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楽園の確率~Paradiseshift.第2章 失われたはし   失われたはし 第8話

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公開日:2017年04月17日 / 最終更新日:2017年04月17日

失われたはし 第8話
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第2章
失われたはし 第8話



 周りには壁も門も無い。ただ草生した中に佇む破れ家が、暗闇に沈んでいた。
 橋姫からは、幾人か使用人を抱えているとも聞いていた。今時分では皆、もう眠ってしまっているであろう。当然ながら、明かりの類いは一切見えない。
「橋姫。本当にここが、お許(もと)の住処なのか?」
「ええ、こんな見てくれではありますが、確かに我が家です」
「しかし、何者も居ないように見える……」
 虫の鳴き声も静まり、今は彼方で時折山犬の遠吠えが聞こえる程度。明かりはともかくとして、人らしい気配なども辺りに無い。本来はそういった気配にこそ気を付けるがゆえ、それがあれば敏感に感じ取れる自信が綱にはある。なのに――
「そんな筈は……土夫(つちのお)、きのえ!」
 使用人の物であろう名を呼びつつ戸口へと向かう橋姫を追い、綱はいつでも太刀を抜けるよう、下げ緒を寄せて柄に手を掛ける。
「やはり、何者もおらぬ様子」
 使用人はともかく敵しようとする者もいない。綱がそう判じ、気を緩めた刹那であった。
「きゃっ!?」
 橋姫が小さく悲鳴を上げ、飛び上がる。
 綱は、何が起きたか察せないながらも、すぐに太刀を抜いて構える。
「どうしたのだ!」
「足下で、何かが……」
 月も星も隠れてしまい、己の足下もよく見通せない。夜盗を恐れ、明かりの準備をしていなかったのが災いした。
「ひとまず外へ」
 太刀を左手に持ち替え、橋姫の細い腰を己の方へ寄せながら、庭先へ逃れる。
 すると草の波を掻き分ける音が後を追って来た。
 それを阻もうと、綱は目に見えない相手と橋姫の間に立つ。
 不意に、周囲に明るみが指した。
 ぼうと、綱と共に橋姫を守るかの如く、いくつかの怪火(かいか)が浮いて回っていたのだ。
 始めはそれを払おうとした綱であったが、それよりもまず、敵がこの灯火で姿を現すことを祈って、元の方へ向き直る。
 草むらを掻き分けて現れたのは、四尺ほどの山蛇であった。
「離れろ! これらは毒を持っている」
 一匹だけでなく、二匹、三匹と続けて現れた山蛇。怪火はそれらを照らす風にふよふよと泳ぎ、山蛇らの真上に留まる。綱は鋒を山蛇に向けると、「えい、やぁ!」立て続けに二匹の首を切り落とし、残りる一匹も、その背を貫いて地面に射止めた。
「もういないか」
 気付けば怪火も消えていた。
 綱が怪火の不思議に考えを巡らせようとしていると、別の光が道に沿って近づいて来る。こちらは確かに人が携えた灯火のようである。
 息を潜め、その正体をみようとしているとしていると、こちらに松明が向けられる。
「おや、こんな夜更けに、それにこんな山の中で逢い引きとは、若いとはいいのお」
 松明の向こうから男の声。
 炎に照らされた顔は皺だらけで、ぼうぼうに伸ばした白髪頭、見るからに小汚い老人。纏う衣もあちこちが破れたぼろぼろの水干。
 彼は続けて、黄色い目を光らせながらにぃっと笑うが、そこから覗く歯も、炎の色を加味しても黄色味がすぎる。
 先の言葉に加え、その様にも一瞬嫌悪感を覚えた綱であったが、これを怒気に換える。
「無礼な! お前は何者ぞ!」
 男は長い髭をワシャッとなでながら答える。
「わしか。わしはしがない法師陰陽師よ。妙な空気に誘われてきたのじゃ」
「陰陽師だと?」
 彼は口をもごと動かし、何事か唱えると、地面に突き立てられたままの太刀を指さす。
「綱、これを……」
 そこには事切れた山蛇ではなく、紙の形代が縫い止められていた。
「このまやかし、お前の仕業か!」
「言ったであろう、わしは妙な空気に誘われたのだと。これは別の陰陽師によるものよ」
 別の陰陽師。そう言われて、真っ先に清明を思い出す。
「いつもならこんな事はせぬが、此度だけは言っておこう。それをした陰陽師、少なくとも安倍晴明ではあるまい。奴が用いた式神なら、形代に桔梗印が記されているはずじゃ」
 まるで心を読んだかの様な否定。
 清明のことを知っているらしい男。しかし親しげと言うには少し違う風な語り口である。
 そして言われた通り、形代に桔梗の印など記されていなかった。
「それよりも。この庵の家人がどうしているのか、確かめてみたらどうじゃ」
 今度は橋姫が、弾かれたように駆け出す。
「橋姫! お前、名はなんと」
「道満。蘆屋道満(あしやどうまん)じゃ」
 またも黄色い歯を見せて笑う道満。綱はそれを一瞥すると、橋姫を追って駆け出した。

 まだ何者かが潜んでいるかも知れぬ庵の中、綱は太刀を握りしめつつも、橋姫の肩に手をやって、心を静めさせようとする。それはまた、彼自身の心身を静める行為でもあった。
 歩を進める先に、山蛇を照らした怪火が現れ、ゆらゆらと揺れる。それは魚のように宙を泳いで行くと、闇しか無かった部屋へと滑り込む。
「行きましょう」
「ああ」
 綱が先に立つと、今度は橋姫の掌が綱の背に触れ、身の震えを彼に伝播させる。
 橋姫の震えは恐れゆえであろうが、綱のそれは戦意も入り混じったもの。
 堂々と踏み込み、首を巡らせる。
「これは……!」
 倒れ込んだ人影、先ほど橋姫が呼びかけていた者達であろう。
 そう思い至ると共に、すぐに橋姫を下がらせようとしたが、遅かった。
「土夫、きのえ!」
 橋姫はフラフラと歩み寄り、膝を着くと、既に事切れていた二人にすがりつく。
 その悲しむ様に綱はどうしたらよいか分からず、ただ見守り続ける。先ほどの道満なる男も気になったが、今ここに橋姫を置いて立ち去るわけにもいかなかった。

 夜もようようと白けようという頃、橋姫は嘆くのを止め、先ほどとは打って変わって強い眼差しを綱に向ける。まだ暗い中であるのに、眼は旭の如き光をたたえている。
「綱、行きましょう」
「行くとは、どこへ?」
「橋姫を止めに。このままではまた、誰かが犠牲になってしまう」
「何を言っているのだ。橋姫とはお許の名ではないか」
「ええ、そう。私も、あの娘も“はしひめ”」
 まるで意味が分からないと、綱は頭を振る。
 家人らを殺され、認識を失っているのであろうとすら疑う。
「橋姫、気を確かに持て。お許の言う橋姫とは、あの鬼女の事か。それはいいであろうが、まずこの者達の事を弔ってはやらねば。いや、この者達を死なせた者が誰かを突き止めようとはせぬのか」
「誰が二人を死なせたのか、大凡分かっています。それにあの者達に弔いはいりません」
 その目は清流の様に澄みきり、綱の瞳の奥を見通す。確かな意思と深い思慮を抱く者の眼差しだ。
「分かった。しかしこれからすぐにとって返しても、体がもたないであろう。ひとまず休み、十分に夜が明けるのを待ってから行くとしよう」
 無理を押したい橋姫であったが、己の疲れ以上に綱の身も案じ、それを受け入れる。
 彼も己が思うのと同じく、我が身を案じてくれているのだと察したのだ。

      ∴

 朝ぼらけの賀茂川沿いを、山へ向けて一両の牛車が走る。
 牛車は、たいそう急いでいる様子で、車が激しく揺れるのにも構わず進んでいた。
「清明。わざわざこんな山奥へ向かうとは、何が分かったのだ?」
「これもまだ、確かめているところじゃ」
 清明は常通りの水干に身を包み、揺れに身を任せている。
 相対して座る博雅は、深い緋色の狩衣を纏い、太刀や箙を傍らに置く。
 昨夜、綱と橋姫の後を追おうとは言い出さなかった清明であるが、今の道程は、それと平行するものである。もっとも清明の目的は、その二人でないが。
 博雅が清明の意図を図りかねていると、牛車は速度を緩め、止まった。
「おお、ようやく着いたのか」
「いや、牛車ではこれ以上進めないからな」
 二人は車を降りる。目の前を流れる今まで辿ってきた川は、ここから先で、大蛇の舌のように二つに分かれていた。
「あちらじゃ」
 と、清明は戌の方(※1)からの流れを示す。奥には川と崖に挟まれた隘路が延びるだけ、牛車では乗り入れられぬ道理である。
 ただでさえ険しい道。いざと武装を整えた博雅は、「まことに悪し」と独りごちた。

 隘路と見えた山道はしかし、数町も行けば実に歩みやすい物に変わり、博雅にも話をするだけの余裕が現れる。
「もしや、これから行くのは貴布禰の社か?」
「そうじゃ」
「なるほど、おれにも分かってきたぞ――」
「ほう?」
「鬼女の橋姫と、綱と連れだった橋姫。別々のモノだとしても、無関係では無い」
 博雅の言葉に、清明は歩みを止める。
「そして貴布禰の社には、陰と陽が如く、対となる二柱が祀られておる」
「そうじゃ。神代(かみよ)に、伊弉諾尊が己が子の火之迦具土を切った時、御剣よりしたたる血から、三柱の神が生まれたもうた。貴布禰の社に祀られるのは、そのうちのタカオカミノカミとクラオカミノカミじゃ」
 二人はふと眼下の川を見る。それらの神々を表すかの如く、激しい流れである。
「いずれも水を司る神であるが、日照りに祈雨を求められれば雨を、長雨に止雨を求められれば日の光を、それぞれにもたらしてくれる神。で、あったな」
 もしくは激しく渦巻く流れと、穏やかなせせらぎであるやも知れない。
「ああ、そこに呪(しゅ)じゃ」
「呪か、今ならなんとなく分かる。川が二つあれば、橋も少なくとも二つ架かる道理であろうと、俺は思っておる。ゆえに、二人の橋姫がおるのであろう」
「それに橋姫の名。道は、行けばやがてどこかに行き着こうが、橋は、端が二つあって初めて橋。お前が言った二柱に加えて、これも、橋姫が二人おる道理じゃ」
 博雅は鷹揚に頷く。当然、端の無い橋など、見たことが無い。
 このように、橋姫は二重に呪を重ねた存在なのだ。
「橋姫が二人おるのは、なるほど、その通りか。では南都から北嶺付近に、彼女らが招かれたのは、如何なる由じゃ?」
「うむ、それなのだが――」
「それ以上の深入りは禁物だぞ。安倍の半妖」
 崖の下、一丈ほどの所から投げかけられる声。そちらに人が立てる場所など見当たらないのに。
 清明の母は、信田(しのだ)森に住む霊狐であると、密やかに言われる。
 言葉の主はそれを知る者であった。
「なんだ、蘆屋道満でも道連れに来るかと思えば、雅楽師なんぞを連れてどうするのか」
 明らかに、若い女の声である。
 栗色の瞳は清明らの方を見上げているが、意識は遙か高みから見下ろそうという物。
 それにその姿、彼女が口にした道満よりも異様。
 修験者らしき法衣姿ではあるが、上衣は桷(ずみ)染めの淡い黄色、袴は高僧の七条袈裟を仕立て直したとも見られる、紫を基調とした格子模様。被る頭襟はこれも紫。
 身に纏うこれら多くの禁色(きんじき)は、彼女が相当高位の者でなければ許されぬ物。
 また伸ばしに伸ばした垂れ髪は、両側頭で二つ結いにし、馬の尾の様に垂らしている。
 奇抜である。
 博雅は、半ば唖然とする。
 清明は彼女の、ともすれば蔑むような言葉にも、平静なまま応じる。
「何をする、と言われるほど、何かをつもりはありません。鞍馬山の天狗殿」
 天狗。清明の言葉に、博雅は驚きを露わにする。
「あの娘が、天狗だと?」
「そうじゃ。鞍馬の山に天狗あり。かつてこの地にて修行し、開山した僧正坊なる僧は、慢心深き故に魔縁に堕ちた。それが、鞍馬山の天狗の始めじゃ」
「ああ、今や人間だけでも百坊は優に超え、その上に、我ら護法がおる」
 天狗はにっかりと、一見小気味よい笑顔を向けるが、やはり清明らを蔑む眼差しのまま。
「しかし、女性(にょしょう)の天狗とは……確か、鞍馬僧正坊様のもう一つの姿、陰陽師たる鬼一法眼様が造り出した、陰陽兵器なる者ありや、と聞いていたが」
「ほう、よく知っているな。如何にも私が、その陰陽兵器だ」
「六韜(りくとう)に隠された秘術を以て、護法と鬼の裔を掛け合わせたモノ――」(※2)
「故に私は、『護法鬼神』と呼ばれる」
 ばさり、と音を立て、その背に深い藍色の翼が顕れる。
 それは彼女の、妖物としての力の象徴であった。



第8話注釈

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※1 戌の方:十二支のうちの戌が指す方角。十時の方角、およそ西北西
※2 六韜:三巻六十編からなる古代中国の兵法書。源義経が譲り受けたとの伝説もある(義経記)

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