楽園の確率~Paradiseshift.第2章 失われたはし 失われたはし 第2話
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公開日:2017年02月27日 / 最終更新日:2017年02月27日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第2章
失われたはし 第2話
頼綱と綱の二人は、腰に佩いた太刀に手を掛けつつ、法面を下る。
河原で対峙しているのは、双方無法の者と見たが、ともあれ女だけは良民(※1)と見える。助けねばなるまい。そう、若い正義感を胸に二人は駆ける。
頼光と綱が河川敷に降り立ち、無法者達に名乗りを上げるより先に、二人の耳を怒声がつんざく。
「てめぇら! 女一人によってたかって刃物向けるたぁどういう了見だ! 清明の旦那の目と鼻の先で狼藉を働いてみやがれ、まとめて堀川に叩っ込んでやる!」
浮浪人(※2)達の先頭に立つ、白髪頭の翁が派手に啖呵を切った。意外にも、彼らは女を守ってる様子である。それも清明を意識しての事。
賊共はこれに臆しつつも、浮浪人達ににじり寄る。二人はその中間に立ちはだかり、灯火を掲げつつ名乗りを上げる。
「我こそは清和帝の裔(すえ)、多田満仲が長子頼光。京中での狼藉、見過ごすわけにはいかぬ。大人しく引き下がらねば斬って捨てるぞ!」(※3,4)
「我は源頼光が一の郎党、渡辺綱。賊に立ち向かおうとする其方ら、助太刀いたそう!」
白髪の翁は、綱の言葉に「かたじけねぇ」と応じつつ、浮浪人達に石を拾うよう命じる。
若くはあるが太刀を構えた武者二人に、後ろにはありったけの石を投げ付けようとする十人余りの浮浪人。賊は圧力に押されて川縁に追い詰められる。
「くそっ、覚えていやがれ!」
賊共はついに、川向こうに退散してゆく。悪党にお定まりの言葉を吐き捨てながら。
頼光と綱は、油断なくそれを見送ってから太刀を納め、浮浪人達に向き直る。すると先頭に立っていた翁が、堂々とした様子で語りかけてきた。
「おう、お武家さん方。ちょいと面倒だろうがこれも何かの縁だと思って、この娘さん、安全な所まで連れて行ってやっちゃくれねえか?」
襤褸ばかりを着た小汚い集団の中で、彼は割合まともな風体を保っている。しかしどうも盲(めしい)らしく、頼光が真正面から見据えてみても、視線は交わらない。
「うぅむ、やぶさかでは無いが」
今は、主である兼家の邸へ急ぐ身。こうして助けに入ったのも、女に急迫した危機があると思ってのこと。それが除かれた今、これ以上関わる由もあるまい。
頼光がそう思っているそばで、綱も同じくこれ以上はと思いながらも、こちらは直接問いかける。
「ときに御許。供の者は―」
そこまで言って、綱は息を呑む。
風を象ったかの様に波打つ緑髪が、それと対照的な真白い顔を薄布の代わりに僅かに覆う。その下の瞳は、見つめる者の心を飲み込んでまだ余りあるほどに大きい。
絶世の美女、という者を見た覚えは無いが、眉を引き、歯を塗った瓜実顔の、今でこそ見慣れた公家の女とはまた違う魅力を、綱は感じた。
「どうしても、どうしても今宵赴かねばならぬ所がありまして、一人歩み出たのです」
「どこに行く、つもりだったのかな」
「それが、先の悪漢に一度殴られてから……よく分かりませぬ」
女に手を挙げたのか。身ぐるみ剥ぐでなければ、そのままどこかへ売り飛ばすつもりであったのか。あの様な悪党共は追ってでも討てばよかったと、綱は強い怒りを覚える。
「では、お住まいはいずこか」
「かつては洛中に住んでおりましたが、今は鞍馬山の麓の谷に庵を結び、僅かな使用人と細々暮らしております」
「また随分と離れた所から……」
堀川を北に行って賀茂川に合流し、更に遡った先。真っ直ぐに行っても三里はある。女の足で、それも暗夜をよくもまあと感心しつつも、なんと無謀なことかと綱は頭を振る。
「頼光様。この方をお住まいにお連れしようにも、今日中にたどり着ける場所ではありませぬ。かくなる上は――」
「俺もそう思っておった。仕方ない、今宵は我らと供に参れ。宿を取らせよう」
そうして身も心も落ち着ければ、用事も思い出すかも知れない。彼女がどれだけ急いでいたかは分からないが、急ぐのはこちらも同じと、頼光は綱に案内を命じる。
「俺は、先も名乗ったが源頼光と言う。これは郎党の渡辺綱だ。御許の名は?」
「私は、はしひめ、と申します」
「橋姫か、不思議な名だ。いや、馬鹿にしているのではない。斯様な所で会うには実に相応しい、まるで何者かが引き合わせてくれた様ではないか。なぁ?」
「え、ええ、はい」
綱は頼光の言葉を呆と捉え、生返事を返す。
彼は、自身でも不安になるほど、微笑みを向ける橋姫の姿に浮かれてしまっていた。
若武者達が兼家邸に帰ってみれば、主は床に入る寸前であった。
頼光は、あれやこれやと無理を言い、父満仲を介して兼家へのお目通りを叶えると、清明の託した人形を渡し、それをどの様に用いるのかも伝えた。
兼家は清明のまじないと聞いて大層満足げであったが、頼光は勝手に出歩いたのを始めとする理由で、父にさんざんな小言を浴びせられる羽目になった。
一方、橋姫を自分たちの部屋へ連れた綱は、辛くもそれから逃れていた。
「すまぬ。今日は特別なことがあって寝床の空きが無くなってしまった。不満はあるだろうが、今宵は俺達と同じ部屋で過ごしてくれ」
橋姫は緩やかに首を振ってから、にこりと微笑む。その笑顔、まずは彼らが決して非道い真似をする輩でないと判じたからであった。それにこの部屋から眺める庭の様子が、月明かりだけでも満足な物であったのも。
橋姫は庭に顔を戻し、ふと、その月を見上げる。
綱は、月明かりと部屋の燈に照らされたその顔に、改めてハッとする。よくよく見れば、年頃は頼光と綱の中間。綱からすれば姉にも見える。
しかし彼が驚きを催したのは無論、歳についてでは無い。今彼が見る橋姫の頭髪は金色に、目は透き通った硬玉の様な緑色に輝いているのだ。
髪の色は月明かり故と納得できよう。だが目の色は――
彼は橋姫の方へ手を伸ばす。橋姫はそれに気づき振り向く。そこには波打つ黒髪と、より深い黒色の瞳があるだけ。不可思議な現象は、既に消えていた。
「綱様、どうかなさいましたか?」
「綱と呼んでくれ。橋姫はその、俺より年上の様だし、そう呼ばれるのはくすぐったい」
これに橋姫は「まあ」と大きな目を更に見開いて驚いた風にしてから、ころころと笑い始める。
「歳がどうだなどと。しかし綱が言うなら、私もそうお呼びしましょう」
彼はこれに「うむ」と満足げに答え、橋姫の真黒な瞳を見返す。
少しばかり打ち解けた二人は、橋姫の本来の行き先や住まい、今はこの場に居ない頼光についてなど、つらつらと話し続けるのであった。
∴
明くる日、朝早くから、兼家の邸に訪れる牛車があった。
車から降りたのは二人の男。晴明と、博雅である。
二人の来訪を聞いた兼家は、すぐに彼らを歓待する。
「よくぞ来てくれた、清明。それに博雅も」
いつもの様に、博雅に笛をせがむでもなく、自ら邸の奥へ案内する。
そこには二人の少年、頼光と綱が、座して待っていた。
「まずはこの若武者らのお陰、そして何より清明のお陰だ」
博雅は、少々居心地が悪そうに、清明に視線を送る。己はただ、道行きの途上でこの二人を連れたに過ぎない。場違いであると。
清明はそちらを気にせず、兼家に頭を下げる。
「何事も無かったようで、何よりであります」
「おうおう、お主のくれたこの人形が、儂より災いを退けてくれたのであろう」
そう言って兼家が、清明の預けた紙の人形を差し出すと、
「兼家様。昨日、件の夢はご覧になりましたでしょうか?」
清明が問う。
「ああ、あの霊夢も見なかった」
「左様でありますか」
清明は、またひとたび頭を下げてから、若武者達に向き直る。
「何より、彼らの忠孝ゆえ、それを集める兼家様の人徳ゆえでございます」
清明は、兼家は何者かに守られているのだと説く。
兼家はいよいよ上機嫌で、四人に朝餉の供を勧め、いずれもそれに応じるのであった。
朝餉が終わり、別室にて朝露に濡れた金木犀(きんもくせい)を香りを味わう清明と博雅。
「清明、何を難しい顔をしているんだ?」
「いや、兼家様がやはり、件の夢を「霊夢」と仰られたのだ」
これは頼光が、始めに語っていた言葉そのままであるが、清明は、これを伝聞の中でのそ齬と捉えていた。
だが先ほど、兼家の口から、確かにその一語が紡がれた。
「おれは、これを「凶夢」と思っていたのだ」
「ほう」
「凶夢と霊夢、違いは分かるか?」
「無論。霊夢とは、神仏が夢を通して下さる託宣。凶夢は、何者かによるか分からぬ不吉の前触れ。ともすればそれその物が、害を為そうという物だ」
「ああ。兼家様は、政の中枢におられるお方。言葉の意味を違えるのが、何をもたらすのかをよく知っておられる」
「それは、お前がよく言う呪(しゅ)か?」
「ああ、これも呪だ」
「呪については今はいい。ではお前は、兼家様の凶夢を除くつもりであったのか?」
「ああ、だからおれは、人形を託したのだ」
それが何者かの災いを受けてくれるであろう。清明の意図は、それであった。
「だが、人形は無傷」
「それに兼家様が、なぜその様な不吉な夢を霊夢と称したのか。これも気になる」
「ううむ」
博雅は腕を組み、傾げた首を庭に向ける。
はす向かいの部屋では、綱と少女が語らい合っている。
「おお、若いとはいいなぁ」
ちょうど博雅と同じ方を向いた清明の、反応が鈍い。何か深く考え込んでいる。
「どうした?」
「いや、もしやと思った事があってな」
「何が、もしや、なのだ」
「考え違いかも知れぬ。今は言えないな」
「お前がそう言って、外れていたためしがあったか?」
「さてな」
清明は、綱の隣に座る少女、橋姫に、強い視線を投げかけた。
第2話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 良民:律令制下における市民を、賤民や浮浪者などと区別した語。公民とも呼ぶ。
※2 浮浪人:浮浪者。課税などから逃れるため、本来居住すべき土地を離れた者
※3 清和帝:清和天皇。在位、西暦858年~876年。清和源氏の祖
※4 京中:一条から九条、京極から朱雀の内側の地域。後に洛中とも呼んだ。
失われたはし 第2話
頼綱と綱の二人は、腰に佩いた太刀に手を掛けつつ、法面を下る。
河原で対峙しているのは、双方無法の者と見たが、ともあれ女だけは良民(※1)と見える。助けねばなるまい。そう、若い正義感を胸に二人は駆ける。
頼光と綱が河川敷に降り立ち、無法者達に名乗りを上げるより先に、二人の耳を怒声がつんざく。
「てめぇら! 女一人によってたかって刃物向けるたぁどういう了見だ! 清明の旦那の目と鼻の先で狼藉を働いてみやがれ、まとめて堀川に叩っ込んでやる!」
浮浪人(※2)達の先頭に立つ、白髪頭の翁が派手に啖呵を切った。意外にも、彼らは女を守ってる様子である。それも清明を意識しての事。
賊共はこれに臆しつつも、浮浪人達ににじり寄る。二人はその中間に立ちはだかり、灯火を掲げつつ名乗りを上げる。
「我こそは清和帝の裔(すえ)、多田満仲が長子頼光。京中での狼藉、見過ごすわけにはいかぬ。大人しく引き下がらねば斬って捨てるぞ!」(※3,4)
「我は源頼光が一の郎党、渡辺綱。賊に立ち向かおうとする其方ら、助太刀いたそう!」
白髪の翁は、綱の言葉に「かたじけねぇ」と応じつつ、浮浪人達に石を拾うよう命じる。
若くはあるが太刀を構えた武者二人に、後ろにはありったけの石を投げ付けようとする十人余りの浮浪人。賊は圧力に押されて川縁に追い詰められる。
「くそっ、覚えていやがれ!」
賊共はついに、川向こうに退散してゆく。悪党にお定まりの言葉を吐き捨てながら。
頼光と綱は、油断なくそれを見送ってから太刀を納め、浮浪人達に向き直る。すると先頭に立っていた翁が、堂々とした様子で語りかけてきた。
「おう、お武家さん方。ちょいと面倒だろうがこれも何かの縁だと思って、この娘さん、安全な所まで連れて行ってやっちゃくれねえか?」
襤褸ばかりを着た小汚い集団の中で、彼は割合まともな風体を保っている。しかしどうも盲(めしい)らしく、頼光が真正面から見据えてみても、視線は交わらない。
「うぅむ、やぶさかでは無いが」
今は、主である兼家の邸へ急ぐ身。こうして助けに入ったのも、女に急迫した危機があると思ってのこと。それが除かれた今、これ以上関わる由もあるまい。
頼光がそう思っているそばで、綱も同じくこれ以上はと思いながらも、こちらは直接問いかける。
「ときに御許。供の者は―」
そこまで言って、綱は息を呑む。
風を象ったかの様に波打つ緑髪が、それと対照的な真白い顔を薄布の代わりに僅かに覆う。その下の瞳は、見つめる者の心を飲み込んでまだ余りあるほどに大きい。
絶世の美女、という者を見た覚えは無いが、眉を引き、歯を塗った瓜実顔の、今でこそ見慣れた公家の女とはまた違う魅力を、綱は感じた。
「どうしても、どうしても今宵赴かねばならぬ所がありまして、一人歩み出たのです」
「どこに行く、つもりだったのかな」
「それが、先の悪漢に一度殴られてから……よく分かりませぬ」
女に手を挙げたのか。身ぐるみ剥ぐでなければ、そのままどこかへ売り飛ばすつもりであったのか。あの様な悪党共は追ってでも討てばよかったと、綱は強い怒りを覚える。
「では、お住まいはいずこか」
「かつては洛中に住んでおりましたが、今は鞍馬山の麓の谷に庵を結び、僅かな使用人と細々暮らしております」
「また随分と離れた所から……」
堀川を北に行って賀茂川に合流し、更に遡った先。真っ直ぐに行っても三里はある。女の足で、それも暗夜をよくもまあと感心しつつも、なんと無謀なことかと綱は頭を振る。
「頼光様。この方をお住まいにお連れしようにも、今日中にたどり着ける場所ではありませぬ。かくなる上は――」
「俺もそう思っておった。仕方ない、今宵は我らと供に参れ。宿を取らせよう」
そうして身も心も落ち着ければ、用事も思い出すかも知れない。彼女がどれだけ急いでいたかは分からないが、急ぐのはこちらも同じと、頼光は綱に案内を命じる。
「俺は、先も名乗ったが源頼光と言う。これは郎党の渡辺綱だ。御許の名は?」
「私は、はしひめ、と申します」
「橋姫か、不思議な名だ。いや、馬鹿にしているのではない。斯様な所で会うには実に相応しい、まるで何者かが引き合わせてくれた様ではないか。なぁ?」
「え、ええ、はい」
綱は頼光の言葉を呆と捉え、生返事を返す。
彼は、自身でも不安になるほど、微笑みを向ける橋姫の姿に浮かれてしまっていた。
若武者達が兼家邸に帰ってみれば、主は床に入る寸前であった。
頼光は、あれやこれやと無理を言い、父満仲を介して兼家へのお目通りを叶えると、清明の託した人形を渡し、それをどの様に用いるのかも伝えた。
兼家は清明のまじないと聞いて大層満足げであったが、頼光は勝手に出歩いたのを始めとする理由で、父にさんざんな小言を浴びせられる羽目になった。
一方、橋姫を自分たちの部屋へ連れた綱は、辛くもそれから逃れていた。
「すまぬ。今日は特別なことがあって寝床の空きが無くなってしまった。不満はあるだろうが、今宵は俺達と同じ部屋で過ごしてくれ」
橋姫は緩やかに首を振ってから、にこりと微笑む。その笑顔、まずは彼らが決して非道い真似をする輩でないと判じたからであった。それにこの部屋から眺める庭の様子が、月明かりだけでも満足な物であったのも。
橋姫は庭に顔を戻し、ふと、その月を見上げる。
綱は、月明かりと部屋の燈に照らされたその顔に、改めてハッとする。よくよく見れば、年頃は頼光と綱の中間。綱からすれば姉にも見える。
しかし彼が驚きを催したのは無論、歳についてでは無い。今彼が見る橋姫の頭髪は金色に、目は透き通った硬玉の様な緑色に輝いているのだ。
髪の色は月明かり故と納得できよう。だが目の色は――
彼は橋姫の方へ手を伸ばす。橋姫はそれに気づき振り向く。そこには波打つ黒髪と、より深い黒色の瞳があるだけ。不可思議な現象は、既に消えていた。
「綱様、どうかなさいましたか?」
「綱と呼んでくれ。橋姫はその、俺より年上の様だし、そう呼ばれるのはくすぐったい」
これに橋姫は「まあ」と大きな目を更に見開いて驚いた風にしてから、ころころと笑い始める。
「歳がどうだなどと。しかし綱が言うなら、私もそうお呼びしましょう」
彼はこれに「うむ」と満足げに答え、橋姫の真黒な瞳を見返す。
少しばかり打ち解けた二人は、橋姫の本来の行き先や住まい、今はこの場に居ない頼光についてなど、つらつらと話し続けるのであった。
∴
明くる日、朝早くから、兼家の邸に訪れる牛車があった。
車から降りたのは二人の男。晴明と、博雅である。
二人の来訪を聞いた兼家は、すぐに彼らを歓待する。
「よくぞ来てくれた、清明。それに博雅も」
いつもの様に、博雅に笛をせがむでもなく、自ら邸の奥へ案内する。
そこには二人の少年、頼光と綱が、座して待っていた。
「まずはこの若武者らのお陰、そして何より清明のお陰だ」
博雅は、少々居心地が悪そうに、清明に視線を送る。己はただ、道行きの途上でこの二人を連れたに過ぎない。場違いであると。
清明はそちらを気にせず、兼家に頭を下げる。
「何事も無かったようで、何よりであります」
「おうおう、お主のくれたこの人形が、儂より災いを退けてくれたのであろう」
そう言って兼家が、清明の預けた紙の人形を差し出すと、
「兼家様。昨日、件の夢はご覧になりましたでしょうか?」
清明が問う。
「ああ、あの霊夢も見なかった」
「左様でありますか」
清明は、またひとたび頭を下げてから、若武者達に向き直る。
「何より、彼らの忠孝ゆえ、それを集める兼家様の人徳ゆえでございます」
清明は、兼家は何者かに守られているのだと説く。
兼家はいよいよ上機嫌で、四人に朝餉の供を勧め、いずれもそれに応じるのであった。
朝餉が終わり、別室にて朝露に濡れた金木犀(きんもくせい)を香りを味わう清明と博雅。
「清明、何を難しい顔をしているんだ?」
「いや、兼家様がやはり、件の夢を「霊夢」と仰られたのだ」
これは頼光が、始めに語っていた言葉そのままであるが、清明は、これを伝聞の中でのそ齬と捉えていた。
だが先ほど、兼家の口から、確かにその一語が紡がれた。
「おれは、これを「凶夢」と思っていたのだ」
「ほう」
「凶夢と霊夢、違いは分かるか?」
「無論。霊夢とは、神仏が夢を通して下さる託宣。凶夢は、何者かによるか分からぬ不吉の前触れ。ともすればそれその物が、害を為そうという物だ」
「ああ。兼家様は、政の中枢におられるお方。言葉の意味を違えるのが、何をもたらすのかをよく知っておられる」
「それは、お前がよく言う呪(しゅ)か?」
「ああ、これも呪だ」
「呪については今はいい。ではお前は、兼家様の凶夢を除くつもりであったのか?」
「ああ、だからおれは、人形を託したのだ」
それが何者かの災いを受けてくれるであろう。清明の意図は、それであった。
「だが、人形は無傷」
「それに兼家様が、なぜその様な不吉な夢を霊夢と称したのか。これも気になる」
「ううむ」
博雅は腕を組み、傾げた首を庭に向ける。
はす向かいの部屋では、綱と少女が語らい合っている。
「おお、若いとはいいなぁ」
ちょうど博雅と同じ方を向いた清明の、反応が鈍い。何か深く考え込んでいる。
「どうした?」
「いや、もしやと思った事があってな」
「何が、もしや、なのだ」
「考え違いかも知れぬ。今は言えないな」
「お前がそう言って、外れていたためしがあったか?」
「さてな」
清明は、綱の隣に座る少女、橋姫に、強い視線を投げかけた。
第2話注釈
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 良民:律令制下における市民を、賤民や浮浪者などと区別した語。公民とも呼ぶ。
※2 浮浪人:浮浪者。課税などから逃れるため、本来居住すべき土地を離れた者
※3 清和帝:清和天皇。在位、西暦858年~876年。清和源氏の祖
※4 京中:一条から九条、京極から朱雀の内側の地域。後に洛中とも呼んだ。
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