楽園の確率~Paradiseshift.第2章 失われたはし 失われたはし 第6話
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公開日:2017年04月03日 / 最終更新日:2017年04月03日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第2章
失われたはし 第6話
明くる日、頼光と綱の姿は兼家の邸ではなく、六条小路烏丸に面した寂れた館にあった。
板塀に囲まれた敷地の内からは荒武者達の下卑た笑い声が上がっているが、二人が居る部屋は、同じ館の中とは思えないほど静かなものである。
その静かな空間で、頼光と綱は、舘の主である満仲に頭を垂れている。
「頼光、それに綱よ。お前達の先走りが切っ掛けとは言え、事はようようと良き方へ運んだようじゃ。左京大夫様も大層お喜びであったぞ」
かの邸では満仲こそ、今の二人のように兼家に頭を垂れていたであろう満仲は、これも兼家がそうしていたであろう様子で、満足げに声を掛けた。
頼光は父の言葉に速やかに頭を上げ、険しい貌のまま述べる。
「しかし父上。件の鬼女、一旦は清明様が退けましたが、これはまだ退治た訳ではありませぬ。一刻も早く追捕の手を繰り出すべきであります」
綱は頭を下げたままであるが、こちらも同じ表情で押し黙っている。
「それよ。お前達が実際に目にし、かの清明殿が明らかにその勿怪を見たのだ。これよりは、我らの領分ぞ」
目に見えぬ、疫鬼病魔の類いであれば、祈祷や占に活躍を譲るのみである。
しかしこうして、姿を現し、確かに触れることが出来る相手であれば武士の出番。満仲の機嫌がこうも良さげなのは、兼家からの称賛だけでなくこれが理由である。
「そこでだ。お前達には褒美と共に、追捕の助けとなるよう、これを授けよう」
満仲から差し出されたのは、うり二つの拵えが施された二口の太刀。鞘も柄も真黒い漆を塗られ、鍔は僅かな透かしに留められた簡素な物。しかし細部には、金の細工も施されている。
貴族という身分から離れた武門の者に相応しい、見るからに質実剛健な逸品である。
「では、我らをその一員に!?」
太刀に手を伸ばすより先に、目を丸くしながら叫ぶ頼光。高鳴る心を抑えられない様子である。
満仲は、我が子の問いに鷹揚に頷く。
「そうじゃ。綱よ、俺も箕田(みた)の殿には大いに助けられた。此度の動きもそうであるが、元服したばかりとは言え頼りにしておる。頼光を助けてやってくれよ」(※)
箕田の殿とは、武蔵国国司として下向して以来、そちらに本拠を置く綱の祖父の事。主従としての関係はあっても、一人の人間としてよろしく頼むという満仲の言葉であった。
「勿体ない、お言葉でございます……」
背を震わせながら答える綱に、満仲はますます上機嫌で笑いながら立ち上がると、郎党らの喧噪の方へ去って行く。
満仲が去り、またも静まりかえった部屋で二人、頼光と綱は向き合う。
「綱よ、これらは兄弟刀なのだそうだ。我らにこそ相応しいとは思わないか?」
「なにゆえで、ございますか?」
二人はあくまで主従、血の繋がりは無い。
「この二振り、等しく八幡様のご加護を賜り、等しい武力を持っている。器物に血などは通っておらぬ、しかし兄弟なのだ」
だからこそ相応しいと、頼光は言う。己らはこれら器物になど負けぬ、強い絆を持っているのだと言う代わりである。
「お前は、こちらを佩け」
方や、髭ごと首を刈り取る刃、故に髭切。
方や、両膝を一堂に断つ刃、故に膝丸。
それら兄弟刀のうち、頼光は前者を突き出す。
「兄弟と言ってどちらが兄、弟と、殊更定める由もあるまい。これからも頼むぞ、綱!」
事態は依然として進行中である。そして、もしこれを巧く収めれば、例え地下(じげ)の者と言われようとも、家の名声は確固となるであろう。互いに。
そんな打算にも勝るのが頼光の赤心。それは確かに綱に伝わる。
「誠に、かたじけないお言葉……」
綱は面を下げたまま肩を震わせ、うやうやしく髭切を掲げる。
そう口にした通り、この太刀を授かった事、何より、熱い言葉を兄とも主とも敬愛する頼光より下されたのは、綱にとって無上の喜びである。
であるからこそ綱は、頼光に見えぬよう、苦悶の表情を浮かべ続けた。
綱に与えられた館の一室。
今は兼家の邸からこちらへ移って来た橋姫が、一人殺風景な庭を眺め、時折うつらうつらと、すっかり寂しくなった日差しの中で船を漕ぐ。
館の主も迎えた荒武者達の乱痴気騒ぎは、今よりたけなわと言った有り様であるのに、橋姫の周りだけは喧噪も和らいでいるようである。
だが一つだけ、和らがない音が廊下に響く。何者かが駆け寄って来たのだ。
「橋姫」
名を呼ばれ、確かに目を覚ました橋姫。月の光を写した色ではなく、秋の日差しをたたえた優しい目を、声の主である綱に向ける。
「そんなに慌てて、どうしたのです?」
「我らの、頼光様と俺の果たすべき事はおよそ定まった。だが橋姫の目的は、果たされたのか?」
今ならば助けになれる。
綱の目には、まだ物をよく知らぬ若者にありがちな根拠の無い自信と共に、大人びた不安の色が浮かぶ。彼の行おうとする“助け”には、二通りある。
一つは兼家邸での某かの要事。
そしてもう一つは――
(たとえ、お許がかの鬼女でも、俺ならば!)
頼光は清明の言葉にあっさりその疑いを解いたが、綱にはなぜか、それが信じられなかったのだ。橋姫を信じるなら、信じたいならば、そのまま受け止めればいいのに。
橋姫への疑念を捨てきれない。
綱の心は、少年から青年への過渡期であればこその、感受性と聡さを発揮していた。
「私が果たそうとしたこと、未だに分かりません。それより綱は、いえ頼光様もでしたが、なぜ行きずり同然の私を、そんなに気遣ってくれるのですか?」
「捨て置けないんだ。橋姫との出会いから、何か始まった気がして」
お高くとまった貴族の娘にも、男顔負けの武家の女にも無い、不思議な魅力が橋姫にはある
しかし綱の庇護欲は、そんな感情とはかけ離れた心奥からの物。
いずれにせよ、橋姫を助けたいという思いだけは変わらない。
「思ったのだが、まずは橋姫が元来た道程を辿ってみてはどうだろうか。さすれば道行きで、その時に何をどう考えていたか思い出しそうではないか?」
「ええ、どうせ私には何も当てが無いのです。覚えている場所から歩み始めれば、綱の言う通りに思い出すかも知れませんね」
にっかりと笑って同意する橋姫に、綱は意気揚々と――
「よし、では行こう。確か……叡山の谷、だったか?」
言ってはみたものの、曖昧な記憶にすぐに首を傾げてしまう。
「綱ったら。貴方が覚えていないのではどうしようもありませんよ。鞍馬です、私は鞍馬山の麓から参りました」
口元を押さえてひとしきり笑う橋姫。綱がばつが悪そうにするのを認めると、また静かかな笑みに戻って言う。
「堀川から賀茂川へと遡り、そこを延々と上れば辿り着きます」
そこで綱は「そうだった」と呟く。
今現在、かの鬼女が出現するかも知れない堀川の川沿い。橋姫が襲われるかも知れない、橋姫がかの鬼女と化すかも知れない。
それらはいずれも、あってはならぬ事。
(確か鬼女が現れたのは、いずれも夜であったな)
一条戻り橋での惨殺も、頼光と共に渡った四条の橋も、事の発端であった兼家の夢は当然、夜の話。そして今は幸い、寂しいながらも確かに、天頂より陽光が差している。
やはり今しかない。
「よし、これより行こう!」
「え、今から? でも頼光様や、ご主君に断りも無しに――」
「今日はあの有り様だ。いや、今しかない!」
年頃の男のこんな申し出など、まっとうな家の女(むすめ)なら断るかも知れない。だが橋姫には、彼が一切やましい心など抱いていないと分かっている。
橋姫は、一度だけ深い呼吸をすると、意を決して答える。
「ええ、いずれは参らねばならないのです。綱、お願いします」
すぐに支度を整えた二人は館を出でると、脇目も振らずに、太陽を背に駆けてゆくのであった。
∴
釣瓶落としに日も暮れた時分。
今日も今日とて、清明の邸には、博雅の姿があった。
これもいつも通り盃を傾けるものの、しかし博雅の顔色が冴えない。
「清明、結局動かぬのか?」
「言っただろう、俺はしがない官人よ」
「俺こそ言ったぞ。検非違使庁から陰陽寮への依頼、またも取り下げられたらしいと」
博雅の憤りは、清明に向いたものではない。
彼の活躍を阻もうとする者、この事件を画策したかも知れない者。そういった、表に姿を現さず、よからぬ事を目論む者達への憤りであり、何も出来ぬ己へも向いたものである。
「まさか、兼家様のお力も届かぬとはな」
「せめて鬼女の正体を知れればのお。して、陰陽寮には何も無かったのか?」
「うむ。方々にもお話を聞いて回ったよ。終いには、主計寮の保憲様にも」
「しかし分からぬ、か」
「保憲様でも知らぬとなれば、大内裏に知っている者は、おらぬとも思う」
「もし市井で挙げるとするなら、道摩法師。蘆屋道満殿ぐらいかな」
蘆屋道満とは、折りにつけ、清明らの周りに現れては、面倒を起こす陰陽師である。
しかし二人とも、此度の件だけは、彼が起こしたものとは考えていない。
彼の顔立ちや出で立ちは、誰が見ても良いとは言えない。そうではあっても、彼が女へ向ける真心がとても優しい物であるのを、二人は知っているからだ。
「あの男こそ、嫉妬より遙かに縁遠いか」
「そうだな……」
彼ならば、鬼女のおぞましき行いにも、同情しているかも知れない。今回の騒動で、今以て姿を現さないのは、そのためであろうと思えた。
陰陽寮にも確たる記録は無く、清明以上の知見を持った人間はおらず、占を以ても答えに行き着かない。
そして、動ける時間は限られている。当て無く調べて回るなど叶わない。
そこでふと、博雅は思い浮いた。
「鬼のことは、鬼がよく知っているのではないか?」
「ふむ、確かに」
博雅の言葉に、清明は短く感嘆の声を漏らす。
「ならば、これを持って行かねばな」
博雅が取り出したのは、かつて朱雀門の鬼より譲り受けた笛。
葉二の銘を持つ名器である。
朱雀門の鬼は、博雅の笛の腕を見込み、大層気に入っている。古今の名曲のみならず、博雅が葉二より上らせる笛の音は、それだけで風雅を体現するのだ。
しかし清明は首を振る。
「今はいらぬ。いや、あっても無駄ではないが」
「何を言うのだ、清明。いや、もしやお前、別の場所へ当てがあったのか?」
「始めからではないさ。お前の言葉で思い出したのだ。朱雀門のお方より、旧い鬼を」
それは、博雅も知らぬモノである。
「う、む。なにやら肝が冷えてきたぞ」
博雅とて、恐れというものは知っている。見ず知らずの、それも鬼が相手となれば、二の足を踏むのも当然。
「なんじゃ、共に行ってはくれぬのか」
「しかし、しかしじゃな……」
「お前が切っ掛けをくれたのだし、お前も、かの鬼女の正体、見極めたいであろう?」
「それは、あの橋姫の事もあるしなあ」
「これより会おうとする鬼も、雅の分からぬ方ではない。お前が居れば心強い」
これは、清明の赤心である。
清明という男にこうして頼りにされるのは、博雅にとって何よりも嬉しく辛い事である。
博雅が顔を歪めて悩みつつも、
「うむ」
と返事をし、立ち上がる。清明もそれに続く。
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
∴
清明と博雅は、大内裏の南、朱雀大路にて延々牛車を走らせる。
洛内とはいえ、夜盗も魑魅魍魎の類いにも油断は出来ぬが、そこは清明、牛車は傍からその姿を隠形し、誰の目にもつかずにそこに辿り着く。
洛内外の境となる門、羅城門である。
「なるほど、朱雀門よりもずっと、恐ろしい鬼が現れそうじゃ」
今は宵に沈み、闇の恐ろしさを纏う楼門であるが、これが昼であったなら、その荒びきったおどろおどろしさに、恐れをなしてしまうかも知れない。
それに清明は応えず、呪(しゅ)とも紛う言の葉を、その端正な口で紡ぐ。
「気霽風梳新柳髪(気はれて風新柳の髪をけずる)」
それは詩であった。
空は晴れ渡り、風は、美しい姫の髪のような新芽の柳を、櫛で梳(す)くように吹く。
その様な意である。
この詩には、継ぐべき句がある。
「氷消波洗旧苔髪(氷消えては波きゅうたいの髪を洗う)」
楼門の上から、たおやかでありつつもよく通る強い声が、雷鳴の代わりに地に落ちる。
「おや、髭ではなく、貴方も髪を洗われるのか」
本来この句は、髪を髭として、全ての言葉において対となる句とした物であった。
声の主は、あえて髪と詠った理由を、極めて端的に答える。
「生憎だが、私は、髭など生やしていないのでな」
楼門の屋根より、僅かに身を浮かした女が、そこにいた。
月下でも明るく見える牡丹色の狩衣、肩までで切り揃えられた髪。童子姿である。
「なるほど、紛う事無く鬼。貴方が、茨木童子か」
清明の問いには、是も非も返さず、彼女はただ「ふっ」と小さな笑い声を漏らした。
第6話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 箕田:現在の埼玉県鴻巣市北部の地域
失われたはし 第6話
明くる日、頼光と綱の姿は兼家の邸ではなく、六条小路烏丸に面した寂れた館にあった。
板塀に囲まれた敷地の内からは荒武者達の下卑た笑い声が上がっているが、二人が居る部屋は、同じ館の中とは思えないほど静かなものである。
その静かな空間で、頼光と綱は、舘の主である満仲に頭を垂れている。
「頼光、それに綱よ。お前達の先走りが切っ掛けとは言え、事はようようと良き方へ運んだようじゃ。左京大夫様も大層お喜びであったぞ」
かの邸では満仲こそ、今の二人のように兼家に頭を垂れていたであろう満仲は、これも兼家がそうしていたであろう様子で、満足げに声を掛けた。
頼光は父の言葉に速やかに頭を上げ、険しい貌のまま述べる。
「しかし父上。件の鬼女、一旦は清明様が退けましたが、これはまだ退治た訳ではありませぬ。一刻も早く追捕の手を繰り出すべきであります」
綱は頭を下げたままであるが、こちらも同じ表情で押し黙っている。
「それよ。お前達が実際に目にし、かの清明殿が明らかにその勿怪を見たのだ。これよりは、我らの領分ぞ」
目に見えぬ、疫鬼病魔の類いであれば、祈祷や占に活躍を譲るのみである。
しかしこうして、姿を現し、確かに触れることが出来る相手であれば武士の出番。満仲の機嫌がこうも良さげなのは、兼家からの称賛だけでなくこれが理由である。
「そこでだ。お前達には褒美と共に、追捕の助けとなるよう、これを授けよう」
満仲から差し出されたのは、うり二つの拵えが施された二口の太刀。鞘も柄も真黒い漆を塗られ、鍔は僅かな透かしに留められた簡素な物。しかし細部には、金の細工も施されている。
貴族という身分から離れた武門の者に相応しい、見るからに質実剛健な逸品である。
「では、我らをその一員に!?」
太刀に手を伸ばすより先に、目を丸くしながら叫ぶ頼光。高鳴る心を抑えられない様子である。
満仲は、我が子の問いに鷹揚に頷く。
「そうじゃ。綱よ、俺も箕田(みた)の殿には大いに助けられた。此度の動きもそうであるが、元服したばかりとは言え頼りにしておる。頼光を助けてやってくれよ」(※)
箕田の殿とは、武蔵国国司として下向して以来、そちらに本拠を置く綱の祖父の事。主従としての関係はあっても、一人の人間としてよろしく頼むという満仲の言葉であった。
「勿体ない、お言葉でございます……」
背を震わせながら答える綱に、満仲はますます上機嫌で笑いながら立ち上がると、郎党らの喧噪の方へ去って行く。
満仲が去り、またも静まりかえった部屋で二人、頼光と綱は向き合う。
「綱よ、これらは兄弟刀なのだそうだ。我らにこそ相応しいとは思わないか?」
「なにゆえで、ございますか?」
二人はあくまで主従、血の繋がりは無い。
「この二振り、等しく八幡様のご加護を賜り、等しい武力を持っている。器物に血などは通っておらぬ、しかし兄弟なのだ」
だからこそ相応しいと、頼光は言う。己らはこれら器物になど負けぬ、強い絆を持っているのだと言う代わりである。
「お前は、こちらを佩け」
方や、髭ごと首を刈り取る刃、故に髭切。
方や、両膝を一堂に断つ刃、故に膝丸。
それら兄弟刀のうち、頼光は前者を突き出す。
「兄弟と言ってどちらが兄、弟と、殊更定める由もあるまい。これからも頼むぞ、綱!」
事態は依然として進行中である。そして、もしこれを巧く収めれば、例え地下(じげ)の者と言われようとも、家の名声は確固となるであろう。互いに。
そんな打算にも勝るのが頼光の赤心。それは確かに綱に伝わる。
「誠に、かたじけないお言葉……」
綱は面を下げたまま肩を震わせ、うやうやしく髭切を掲げる。
そう口にした通り、この太刀を授かった事、何より、熱い言葉を兄とも主とも敬愛する頼光より下されたのは、綱にとって無上の喜びである。
であるからこそ綱は、頼光に見えぬよう、苦悶の表情を浮かべ続けた。
綱に与えられた館の一室。
今は兼家の邸からこちらへ移って来た橋姫が、一人殺風景な庭を眺め、時折うつらうつらと、すっかり寂しくなった日差しの中で船を漕ぐ。
館の主も迎えた荒武者達の乱痴気騒ぎは、今よりたけなわと言った有り様であるのに、橋姫の周りだけは喧噪も和らいでいるようである。
だが一つだけ、和らがない音が廊下に響く。何者かが駆け寄って来たのだ。
「橋姫」
名を呼ばれ、確かに目を覚ました橋姫。月の光を写した色ではなく、秋の日差しをたたえた優しい目を、声の主である綱に向ける。
「そんなに慌てて、どうしたのです?」
「我らの、頼光様と俺の果たすべき事はおよそ定まった。だが橋姫の目的は、果たされたのか?」
今ならば助けになれる。
綱の目には、まだ物をよく知らぬ若者にありがちな根拠の無い自信と共に、大人びた不安の色が浮かぶ。彼の行おうとする“助け”には、二通りある。
一つは兼家邸での某かの要事。
そしてもう一つは――
(たとえ、お許がかの鬼女でも、俺ならば!)
頼光は清明の言葉にあっさりその疑いを解いたが、綱にはなぜか、それが信じられなかったのだ。橋姫を信じるなら、信じたいならば、そのまま受け止めればいいのに。
橋姫への疑念を捨てきれない。
綱の心は、少年から青年への過渡期であればこその、感受性と聡さを発揮していた。
「私が果たそうとしたこと、未だに分かりません。それより綱は、いえ頼光様もでしたが、なぜ行きずり同然の私を、そんなに気遣ってくれるのですか?」
「捨て置けないんだ。橋姫との出会いから、何か始まった気がして」
お高くとまった貴族の娘にも、男顔負けの武家の女にも無い、不思議な魅力が橋姫にはある
しかし綱の庇護欲は、そんな感情とはかけ離れた心奥からの物。
いずれにせよ、橋姫を助けたいという思いだけは変わらない。
「思ったのだが、まずは橋姫が元来た道程を辿ってみてはどうだろうか。さすれば道行きで、その時に何をどう考えていたか思い出しそうではないか?」
「ええ、どうせ私には何も当てが無いのです。覚えている場所から歩み始めれば、綱の言う通りに思い出すかも知れませんね」
にっかりと笑って同意する橋姫に、綱は意気揚々と――
「よし、では行こう。確か……叡山の谷、だったか?」
言ってはみたものの、曖昧な記憶にすぐに首を傾げてしまう。
「綱ったら。貴方が覚えていないのではどうしようもありませんよ。鞍馬です、私は鞍馬山の麓から参りました」
口元を押さえてひとしきり笑う橋姫。綱がばつが悪そうにするのを認めると、また静かかな笑みに戻って言う。
「堀川から賀茂川へと遡り、そこを延々と上れば辿り着きます」
そこで綱は「そうだった」と呟く。
今現在、かの鬼女が出現するかも知れない堀川の川沿い。橋姫が襲われるかも知れない、橋姫がかの鬼女と化すかも知れない。
それらはいずれも、あってはならぬ事。
(確か鬼女が現れたのは、いずれも夜であったな)
一条戻り橋での惨殺も、頼光と共に渡った四条の橋も、事の発端であった兼家の夢は当然、夜の話。そして今は幸い、寂しいながらも確かに、天頂より陽光が差している。
やはり今しかない。
「よし、これより行こう!」
「え、今から? でも頼光様や、ご主君に断りも無しに――」
「今日はあの有り様だ。いや、今しかない!」
年頃の男のこんな申し出など、まっとうな家の女(むすめ)なら断るかも知れない。だが橋姫には、彼が一切やましい心など抱いていないと分かっている。
橋姫は、一度だけ深い呼吸をすると、意を決して答える。
「ええ、いずれは参らねばならないのです。綱、お願いします」
すぐに支度を整えた二人は館を出でると、脇目も振らずに、太陽を背に駆けてゆくのであった。
∴
釣瓶落としに日も暮れた時分。
今日も今日とて、清明の邸には、博雅の姿があった。
これもいつも通り盃を傾けるものの、しかし博雅の顔色が冴えない。
「清明、結局動かぬのか?」
「言っただろう、俺はしがない官人よ」
「俺こそ言ったぞ。検非違使庁から陰陽寮への依頼、またも取り下げられたらしいと」
博雅の憤りは、清明に向いたものではない。
彼の活躍を阻もうとする者、この事件を画策したかも知れない者。そういった、表に姿を現さず、よからぬ事を目論む者達への憤りであり、何も出来ぬ己へも向いたものである。
「まさか、兼家様のお力も届かぬとはな」
「せめて鬼女の正体を知れればのお。して、陰陽寮には何も無かったのか?」
「うむ。方々にもお話を聞いて回ったよ。終いには、主計寮の保憲様にも」
「しかし分からぬ、か」
「保憲様でも知らぬとなれば、大内裏に知っている者は、おらぬとも思う」
「もし市井で挙げるとするなら、道摩法師。蘆屋道満殿ぐらいかな」
蘆屋道満とは、折りにつけ、清明らの周りに現れては、面倒を起こす陰陽師である。
しかし二人とも、此度の件だけは、彼が起こしたものとは考えていない。
彼の顔立ちや出で立ちは、誰が見ても良いとは言えない。そうではあっても、彼が女へ向ける真心がとても優しい物であるのを、二人は知っているからだ。
「あの男こそ、嫉妬より遙かに縁遠いか」
「そうだな……」
彼ならば、鬼女のおぞましき行いにも、同情しているかも知れない。今回の騒動で、今以て姿を現さないのは、そのためであろうと思えた。
陰陽寮にも確たる記録は無く、清明以上の知見を持った人間はおらず、占を以ても答えに行き着かない。
そして、動ける時間は限られている。当て無く調べて回るなど叶わない。
そこでふと、博雅は思い浮いた。
「鬼のことは、鬼がよく知っているのではないか?」
「ふむ、確かに」
博雅の言葉に、清明は短く感嘆の声を漏らす。
「ならば、これを持って行かねばな」
博雅が取り出したのは、かつて朱雀門の鬼より譲り受けた笛。
葉二の銘を持つ名器である。
朱雀門の鬼は、博雅の笛の腕を見込み、大層気に入っている。古今の名曲のみならず、博雅が葉二より上らせる笛の音は、それだけで風雅を体現するのだ。
しかし清明は首を振る。
「今はいらぬ。いや、あっても無駄ではないが」
「何を言うのだ、清明。いや、もしやお前、別の場所へ当てがあったのか?」
「始めからではないさ。お前の言葉で思い出したのだ。朱雀門のお方より、旧い鬼を」
それは、博雅も知らぬモノである。
「う、む。なにやら肝が冷えてきたぞ」
博雅とて、恐れというものは知っている。見ず知らずの、それも鬼が相手となれば、二の足を踏むのも当然。
「なんじゃ、共に行ってはくれぬのか」
「しかし、しかしじゃな……」
「お前が切っ掛けをくれたのだし、お前も、かの鬼女の正体、見極めたいであろう?」
「それは、あの橋姫の事もあるしなあ」
「これより会おうとする鬼も、雅の分からぬ方ではない。お前が居れば心強い」
これは、清明の赤心である。
清明という男にこうして頼りにされるのは、博雅にとって何よりも嬉しく辛い事である。
博雅が顔を歪めて悩みつつも、
「うむ」
と返事をし、立ち上がる。清明もそれに続く。
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
∴
清明と博雅は、大内裏の南、朱雀大路にて延々牛車を走らせる。
洛内とはいえ、夜盗も魑魅魍魎の類いにも油断は出来ぬが、そこは清明、牛車は傍からその姿を隠形し、誰の目にもつかずにそこに辿り着く。
洛内外の境となる門、羅城門である。
「なるほど、朱雀門よりもずっと、恐ろしい鬼が現れそうじゃ」
今は宵に沈み、闇の恐ろしさを纏う楼門であるが、これが昼であったなら、その荒びきったおどろおどろしさに、恐れをなしてしまうかも知れない。
それに清明は応えず、呪(しゅ)とも紛う言の葉を、その端正な口で紡ぐ。
「気霽風梳新柳髪(気はれて風新柳の髪をけずる)」
それは詩であった。
空は晴れ渡り、風は、美しい姫の髪のような新芽の柳を、櫛で梳(す)くように吹く。
その様な意である。
この詩には、継ぐべき句がある。
「氷消波洗旧苔髪(氷消えては波きゅうたいの髪を洗う)」
楼門の上から、たおやかでありつつもよく通る強い声が、雷鳴の代わりに地に落ちる。
「おや、髭ではなく、貴方も髪を洗われるのか」
本来この句は、髪を髭として、全ての言葉において対となる句とした物であった。
声の主は、あえて髪と詠った理由を、極めて端的に答える。
「生憎だが、私は、髭など生やしていないのでな」
楼門の屋根より、僅かに身を浮かした女が、そこにいた。
月下でも明るく見える牡丹色の狩衣、肩までで切り揃えられた髪。童子姿である。
「なるほど、紛う事無く鬼。貴方が、茨木童子か」
清明の問いには、是も非も返さず、彼女はただ「ふっ」と小さな笑い声を漏らした。
第6話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 箕田:現在の埼玉県鴻巣市北部の地域
第2章 失われたはし 一覧
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