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オリジナル小説逆運の神子第一章 神の子   神の子 第3話 

所属カテゴリー: 逆運の神子第一章 神の子

公開日:2017年01月25日 / 最終更新日:2017年03月22日

神の子 第3話 
序章 神の子



 気分が最高に悪い日に限って、天気も最高に悪かった。
 横殴りの雨に、差した傘が吹き飛ばされそうになるほどの強風。嵐の一歩手前だ。
「お、お嬢さま。やっぱりもうちょっと弱まるのを待った方が」
 弱音を吐く薫。顔も弱り切っている。
 しかしながら、そのお願いを聞いてやれるだけの余裕なんて、今の私にはない。
「嫌よ。早くしないとヤツに会わなきゃいけなくなるじゃない」
「もう! またそういうことを言、」
「いいから早く出なさい」
 急かすと、渋々と玄関から出てくる。叱られた犬のように項垂れながら。
 傘をしっかりと持ち、薫の肩と並んだところで、里に向かって下り始めた。
 里の最北に位置する我が家は、小高い丘の上にあるという関係上、外出するときは基本、屋敷と里とを繋いでいる大通りを頼っている。長久坂通り、という名の。
「長久」とつくだけあって、この坂路はなかなかに長い。なだらかなのが救いだけど、それでも毎日のように通行する身としてはうんざりとする坂だった。里人にもあまりいい顔をされない坂路である。
 さすがにこの天候で出歩く人は少ない。というか、皆無だった。大通りには猫の一匹すらおらず、往来の左右にわかれた店や宿は、木戸を閉ざして休業体勢に入っている。
「そりゃあそうよね」
 独り言が風雨に掻き消される。
 どうせなら、この苛立ちも一緒に掻き消して欲しかった。

『二日ほど留守にする。明日、風祭の家へ挨拶に行くように 銀地』
 昨日、風呂上がりに読んだ書き置きがこれ。達筆すぎて読みづらい崩し文字に、銀地の二文字。どうしようもなく父上の手によるものだった。
 父上が残していく手書の大半は不善な内容だけれど、昨日のは特段ひどかった。
 風祭家に行け? 冗談じゃない。私がどれだけあの家を嫌っているのか、知らないわけがないのに。知らぬ顔ができないよう、ことあるごとに主張を繰り返してもきたのだし。
 それでも……それでも、行かなければならないのが泣き所だ。書き置きのとおりに。風祭の家に、挨拶へ。他でもない私が。黒髪家嫡子の私が。自分を曲げてでも。
 命令云々ということではなく、これは来年の春に控えた私の、家督継承の儀式が絡んだことだからだ。
 あと一月で今年も終わる。あと四月も経てば、私も十四歳になる。その前に大事な行事があるけれど、それさえ終われば、晴れて私が黒髪家の長だ。
 この挨拶回りは、今後里をまとめる者として、私自らが各要人に頭を下げに行かなければならないものなのである。いくら嫌な相手であっても、里のためにと堪えて頭を下げる。そうやって調和をはかることが、上に立つ者の仕事のひとつなのだから。歴代の長子も、みんなこの道を通ってきた。
 ―家長としての器量を見せてみよ。
 父上はこう言いたかったのではないかと、書き置きを眺めながら思った。
 真に家を想い、里を想っているのなら、自己よりも大事なものがあろう。たとえ不本意であったとしても、頭を垂れるくらい造作もなかろう。
 このように読み解いたからこそ、私は昨晩、布団の中で、今までの人生に踏ん切りをつける決心をした(心の準備だけは前々からしていた)。
 もう、子どもでいられる時間は終わった。自分の心が第一優先でいられる時間は終わったんだ。明日からは一人の大人として、世のため人のために生きていかなければ。なに、他人より半年ほど早く一人前として扱われるだけのことじゃない。
 ところが、一夜明けてみればどうだ。
 風祭家に行きたくないという一心は少しも拭えておらず、支度をする私の後ろ髪を引っ張ってきた。振り払おうとすれば、今度は足を掴んで行かせまいとしてきた。ほうら、外は大雨よ。無理をする必要なんてないじゃない。
 そんな柔弱な己の心が嫌で嫌で、苛立ちばかりが募った。風祭家に行かなければならないという圧力のせいなんかではなく。
 どうして私は、こんなにも意思が弱いのか。
 大人になると決めたはずなのに。子どもだった私とは決別したはずなのに。このままじゃ、父上に嘲笑われてしまう。父上だけじゃない。みんなから見下されてしまう。所詮お前はこの程度なのだ。やはり女には荷が勝ちすぎるのだ―なんて。
 だから歩いた。氷雨のように冷たい雨の中を。
 だから急いだ。限りなく暴風に近い向かい風の中を。
 嫌なことになんて、これからいくらでも出くわすんだから。これくらいでへこたれてなんていられない。
 
 薫に顰蹙を買ってまで我を張り続けた甲斐あって(?)、朗報が待っていた。
 我が陰月国(かげつきのくに)きっての名門・風祭家の敷居を跨ぐなり出くわした給仕さん曰く、
「坊ちゃまならお出かけになられておりますよ」
 だそうだ。
 ずぶ濡れになっていた私たちを見るなり手ぬぐいを用意してくれた彼女は、愛想のいいおたふく顔で自慢げに、
「坊ちゃまは責任感の強いお方でしてねえ。こんな嵐みたいな日でも、お勤めを欠かさないんですよ。今だって馬場の方へお出になられていましてね。馬が心配だからと。なんとまあ、心根の優しいことじゃありませんか」
 優しい? つい失笑しかけてしまった。
 私がこの世で一番嫌いなヤツがその『坊ちゃま』だと言ったら、この給仕さんはどんな顔をするかしら。
 薫がまだ髪を拭っているからか、彼女は自慢話を止めようとしない。段々聞くに堪えなくなってきて、こちらから遮ろうかと考えていると、向かって右手の奥から人影が現れた。
 あ、と思っている間に、こちらに首を回したその人の足が、不意に止まった。長身痩躯のてっぺんで、芝居がかった驚きの表情が作られている。細長い目を見開き、鼠の前歯のように出っ張った歯を少し覗かせて。
 風祭の当主、風祭吉蔵殿だ――。
「おや、黒髪のところの娘御ではありませんか」
 男にしては高い声が、玄関一面に渡った。
 話し込んでいた給仕さんが、その場で飛び上がる。慌てて振り返り、自分が仕える主人の姿を認めるや否や、一礼だけして猛然と去っていった。
 その後ろ姿を見送っていたら、吉蔵殿がほっそりした身体を揺らして笑った。
「うちには粗忽者が多くて困りますわ」 
 このへりくだった台詞、姿勢だけを見ていれば、大抵の人が彼を礼儀正しき主人であると捉えるだろう。
 でも、風祭の一家がそうでないことは、誰よりも私がよく知っている。
 今の発言にしてもそう。
『うちよりも格式が高いそちらの家に、粗忽者なんていないでしょうな』
 と、彼は、暗に嫌味を言ったのだ。
 黒髪さんのところは、うちら凡人とは違って尊い血が流れているはずですからな。まさか粗相をするような、出自もわからぬ卑しい女なんているはずもないでしょう。違いますか?
もちろんこの嫌味は、黒髪家の正統な血を受け継いでいる私に向けられたものではない。隣で小さくなっている薫に向けられたものだ。その証左に、まさか野良というわけではありますまい、と、見えるか見えないかの眼光を以て、幼いばかりの薫を射貫いている。
 こんな輩たちの言うことに耳を傾け、まともに受け答えする方がよほど愚かしい。だから私は極力、この手合いの者の話には乗らず、自分の主張だけを述べるようにしている。端的に、けれど無視を無視と取られないよう注意を払いつつ。
「悪天候のなか、不躾を承知でお邪魔をしに参りました。実は我が父の代わりとしてやって来た次第でして。年の瀬も近いので、一日も早く済ませてしまった方がいいかと思い」
「荒ぶる天の意思に背いてまで、はて、どんな急ぎ事ですかな?」
要約、わざわざ対応するのも面倒な日に何しに来やがった?
「来年の神祭事についてです」
「神祭事とな」
はて、と細い首を傾げる。
 骨の髄まで嫌味な人間だ。
「大蛇参りの件です」
「おろち、おろち……ああ」
 たった今思い出したと、彼は質のいい藍染の袖口を付き合わせて大きくうなずいた。
「そのことでしたら、息子に一任してありますよ」
「え?」
 しまった、と悔やんだが、手遅れだった。
 嫌らしい笑みを浮かべた吉蔵殿が、
「おや、そんなに驚かれてどうしたのです。言わずもがな、我が愚息もあなたと同い年ですからねえ。私のあとを継ぐ者として神事、祭事の一切を任せることにしたのですが。そんなに意外でしたかね」
「いえ、そういうつもりでは、」
「ではどうして驚かれたのです?」
 揚げ足取りの上手いこと上手いこと。コイツが妖怪であってくれたら、すぐにでも八つ裂きにしてやれるのに――なんて悪気を掻き立てるばかりで対処も考えられなくなっていた私とは違い、薫は冷静だった。
「あの」おずおずと、水分を吸った手ぬぐいを吉蔵殿に差し出す。「これ」
瞬間、乾いた音が響いた。追うように、べち、と湿った音が続く。激昂した狭量な男が薫の手を打ち、手ぬぐいが床に落ちたためだった。
「ちっ」
 私らが子供だからか、対面しているにも関わらず堂々と舌打ちをする。苛立ちによって歪んだ顔も、少しも繕おうとしない。細い目がさらに潰れ、一本の糸になった。
「おい藤村ァ!」
 先ほどまでの温厚な面構えと態度はどこへやら。恫喝に近い呼びつけ方をする。
「は、はい、ただいま」
 近くで控えていたのか、返事をしながらやって来たのは、私たちに手ぬぐいを提供してくれたおたふく女だった。畏縮しているのが一目でわかるほど、身が萎んでいる。
「おいお前。あんなものをお客様に預けっぱなしにしておくとは何事だ!」
「す、すみません」
 藤村と呼ばれた女性が身を屈めた瞬間、その尻を吉蔵殿が踵で蹴り上げた。
 平衡を欠いた彼女の太い体躯が、私と薫のちょうど間に倒れ込んでくる。
「あっ」
 薫が咄嗟に手を伸ばすも、届かない。重そうな身体がどっと石畳の上に転がった。
「……いた」
 身体を起こしながら呟いた一言。今度はそれが癇に障ったらしく、
「痛いだぁ? きちんと受け身がとれなかった己のせいだろうが」
「も、もも、もうし、」
「物事ははっきりと言えと、何度言わせるつもりだ! なぜそんな簡単なことさえできんのか」
 視線に気がついて、私は薫の方に目配せをした。そのままでいろ、と。嵐は収まるまで待つしか手がない。
 しかし、罪悪感はひとしお身に染みた。
 吉蔵殿……というより、風祭家のやつらは指図するばかりで、自分では一切動こうとしない。権力者であると自認していて(自慢かも)、ゆえに一番上の立場だから、当然命じられることにも慣れていない。薫にはその傾向を教えてあって、だから手ぬぐいを返却するという行為も思いついたのだろう。お喋り封じにはもってこいだと判断して。まさかその行く末が、こんなことに繋がろうとは。
 ひたすら謝り続ける藤村さんの姿勢に満足したのか、鼠野郎は鼻を鳴らして奥へと消えていった。
「申し訳ありません。私たちのせいで」
「いえいえ。どんくさいわたしがいけないんですよ」
 陰のある笑顔に、「いつものことですから」と書いてある。
「本当に申し訳ありませんでした。何とお詫びすればいいか……」
 腿のあたりで手を揃え、深くお辞儀をする薫は、今し方のやり取りにすっかり参ってしまったらしい。日頃は元気を持て余している長髪が、艶と力を失ってしなびれてしまっている。我が家とはまた違った生々しさに、気でも詰まらせたかしら。
「お詫びだなんてそんな。気にしないで。怪我もしてないんだし」
 ほら、と腕捲りをする藤村さん。
 ぱっと見ではあるけれど、本人の言うとおり怪我はなさそうだった。柔らかそうな肌には、痣のようなものも見受けられない。あれだけ派手に上がり框から落ちたというのに。
「それより、用事があって来たんでしょう? 私でよかったら力になるわよ」
「えっと」
 困った。
 後継者として頭を下げなきゃいけない相手はいなくなっちゃったし、神祭事の打ち合わせをしなきゃいけない相手は馬場にいる。まさか、責任能力のなさそうなこの女に頼るわけにもいかないだろうし。
「どうします? お嬢さま」
「そうねえ」
あ、閃いた。
 書き置きを残しておけばいいんだ。
「何か、したためるものを貸してもらえませんか」
「お安いご用で」
 こちらへ、と案内された先は、客間のような空間だった。三畳ほどの手狭な部屋で、板張りの床の上には脚の長い机と椅子が置いてある。あとは採光用の障子があるだけ。えらく風変わりな造りだ。
「変わった部屋でございましょう? ここはもともと倉庫の代わりだったんですよ。それを坊ちゃまが勿体ないからって」
「え?」
 あの助平心の塊みたいな平蔵が? 意外すぎる。
「この机も自作されたんですよ。文机だと、正座をするか足を組まなきゃいけないでしょ?夏場は蒸れるから、足下の風通しを良くするためだと仰ってました」
 手作りだという木製の椅子を引いて、座席を促してくる。「ささ、どうぞどうぞ」
「で、では」
 平蔵が作った。そう聞かされただけでも、この上なく不安になってくる。着座した途端にバラバラになったり、なんて。
 至当、そんなことにはならなかった。木でできているというだけあって座面は硬いけれど、座り心地さえ求めなければ必要十分だ。
 しかしまあ、椅子なんて普通、屋外でしか使わないものなのに。どうして屋内で使おうだなんて思ったのかしら。床板が無駄に傷むだけのような。
「最初は違和感があると思いますが、座り慣れてくると座椅子よりも楽ですよ」
「はあ」
 そんなものだろうか。心証としては、座椅子の方が幾分もましなのだけれど。
「ええと、墨はこれを。筆は細くてもよろしかったですかね。それから下敷きですが、引き出しの中に入っているはずですので」
 取ってくれと目で訴えられ、首を折ってみれば、確かに引き出しがあった。天板の真下というか裏というか、そこに収まった引き出しから、取っ手らしき金具が垂れている。
 こんな手のかかるものを、本当にあいつが?
 信じられない気持ちで金具に指をかけ、手前に引くと、
「あれ」
 引っかかって、筐が出てこない。
「あらま。またですか」
「また?」
「やっぱり素人が作ったものですからね。歪んじゃってるみたいなんですよ」
 一旦押し戻して再度引いてみてくれというので、そのとおりにしてみる。
 今度は素直に出てきた。黒い下敷きの布と、銀色の文鎮がしまってある。
「開きましたか。よかった。ではでは、私は玄関を清めて参りますので、終わったら声をかけて下さいまし」
「ありがとうございます」
 礼を述べて筆を握ると、そろりと薫が近寄ってきて、耳打ちをしてきた。「あれが噂の鼠大将ですか」
 実は薫、吉蔵殿とは初対面だったりする。一年も私にくっついていたのに、顔を合わせる機会がまったくなかったのだ。子鼠の方とは何度か会っているけれど。
「そうよ。話したとおりでしょ」
「いやあ、お嬢さまは何かと大袈裟だし、被害妄想をたくましくさせているだけなんじゃないかと思っていたんですけど」
 想像以上の大鼠でした。
「失礼ね。あなたほど感性豊かな役者じゃないわよ、私」
「見た目だけなら人気役者にもなれそうなのに、お嬢さまは色々と堅すぎまからね」
お芝居好きらしい意見で、くすくすと忍び笑いをする。
 可愛いから許せるものの、従者としては失格も失格だ。いや、従者以前に、目上の者に対する接し方が相当にまずい。他所様ならくびが飛んでいるだろう。やはり一度、みっちりと躾けなければならないような気がする。
 まだ何かと言いたそうなお喋りさんを黙らせ、筆をはしらせた。墨のりの悪い紙に、神祭に必要な品目と量だけを箇条に別けて書いていく。文ではなく、目録の体で。
「また意地の悪い書き方をしますね」
 背後から覗き込んでいる薫が、それこそ意地悪げに言ってくる。「だから堅いって言われるんですよ、お嬢さまは」
「なんでよ。仕事なんだから、必要最低限のやりとりでいいでしょ」
「諧謔って言葉、知ってます?」
「むしろそんな難しい言葉を、私より年下のあなたが知っているという事実に驚くわ」
 諧謔。つまり、洒落のきいた文句のこと。下品さを感じさせない、それとなく品位の高さを感じさせる軽口。私とは無縁の技術。
「さて。帰りましょうか」
 膝窩で椅子を押しのけて立ち上がり、部屋から出た。
 外はまだ荒れていた。屋敷の雨戸を風が大きく揺らし、雨粒が執拗に叩いている。このなかを戻らなければならないと考えるだけでうんざりとしてくるけど、平蔵とかち合うくらいならと思い直して、玄関に向かう。
「もうお済みになったんですか」
雑巾がけをしていた藤村さんが、わざわざ手を止めて姿勢をただしてくれた。
「ええ。とても助かりました」
 書いたものは下敷きの上に残してきたと伝えると、彼女は傘立てから私たちの分を抜いてきて、
「もうちょっと長居してもらえるなら、お茶のひとつでも用意しましたのに」
「そんな。気を遣わないでください」
 遣ってもらっちゃ困るんです。
「忙しそうですしね。また、ゆっくり来られるときがあれば、そのときは是非」
「はい。そのときは是非」
 社交辞令を述べて、藤村さんに別れを告げた。

 悪いことは重なる――などという法則を発見し、あまつさえことわざにまで落とし込んでくれた迷惑人は、一体どこの誰なのだろう。本気で恨めしい。二日続けての妖怪退治というだけでも辟易としてくるのに、出くわした相手がこれまた悪すぎだ。
「おおお、お嬢さま!」
 暴風雨にも負けない薫の喚き声。鈴というより銅鑼に近い。
「お嬢さまったら、無視しないでください!」
「うるさい! ちゃんと聞こえてる!」
 怒鳴ってようやくだ。薫ったら、どれだけ声量が豊かなのか。
「怒らなくたって良いじゃないですか!」
「いいから口を閉じていなさい」
 それで閉じてくれるなら「鈴」なんて呼ばれたりしないし、銅鑼みたいだなんて思いもしない。
「あああお母さん、お父さん。わたしもう死んじゃうかも! ごめんなさい! 親不孝をお許しください!」
 と、救いもしてくれなさそうな雨天を仰いで泣き叫んだ(さすがに演技だろうが)。
 こうしている間にも、向こう側から巨大な黒煙の塊が迫ってくる。径が二間ほどもある、瘴気のみで構成された球体の妖怪・ギョクエンが。民家の屋根の上を、蹴鞠のごとくぽんぽんと跳ね回りながら。
 ギョクエンは玉煙と書く。名が示すように、煙の姿をした妖怪だ。
 煙だから中身なんてない。渦を巻いた瘴気が徐々に集まって凝り、球体を成しただけとしか考えられない、摩訶不思議な存在。どうしてそんなものが意思を持ち、人間を襲って病をもたらすのか、いまだよくわかっていないというのが通説だけれど――
「死にたくなければ、どこかしらのお宅にお邪魔させてもらいなさい」
 これも不思議な話で、ギョクエンは、自分からは家のなかに入っていこうとしないのだとか。大きさが関係しているのか、どんな荒ら屋であっても侵入する真似はしない。らしい。私も聞きかじった程度の知識しかないし、ヤツと出遭ったのはこれが二回目だから、本当であるとは断言できないんだけど。
 それでも薫の判断は迅速だった。何の迷いもみせずに最寄りの仕立屋へと駆け寄り、名前を告げることもせずに引き戸を開け閉てする。緊急時とはいえ、とんでもない非礼を働いてくれた。
「帰ったらお仕置きね」
 それより、今は妖怪退治に専念しなければ。
 視線を戻す。
 強風に煽られ、ギョクエンの身体が風下であるこちらに流されてくる。まるで風に翻弄される綿毛のように、不規則な動きで。
 こいつを退治するには、人柱を立てるか、神氣で祓うかの二択しかない。
 ギョクエンは憑依型の妖怪で、取り憑いた人間が何らかの病を発症すると、たちどころに煙をまいて消えていくという特性を持っている。だから犠牲者が一人いれば、それだけで決着がつく。どんな病気をもらうかは発症するまでわからないけど、命までとられることはないから(もちろんこれも伝聞)、人柱を探すのがもっとも楽な解決策だとして知られている。
 もう片方の神氣というのは、まあ、私のような神子や一部の非凡な才能を持った者だけが具えた、一種の神通力のようなものだ。霊力と言ってもいい。異能の発現にも欠かせない、妖気とは対を成す神秘の気質。人間にとって妖怪の瘴気が毒であるように、妖怪にとってはこの神氣こそが毒なのである。ギョクエンのような弱小妖怪であれば、神氣の塊を一発くれてやるだけで死滅してくれるくらいには強い毒性がある。
 と、説明をつけるのは易しいが、神氣の打ち出しはそんなに楽な作業ではない。飛び道具として使おうとするなら、結構な量の神氣を体内で練り込んだ上で絞り出さなきゃいけないから。これが大変苦しい。非常に疲れる。
「だから相手が悪い、と」
 傘を捨てて、中空を蹣跚と舞う煙の塊に向き合う。
 雨がわっと顔に殺到してくる。同様に袿(うちき)が濡れそぼち、瞬く間に単衣にまで染みてきた。早く終わらせないと、重たくなるばかりか、寒気で凍り付いてしまいそうだ。
 自由になった両手を突き出し、腰を落として徒手空拳用の構えをとる。
 この五年間、父上から嫌と言うほど叩き込まれた古武術の構え。何も殴りかかるわけじゃないけど、動きやすさもあって、刀や異能を使わないときには進んでこの型を使っていた。
 一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
 ――私には、ふたつの心臓がある。
 右胸には、全身に神氣を行き渡らせ、廻すための擬似的な心臓が。
 左胸には、全身に血液を行き渡らせ、廻すための普遍的な心臓が。
 放っておいても勝手に血液を循環してくれる左胸の心臓とは違い、神氣の循環には、右胸の実体なき疑似心臓――霊体であるとされている――を動かしてやる必要がある。普通の人間にはない、普通の人間ではない私の、特別な心臓。意識的に動かそうとしなければ、うんともすんともいわない厄介な代物。
 父上は、熟練度を上げれば手順なんて踏まなくても神氣が引き出せるようになると言っていたが、未熟者の私にはまだそこまでの練度はない。動かすにもコツが必要で、手こずっているくらいだ。
 意識を集中状態にする。右胸の奥に、拳大の光球がある。と、強く信じ込む。この光の球こそが、神氣を引き出してくれる心臓なのだと。
 すっかり鳴りを潜めていた神氣の溜まり場が、一際強い脈を打った。胸には仄かな暖かみ。その温もりが、手先足先に向かって伸びていく。髪もさわさわと騒ぎ出す。まるで乾きを知らぬ泉のように、力が腹底から無尽蔵に湧いてくるようだった。
 びょう、と吹いた突風に、押しやられる煙体。お互いの距離は三間を切っている。
 視線はそのままに、重心を低く抑えながら駆る。間隙を縫って、右の掌と左の拳に多量の神氣を集束させた。引き摺られるように集まった熱は、すでに平熱よりも高い。おかげで氷水の如き冷雨に降りかかられても、両手だけは温かった。
 地面を蹴って、正面から突っ込む。
 煙のはずなのに、近づけば近づくほど、渦巻く煙の線がちぢれた毛に見えてくる。黒くて大きな、毛むくじゃらの化け物。絵巻にでも出てきそうな。ただ、絵巻の化け物とは違って、ギョクエンには目玉はおろか口すらない。それがこの妖怪の不気味さをいっそう引き立たせているようでもあった。
 落下の始まった自分の身体が、巨大毛玉の中点にさしかかった。
 どんぴしゃり。弓よろしくぐいと上体をそり、呼吸を止めて、左拳にありったけの神氣を溜め込んで――
 打ち放つ。
「はっ」
 呼気と重なって聞こえた、ぼふっという空気を叩く音。傾いだ視界のなかで捉えた、朱色の光の筋。その軌跡に貫かれた黒煙が、たちどころに霧散してゆく。
 獲った。
 遠当てなんかと同じで、物理的な手応えはこれっぽっちもないが、確かに殺ったのだという確信はあった。そも、小物妖怪風情が、高濃度な神氣の塊をまともにくらって生きている道理もない。
 着地する。沈み込んだ身体を跳ね起こして、間を置かずにギョクエンのいた方を振り仰ぐ。きちんと消滅しているのを確認するために。
 依然として荒れ続ける暗い空には、毛玉のお化けはもちろんのこと、黒い毛の一本も浮いてはいなかった。神々しさどころか、見ようによっては毒々しく映る朱い光も、雨風に溶けてなくなってしまっている。
 退治は成った。ギョクエンは神氣によって祓われ、文字通りこの世から消え去った。妖気も妖力も一切感じられないのだから、そう判断してしまっても差し支えはないだろう。 
「……はあ」
 張っていた力が抜けて、頭が垂れた。溜め息も一緒に落ちた。
 神氣の放出は、ただそれだけでも疲れる。すこぶる疲れる。体内中の精力をかっ攫って打ち出すのだから当然と言えば当然で、使えば、一里を全速力で走り抜けるのと同程度の疲弊感に襲われるのが常だった。しかもオマケつきで。
「、う」
 ぐらぐらと振れる頭。咄嗟に、指を額に添えた。視界までぐらついている。早々に目を瞑って、呼吸の整調に努めた。
 ……こうなるのがわかっていたから、運の悪さを呪った。この業を使うと、すぐ貧血みたいに眩暈を引き起こすから。神氣の量が乏しい私には向いてない。直に手を下さなくて済む分、殺害の実感が湧かないのは良点なんだけど。
 肌が、ぱちぱちと小気味良い音を立てている。雨粒の勢いが強い。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、痛かった。ギョクエンもいなくなったのだから、天気も機嫌を直してくれればいいのに。
 一度頭を振って、眩暈が収まったことを確認する。
 ふらつかない。もう大丈夫そうだ。腕をどかして、顔を上げてみる。たちまち冷たい雨に降りかかられた。それでも怯まずに重い瞼を開けて、そこいらに放った傘を求める。
 狭まった視界のなかに、傘は見当たらなかった。ざっと見渡してみても、ない。
 こんなこともあろうかと、持ち出してきたのは壊れてもいいような古い傘だ。惜しむものでもない。だというのに、無性に腹がたってしょうがなかった。ギョクエンは言わずもがな、薫に対しても。逃げる際にでも、彼女が気を利かせて傘を預ってくれていたら、怒りはこんなにも尖らなかっただろうに。
「そうね」
仕立屋への無礼な振る舞いも含めて、とっちめてやらないと。
 水を吸って重たくなった髪を手で梳きながら、人気のない大通りを突っ切った

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