い女の子だった――を捕獲するため、私たちは様々な作戦を考え、実行に移し、失敗を重ねながらも徐々に包囲網を狭めていった。
「さーさー、おいでおいで。マタタビあげるから、ほら」
ようやく追い詰めた廃屋の屋根の上から、警戒心も露わにこちらを見下ろすネコミミの少女を見上げながら、蓮子はマタタビの実でお手玉してみせる。私はその傍らでため息をついた。正直、疲れた。いい加減終わりにしてしまいたい。
「橙ちゃーん」
「フーッ」
猫のように尻尾を立てて威嚇する少女。いや、そもそも猫か。襲ってこないのは、蓮子がマタタビを持っているからなのだろうが。
「ほらほらー。あっ」
と、蓮子がいかにも失敗したかのように屋根の方へ高くマタタビを放り投げた。少女の目が光り、ぱっと廃屋の屋根を蹴ってマタタビの実をキャッチする。
が、蓮子が放り投げたその場所は、ちょうど廃屋の屋根から飛び出さなければギリギリ取れない絶妙の位置だ。結果、マタタビをキャッチした勢いのまま、少女は屋根から落下する。くるりと身を捻って雪の上に着地するが、そこまでは含めて蓮子の狙い通り。
「確保ー!」
着地した瞬間に生じた少女の隙。そこへ、蓮子がありったけのマタタビをぶちまけた。
「はにゃあぁぁぁ~」
浴びせられたマタタビに、少女はその場にうっとりと丸くなる。人間の姿をしているけれど、行動は本当に猫そのものだ。ごろごろとマタタビと戯れる少女に、私たちはかがみ込む。
「こんにちは、橙ちゃん」
「――はっ」
蓮子に呼びかけられ、少女は再び警戒心を露わにする。が、蓮子が残ったマタタビを鼻先に差し出すと、とろんとした顔になって「……ぐぬぬ」と唸った。あ、喋れるんだ。
「うう、紫さまぁ、なんなんですかぁ」
「え?」
「へ? ……あれ、ゆっ、紫さまじゃない!? なんだぁお前!?」
「なんだと言われても……人間よ」
「紫さまの偽者……怪しいやつ!」
「こらこら橙、怪しい奴ではない。私が連れて来たんだ」
と、そこへ藍さんが登場する。「藍さまぁ」と橙ちゃんは困った顔をする。
「なんですかこいつら。紫さまの新しい人間ですか?」
「そうではないが。お前に話があるんだそうだ」
「話ぃ? 人間が? なんで」
「詳しくはふたりから聞いてくれ。私は向こうにいるから」
「はあ……」
藍さんが下がっていき、橙ちゃんは私たちをじろじろと睨む。
「やっぱり怪しい奴。藍さまに油揚げでも貢いだの?」
「藍さん、油揚げで言うこと聞いてくれるの?」
「うん、結構ちょろい」
藍さん、思いっきり式に侮られてますよ。私は心の中だけで同情する。
「まあ、それはともかく。ここは随分、猫でいっぱいなのね」
「私たちの楽園だもん。猫による猫のためのマヨヒガだよ」
「そんなところに人間の私たちがお邪魔しちゃって、まずかったかしら?」
「むー。藍さまが連れてきたんじゃしょうがないし」
不満たらやらのようである。「ごめんね、猫の生活を邪魔する気はないから」と苦笑し、蓮子は片手を立ててひとつ謝る。
「一日に何度も人間に乱入されたら、さすがに気分悪いよね」
「そうだよ。今朝のあの紅白なんか泥棒していくし」
「あらあら。霊夢さんに何を持ってかれたの?」
「別に、大したものじゃないけど。マヨヒガのもの持って帰ると幸運になるから」
「へえ。私たちでも?」
「あんたたちも泥棒?」
「いえいえ、滅相もない」
「ていうか、あの紅白の知り合い?」
「顔見知りといえば顔見知りだけど。取られたもの、取り返してきてあげようか?」
「いいってば、藍さまに知られたらうるさいし――はっ」
そこでようやく、橙ちゃんは状況に気付いて目を見開いた。
「あーっ、あんたたち、藍さまからそれ頼まれてきたね!」
「ばれたか」
蓮子は舌を出す。全くもって自然なカマのかけ方に、私は呆れるしかなかった。
――橙ちゃんをいじめた相手が誰か。蓮子はここに来た時点で、既に霊夢さんあたりではないかと目算をつけていたのである。
『橙ちゃんがいじめた相手を藍さんに言ってないのはなぜか、っていうのが問題だと思うのよ。要するに弾幕ごっこで負けたってことなんだろうけど、いったい誰に負けたのか。ねえメリー、勝負に負けたとして、負けたことを隠しておきたい相手っていうと?』
『……自分より格下の相手、よね』
『そゆこと。で、橙ちゃんは化け猫で、九尾の狐の式神ってことだから、本人の実力にかかわらず、それなりにプライドは高いんだと思うわ。そんな妖怪が、パッと見で格下に見える相手に挑まれて負けた。もちろんそれは、あくまで格下に見えるだけだったんでしょうけど』
『化け猫から見て、格下の相手……』
『一番パッと浮かぶのは?』
『人間ね』
『そういうこと。で、私たちの知る限り、そんなことを一番しそうな人間は――』
妖怪退治が生業の巫女さん、博麗霊夢というわけだ。だから蓮子は、橙ちゃんが負けた相手は霊夢さんという前提でカマをかけ、見事に的中したわけである。
「あーあ、めんどくさいなあ……」
と、橙ちゃんはふて腐れたようにその場に丸まった。
「めんどくさいって?」
「藍さまに伝えるんでしょ、今朝の相手は人間の巫女だって」
「まあ、それをお願いされて来たからねえ」
「――絶対、『橙をいじめるとは! 許せん! 私が直々に成敗してくれる!』って言うから、見てなよ」
「あー。なるほど、それはめんどくさいわねえ」
「わかる?」
「わかるわかる。放っておいてほしいわよね」
「全くだよ! 藍さま、そのへん空気読めないんだもん」
熱く頷き合う蓮子と橙ちゃん。どうしてそう、妖怪相手に意気投合できるのだ。
しかし、橙ちゃんが口を噤んだのは、藍さんが過剰にうるさく騒ぐからだったのか。なるほど、わざわざ私たちをこんなところまで連れて来るのだから、その過保護ぶりは察するに余りある。昔で言うところのモンスターペアレントというやつだろうか。
「どうする? 内緒にしておいてあげようか?」
「……いいよもう。あの巫女にはやり返したいし」
ふん、と拗ねたように座り込む橙ちゃんは、不意にまた私の方を見やった。
「で、そこの紫さまの偽者はなんなのさ」
「私? いや、偽者じゃないんだけど……メリーっていうのよ」
「メリー? ふーん。ま、いいや」
それだけで興味を失ったようにそっぽを向く。猫は気まぐれというけれど、何ともはや、私から見るとつかみどころのない少女だ。いや、子供はこんなものだろうか?
「でも、霊夢さんはなんでこんなところに来たのかしら?」
蓮子がそう言うと、橙ちゃんは小さく鼻を鳴らす。
「春を奪ってる奴を探してるみたいだったけど」
「――春を?」
私と蓮子は、よく解らないその言葉に、ただ顔を見合わせた。
第2章 妖々夢編 一覧
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橙可愛い!
藍様も結構苦労していらっしゃいますね…実は紫様以上に忙しいのでは?
この先どうなるのかとても楽しみにしております。
やっぱりここの藍しゃまも
チェエエエェェェーーーン
(*´ノi`)・:∴・:∴・:∴・:∴
な人(式?)なのねw
「春を奪っている~」という表現を(意味深)な方向に考えてしまうのは決して僕の心が汚れているからではないはず!僕も橙ちゃんの春が欲しい!
蓮子のカマのかけかたは非常にうまいですね。
次回も楽しみに待ってます。
いつも楽しく読ませてもらっています。
藍の親バカ具合や橙のドタバタ捕獲作戦ももっと見て見たかったですw